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短編小説 : バブル期の華やかな表と裏

「何よあんた!さっさと注ぎなさいよ!」

その女性は血走った眼でカップをこちらに差し出してきた。

面倒くさいお客さんにあたったなあ・・・

その日マネキンのバイトで新商品のビールを販売していた私は、夜になってこのスーパーにやって来た女性客を目の前にして、どのように対処するか考えあぐねていた。

マネキンとは、スーパーや百貨店で試食販売をする仕事の事だ。

新商品のキャンペーンや、特価販売の時に、行きかうお客様に大きな声で呼びかけては、商品を宣伝し、販売していく。

コマーシャルすらされていない新商品の場合は、メーカーからの指示に従って商品の魅力を伝えていく。キャンペーン中は、通常金曜日から日曜日に掛けて三日間の拘束。その間に販売する商品の数も概ね決まっている。キャンペーン期間中に商品を売り切った時の達成感はあまりあるものだった。

小さな劇団に所属しながらアルバイトをして生活費を稼いでいる身にとって、自分で時間の選べるマネキンは非常に助かるアルバイトの一つだった。しかし、こちらが唯一選べないのはお客様だ。

その日、夜九時の閉店時間近くにやって来たその女性は、典型的な今どきの格好をしていた。

外側に向けてくるりと巻いた前髪にロングヘアをだらりと下げ、耳元には大ぶりの金のピアスが光っている。服は真っ赤なスーツとタイトなミニスカートのセットアップ。ウエストには幅の広い三角にカットした大きなベルトを巻いていた。スーツの肩にはアメリカン・フットボールの選手並みのパットが入り、首の周りには黄色の奇怪な模様が入った大判のスカーフが巻かれている。

ミニスカートはだらしなく後ろのスリットがほつれている。肩からは金のチェーンが編み込まれたストラップの先に小さな黒いポシェットがぶら下がり、十センチはあろうかという高い紅色のピンヒールを履いた足元は、ふらつくどころか千鳥足の様子を隠せない。

その人はよろよろしながらこちらへ来ると、私が小さな台に並べていたビールの試飲用のカップを奪い取ると、次から次へとビールを喉へ流し込んでいった。

「お代わり」

ぶっきらぼうに言ったその一言に、さてどう対処したものか私は知恵を絞った。

大概の酔っ払いの扱いは慣れてきてはいたものの、この女性の様に良い身なりをした人をスーパーで扱うのは初めてだった。

「お客様、気に入っていただけましたら、今なら百円お得ですよ。新商品なんです。ぜひ一本いかがですか?」

「注げって言ってるのよ!分からないの?!」

そう言ってカップをずいと差し出したと思うと、その女性は足を滑らせて前のめりに転んだ。傍に立てかけていた新商品のビールの看板が派手な音を立てて横に倒れる。

大きな音を聞きつけて、スーパーの現場主任が駆けつけてくれた。

四十がらみの、痩せこけて背の高いこの現場主任は、居並ぶ女性のパートやアルバイトを仕切ることに長けており、この酔っ払い客も即座に対応してくれた。

「お客様、ご来店ありがとうございます。あと十分ほどで当店は閉店でございます。何かお気に召したものはございますでしょうか?差し支えなければお手伝いをいたしますが」

「あんたに何が分かるのよ!こっちは六千万円損をしたばかりなのに・・・」

呂律が回っていないその女性は、ふらふらとビールの売り場から去ると、お菓子売り場の方へ向かって行った。

株の取引きだろうなあ・・・損しちゃったんだ。

ふと気が付くと、主任がこちらを手招きしている。

「あと五分あるけれど、今日は上がりなさい。事務所にはちゃんと八時間働いたって言っとくから。酔っ払いの前にビールを置いておくといつまでもあなたが絡まれる」

「ありがとうございます。すみませんが今日はこれで失礼いたします」

私は大急ぎで売り場を片付けて、キャンペーン用のビールの箱と看板、それに試飲用のカップをまとめて台車に乗せ、スーパーのバックヤードの倉庫まで持っていった。倉庫の中のメーカーごとに決められた場所に残りの商品が入った段ボールを積み上げ、売れ残りのビールの本数を用紙に記入していく。

社員用の休憩室で大急ぎでエプロンと三角布を外し、着古して肩のほつれた黒いロングコートを羽織ると、大急ぎで通用口まで走った。

守衛さんの所で声掛けをすると、六十近い温和な男性が顔を出し、入退室のリストを渡してくれる。退出時間を二十一時と書き込み、そのまま外へと飛び出した。

夜九時を回っていた。十二月の金曜日の今日は、巷では酔っ払いがふらついていることが多い。

スーパーを出て駅に行くまでのほんの短い間、駅前の大通りですれ違う人々はやはり酔っ払いが多かった。

「おい、オール行こうぜ、オール!」

肩に大きなパットを入れた薄い紫色やチャコールグレーのダブルのスーツに、緑や赤の派手なペイズリー柄のネクタイをした男性のサラリーマン達。

皆押しなべた様に小脇に茶色のセカンドバッグを抱えて、お互い肩を組みながら足取りもおぼつかない程に酔っている。へべれけになるまで酔っぱらっているこの男性たちも、先ほどの女性と同じように最先端のファッションに身を包んでいた。今日は徹夜で飲むようだ、

