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インターナショナルスクール:人種の壁を越えて友人をつくる難しさ

年寄りの独り言として聞いていただきたい。もう40年近く前の事だ。

筆者は親の仕事の関係でロンドンに住んでいた。家庭の事情で市内にあるインターナショナルスクールに通い、途中で転校して別のインターナショナルスクールに通った。

ロンドンは当時も人種の坩堝ではあったが、この二つのインターナショナルスクールは生徒の人種に明らかな違いがあった。

最初に行ったインターナショナルスクールにはイギリス人は数人いたが、それ以外は中東、アジア、アフリカからの生徒が多く、イスラム教を信仰している生徒がかなりの数を占めていた。現在は変わっているようだが、40年前の当時はとにかく中東とアジア、アフリカ系の生徒が多かった。お互いどこの国から来たか自分から言う人が多く、自然とどの人が中東で、どの人がそうでないのかがすぐに分かる様になった。日本人にも親切にしてくれる人が多く、自分の出自をオープンにしても何の問題も無かった。

次に行ったインターナショナルスクールは、アメリカ系のインターナショナルスクールで圧倒的に北欧の生徒が多かった。

恐らく、海外から来たロンドン在住者にそれぞれの国のネットワークがあり、子供を持つ親たちの間ではどこの学校が良いか何処の学校を選べばいいか情報を交換していたのだと思われる。

最初に行った学校に慣れてきた頃には、イギリス人とハーフアンドハーフの生徒が多い事に気づいた。何故か分からないが、筆者に親が何処と何処の国の人か教えてくれる友人が多くかった。友人のバックグラウンドを聞くと、少数のハーフアンドハーフの生徒たちを見掛けで「どこの人」と判断するのは難しかった。どの人がヨーロッパ出身、イギリス出身、アメリカ出身とは、ハーフアンドハーフの友人達からは見た目では全く分からなかった。
それよりも、どこの国の人であっても「自分が仲良くできる人」であるか。それが筆者が重視していたことだった。出身国が何処であっても反りの合わない人もいれば、会った最初から仲良くなる人もいた。

二番目に行ったインターナショナルスクールは、上にすでに書いたが、アメリカ系の学校で、北欧から来た生徒が多かった。北欧から来た人と会ったことの無かった筆者は、最初のうち周囲で聞こえてくる言葉が何語なのかさっぱりわからず、北欧の言葉だと気が付くのに時間を要した。見かけも色の白い人が多く、学校を一歩外に出ればどの人が学校の生徒で、どの人が近所の人か分からなかった覚えがある。

不思議な事に北欧の生徒は自分が何処の出身か自分から言わない人が圧倒的に多かった。北欧の生徒たちの中には、ロンドンに初めて来た人でも、「自分は地元ロンドンの人」とアピールしている人もいれば、アメリカに住んでいたためアメリカ英語を話す人が大勢いて、誰がどこの出身か最初のうちは良く分からなかった。

二番目に行った学校は人数も多く、自分と同じ国の人とばかりつるんでいる人もいれば、外国籍の生徒の中にはイギリス人とだけ付き合う事に全力を傾けている人もおり、フレンドリーさは無かった。

日本人の生徒も沢山いたが、授業が忙しくてお互い知り合う機会が少なく、始めのうちは同学年にいた二人と、同じ授業を取っていた一学年上の先輩としか話す機会が無かった。

二番目に行った学校では、時間が非常にかかったが、少しずつ国籍の違う友達が出来た。
最初から何かと気にかけてくれ話しかけてくれる同級生はいた。しかし、北欧の同級生との距離を縮めるのはかなりの時間を要した。彼らは自分の欲しいものには貪欲的でも、日本人と言う恐らくこれまで会ったことの無い人間には非常にシャイだった。筆者のつたない英語のせいで誤解を受け、一学期の間は完全に無視されていたのも原因の一つだった。

大人数の学校でどの人が何処の国の出身かを気にしていたら友達はできない。相手がどこの国出身かなどと気にしないでどんどん話しかけていき、仲良くなったところで国籍を聞くのが手っ取り早かった。もしくは相手が話しかけてくれたのをきっかけに、ゆっくりではあるが少しずつ仲のいい友人が出来てきた様に思う。

しかし、北欧の人と地元のイギリス人との区別が付くまでは時間がかかった。アジア人や中東、アフリカと言った、確実に当時のイギリスではマイノリティになる人種と比べると、ともすると北欧の生徒は皆地元イギリスの人の様に見えていたからだ。校舎の中では北欧の生徒たちは皆アメリカ人に見えていた。アメリカ訛りの英語を話す生徒たちが圧倒的に多かったからだ。

二番目の学校でもやはりハーフアンドハーフの生徒が居て、この人達には助けられた。親がイギリス人と別の国の人の場合、多少なりとも日本人の様な明らかに違う人種に対して親切にしてくれる人もいたからだ。

二学期が終わるころには、何とか同じ学年の様々な国から来た同級生と仲良くできるきっかけができ、ようやく周囲に馴染め始めた記憶がある。その中にはハーフアンドハーフ、もしくは国籍がイギリスではなくともアメリカやイギリスで育ったといった、二つの文化を持つ人たちもいた。また、イギリス人であってもすでにバイリンガルだった人達もいた。

後から聞いたのだが、自分の親が違う国籍同士だとはあまり人に言いたくない話題の一つの様だった。これは当時我々同級生がティーエイジャーで、自分の出自に対して神経質になっていたこともあるのかもしれない。

自分の出自を話すことは勇気がいることなのかもしれない。その勇気を出して日本人の筆者に語ってくれたことは今も有難く思う。

比較的自分の国籍を語るのにオープンだった最初の学校と比べ、二番目に行った学校では出自を語る人は少なかった様に思う。そして、初めて会う北欧人がアメリカ出身だと思っていたのも、恐らく彼らがアメリカでの滞在が長かったのかと推測する。すでにバイカルチャーになっていた彼らにとって、自分の出身国の人間と言うよりも自分の育ったアメリカの行動様式、話し方の方が身についていたのだと思う。

学校では二つの教育方法が取られていた。一つはアメリカ式の教育方法で、中学までにはアメリカの中等部卒業資格のSATを勉強し、高校生からはアメリカの高校卒業資格であるACTと,国際バカロレアの二つのコースに分かれていた。IBコースを取っていた筆者はアメリカ系の人と接する機会が少なかった。これは今思い返しても残念な経験の一つだ。

しかし、ハーフアンドハーフや、出身国以外で長く育った人たちは、外国人に対して何の偏見も無く、そうした人たちが何かと助けてくれ、彼らと一緒に過ごせたのは何よりの収穫だった。

筆者が学校の外に出て、自分の学校の生徒が近所の人と見分けがつかずにまごまごしていたことは今でも記憶に残っている。けれども、時間はかかれども、最終的には学校外に出ても近所のイギリス人と、学校内に多くいる北欧人との区別が付くようになったのは収穫だった。

自分の知り合いを学校の外で見ても近所の人と見分けがつかない。
こんなに失礼な事をしていた自分が恥ずかしかった。
最終的には彼らのそれぞれの顔が同級生と認識でき、学校の外でも挨拶できるようになった瞬間は、今でも宝物の様に思える経験だったと思う。


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