エッセイ:「ありがとう」と「お願いします」を巡る階級闘争
飛行機が成田空港を出発し,私達家族は日本を離れた。
昭和の終わり頃,父の急な転勤で私達家族は海外生活を余儀なくされた。
当時は単身赴任という選択肢が無かった様で,子供がどんなに年齢が行っていても海外赴任に同行させられた。
現地の言葉など全く使いこなせない我が家は,到着後,一足先に現地に入っていた父と合流し,新しく住む家に連れていかれた。
屋内で靴を脱ぐ習慣の無い国とは聞かされていたが,玄関の上がり框がない作りの家には戸惑いを隠せなかった。玄関の脇には父の前任者が購入したという靴箱が置かれていてほっとしたのもだった。
日本の義務教育を終えていなかった私は,街にある日本人学校という所に通学することになった。この街に進出してきている日本の会社で働く両親に同行してきた子供たちが通う学校だった。
初日,私は上履きと母の作ってくれたお弁当を持参して学校へ行った。
日本で通学に使っていた鞄を使うか迷ったが,あまりに目立つのを避けるために,ほとんど持っていなかった私物の鞄の一つに筆記用具などを詰め込んで,学校に向かった。
学校に着くと,二学期からの新入生数名を担任の先生方が迎えてくれた。
離れにある教室に向かうと,先生は外履きの靴のままどんどん教室に入って行ってしまう。
周囲に靴箱が見当たらない。
私は教室の入り口で大急ぎで声をあげた。
「先生,上履きはどこで履けばいいですか?」
途端にクラスの全員が大爆笑した。
先生は笑顔でこう仰った。
「靴は変えなくていいんだよ。そのまま入りなさい」
私は教室の中の同級生たちの靴を見てみた。驚いたことに皆スニーカーや革靴を履いている。
「本当だ!皆,靴はいている!」
また爆笑が起きた。なぜ皆笑っているのかその場では理解できなかったが,よほどおかしなことだったらしい。
先生も笑いをこらえながら,クラスのみんなに優しく声をかけた。
「皆,転校生を笑っているけれど,いずれ皆が日本に帰った時は逆の事が起きるんだよ。だから笑わない事。今から注意しておこうね」
同じクラスの同級生たちは皆優しくいい人たちだった。「全員が転校生だから,何も不安に思うことは無いんだよ」と声をかけてくれる子もいた。お蔭で新しい環境にはすぐ馴染むことが出来た。
同級生たちはかなりの年月をこの国で過ごしていたそうだが,日本人らしさに欠ける人はほとんどいなかった。日本の常識を守り,言葉や習慣も守り,日本に帰った時に不自由の無いよう,日ごろから気をつけている様だった。丁寧に毎日を過ごしている様な,穏やかな雰囲気の人がほとんどだった。
入学してしばらくたった頃,学校の帰りに誰かが「Corner Shopに行こう」と言い出した。
Corner Shopとは,お菓子や新聞雑誌,ちょっとした飲み物や食べ物を売っているお店の事で,そこでお菓子を買うという。
学校の帰りにお菓子を買うという習慣など無かった私は,好奇心丸出しで皆に付いて行った。
道路をまっすぐ地下鉄の駅の方へ向かうと,小さなお店が見えてきた。
途端に,みんなが硬く無表情な顔になったのに気が付いた。
どうしたんだろうと思ったが,皆そのまま店の中へ入っていく。私も慌てて皆に付いて行った。
店の中に入ると,一人の子がレジの前に座ったおばさんに,英語で話しかけた。
するとおばさんは立ち上がり,後ろの棚に並んだ透明なケースから,小さな茶色のお菓子を小さなスコップで掬いだすと,計りにかけた。
英語で話が交わされ,同級生は顔色一つ変えないまま,お菓子の入った袋を受け取った。
私の順番が来た。お菓子の名前が聞き取れなかったので,同級生に聞くと,「コーラアップ」というお菓子だと言う。
「コーラアップ,プリーズ」というと,おばさんは「How much ?」と聞いた。
これは「クオーターパウンズ」と答えるんだよ,と同級生が教えてくれた。
「クオーターパウンズ,プリーズ」というと,おばさんは何も言わずにお菓子を計ると,茶色の紙袋に入れてくれた。お金を払い,「サンキュー」と言いながら袋を受け取った。おばさんは何も言わず,怪訝な顔をしたままこちらを見ていた。
思っていたような楽しい買い物とはちょっと違うんだ。そう思いながら店の外に出ると,同級生からはこう聞かれた。
「買い物の時にThank youやPleaseを使うの?」と。
事前の知識で,言葉は通じなくとも買い物の時相手に何かしてもらいたいときにはPleaseを,何かしてもらったときにはThank youと言う事,と聞かされていたので,そうしたまでだと説明した。
すると同級生はこう説明してくれた。
「学校の英会話の先生からは,私たちは中流階級か上流階級だから,Corner Shopで働く労働者階級にはThank youもPleaseも言わなくていい,って言われているよ。相手にはにこやかにする必要もないし」
階級制度のある国だった。
今もここまで階級が厳密に分けられているのか分からないが,当時は労働者階級と中流階級,上流階級と言葉遣いも違えば,相手に対して使う言葉や態度も違っていた。
同級生の言っていた「私たちは中流階級か上流階級」という言葉がすぐには呑み込めなかったが,何らかの区別があるという事は分かった。
これが階級同士の摩擦,というものなのだろうか。実際に地元の人達でも,店で買い物をしている若い人がPleaseも使わなければThank youも言わず,店の人がお返しににらみつけているという場面も何度か見たことがある。現在どうなっているのか分からないが,国に階級制度がある以上,当時はこれが普通だったのだろう。
しかし,同級生のお手本を実践するのは難しかった。
買い物をして,「Here you are」と買ったものを明るく手渡してくれる店員さんにはつい日本で買い物をしている時の用に「ありがとうございます」を言うのと同じく「Thank you」が出てしまうし,大人に何かしてもらう時には,どうしてもPleaseが無いとすまないような気がしてしまった。
日本人学校を卒業すると,次にはインターナショナルスクールに放り込まれた。
地元の言葉が分からない両親の手助けをするために,私は親元に残された。大学受験をする兄弟は,日系の寄宿学校に入っていた。
通っていた日本人学校では,土曜日に補習校というものが開催される。
補習校とは,平日はこの国の地元の学校やインターナショナルスクールに通っている生徒が,日本の国語を勉強する場所だ。各クラスに先生が付き,日本国内の学校で使われている教科書と薄い問題集が手渡され,毎週のように漢字のテストもあった。
私はこの補習校に約三年程お世話になった。
帰り道,週末を利用して自宅に帰ってきている兄弟のためにお菓子を買おうと,私はくだんのCorner Shopに行った。
同級生から教わった通りに注文すると,おばさんは相変わらず仏頂面で注文したお菓子を袋に入れてくれる。お菓子を受け取って「Thank you」というと,おばさんが話しかけてきた。
「Did you go to the Japanese school down the road ?あなた,道を行った所の日本人の学校に行ってた?」
「Yes. はい」
「Just as I thought やっぱりね」
どうしたんだろうと思って,なぜそんなことを聞くのかと思って聞いてみると,
「Yes, I remembered you. You were the only one who ordered properly. Who were those girls who came with you? あなただけがちゃんと注文をしてたから覚えているのよ。あの子たちは何なの?」
と問い返してきた。
同級生は,英会話の教師から習ったとおりに話していただけだ,と説明したところ,
「Then why do you speak and order properly ?じゃあ,なぜあなたはちゃんと注文するのかしら?」と問い返してきた。
「I guess I’m ordering to an adult like you, and I do think I should say thank you and please when I’m attended.
大人に対応してもらうんだし,何かしてもらったらやはりThank youやPleaseはいうものじゃないかと」
「I see. Those students from that school are so rude. What sort of education are they providing at the school?
そうなのね。あの学校の子達は失礼な子達ばかりなんだけど,そんな教育をしているの?」
同級生たちの英会話の事など細かい事情など,知る由もない。
私は,早く話を切り上げるべく返事をした。
「I don’t know about English conversation class, but we only read a text book at English class…that's about it.
英会話の授業は分かりませんが,クラスでは教科書を読む程度です」
おばさんがこれで納得してくださったかどうかは分からないが,その国の階級制度に外国人まで巻き込まれるのだと知って困惑したのが記憶に残っている。
海外に外国人として短期間住むのであれば,そこの国のゲストであり,無作法な真似をしたらそれこそ日本人が無作法な人種だと思われる。そのように聞かされていた自分には,まさか子供までが地元の階級制度に巻き込まれるものだとは思っていなかったからだ。
階級制度のある国では,外国人の場合は親の職業で決まるのだろうか。
もしかしたら同級生の親御さんが,省庁など国の重要機関にお勤めの人もいらっしゃったかもしれない。その場合は地元の上流階級との交流もあろうし,それ相当に相応しい言葉使いやマナーも要求されるので,英会話教師が間違ったことをしたわけではないと思う。
地元の人々同士の階級別の摩擦ならわかるのだが,一時期滞在するだけの外国人も階級の区別をされる。ニュートラルな存在にはなれず,かといっていわゆる労働者階級の大人達に無礼を働くわけにもいかない。
日本では一般のサラリーマン家庭。全く裕福ではなく,どちらかというと毎月困窮しており,服や靴,学校で必要な基本的な制服や鞄,文房具などの物ですら買う事を渋られた我が家では,住む国が変わった途端に中流階級の自覚などとてもではないが持てなかった。
短期間ではあったが,言葉遣いの匙加減が難しい滞在となった。
これが長期間の滞在だったと思うと,正直自分としてはどこの階級に所属すればいいか分からなかったかもしれない。