私は急いで駅へ向かい、改札をくぐると、ちょうどプラットフォームに入ってきたばかりの電車に飛び乗った。今借りているアパートの最寄り駅へ向かった。次のアルバイトがあるからだ。

最寄り駅に着くまでの間の電車の中では、やはり酔っ払いが多かった。八人掛けの長い椅子には若いサラリーマンが二人、大の字になって寝ている。正体の無い程に酔いつぶれており、足元にはビールのロング缶がいくつか転がっている。二人の持っている鞄が床に広がり、中からは書類の様なものが見えていた。

周囲の人たちは少し怪訝な顔をしながら、その二人から離れた席に一人、また一人と移動していた。

金曜日のお客さんって、こうだよね。

私達の舞台に来てくれるお客さんとはまた別なのかな。ふとそんな考えが頭をよぎった。

専門学校で舞台美術を専攻している私は,今は舞台美術の勉強と劇団の芝居の脇役の二足のわらじを履いている。

今やっているアルバイトは、どちらも大きな声を出す仕事だ。

劇団の稽古が休みの間は、学校の勉強をしながらボイストレーニングだと思って両方の仕事を掛け持ちしていた。

私達の劇団「フォリーズ」はまだ設立五年目の弱小劇団だ。

創立者で主役と演出を担当する立嶋さんの人気があるおかげで成り立っているようなもので、この人が劇団をたたむと言ったらそれで終わってしまうような場所。私達の様な脇役がどれだけ主役の立嶋さんを引き立てられるか。それをいつも問われているような劇団だった。

景気が良いこの時代、小劇場は人気を博していた。沢山の劇団がしのぎを削りあい、「小劇場ブーム」などと呼ばれることもあった。小劇場が多く立ち並ぶ下北沢は私達の様な劇団の聖地で、小劇団で活躍する人たちが一度はそこで上演してみたいという小さな劇場もあった。

幸いながら私たちの舞台に足を運んでくれるお客さんは多かった。立嶋さんのファンの方々は熱心で、毎回の公演を観に来てくださる。ファンの方々からはいつも差し入れとして美味しいお菓子を頂いていた。

私は、もともと声が大きかった。

ある日友人と行ったカラオケで偶然に立嶋さんと会い、それだけ大きな通る声をしているなら、劇団のオーディションを受けないかと誘われた。少しでも舞台の仕事に関われるなら、と思い、オーディションを受け、今は劇団に在籍して一年が経とうとしている。

舞台は主に春と秋の二回、それぞれ一週間の公演があった。それ以外の時期は専門学校での勉強の折を見ながら映画やCMのエキストラや、他の劇団の舞台美術の手伝いなどをしてはいたものの、とてもではないけれども舞台の仕事だけでは生活していくことが出来ない。学校での勉強もあるし、収入はいつもかっつかつ。二つを両立させるためにはアルバイトに頼らざるを得なかった。

人気商売って難しいものだよな。

自分が立嶋さんのような看板役者になることは想像もつかなかった。

自分はやっぱり舞台美術で食べていきたいんだろうか。

私はそんなことを思いながら、三つ先の自宅の最寄り駅で電車を降りた。

時刻は夜の九時半。バイトが始まる十時までは少し時間があった。

駅の目の前の集合ビルの三階にある居酒屋。静岡の焼津沖で獲れる魚介類が売りの居酒屋「遠州」。そこが今日の二軒目のバイト先だった。

私はバイト先の休憩室に行った。休憩室には店長が毎日用意してくれる無料で飲める冷たいお茶がある。私は湯飲みにお茶を注ぐと、持ってきていたおにぎりを鞄から出して夕食を取った。

梅干しとおかか。このところ毎日同じ具が続いているが、田舎の母が送ってくれた梅干しは小さな樽に一杯あり、毎日でも食べ続けないと傷んでしまうかもしれない。

「ひとみ、お疲れ様!今日はこれから?」

同じ劇団員で、ここでバイトをしている早苗が入り口から顔を出した。

「うん、今日は遅番なんだ。早苗はもう上がり?」

「ううん、今日は最後まで。舞台もお稽古もしばらくないし、今稼いでおかないとね」

「そうだよね。次の舞台、三月だよね。早くお稽古が始まらないかな・・・」

「まあ、今のうちに体力つけておこうよ。明日の朝、ジョギングするけど一緒にやる?」

「うん!行く行く。ついでに例の公園に行ってボイストレーニングしようよ」

「了解!ここのバイトでも十分ボイストレーニングになるけどさ」

あはは、と笑って、早苗は大きな薬缶からお茶を注いだ。

注いだお茶をぐいっと一息で飲み干すと、

「ひとみ、もう食べ終わった?なら、そろそろ行こう!」と元気な声で言った。

「今日は金曜日で書き入れ時だよ!おっきい声だして行こう!」

早苗は満面の笑顔でそう言った。

目鼻立ちの大きな早苗はまさに舞台顔で、遠くから見てもクリっとした瞳やすっきりした口元がはっきり分かる。彼女は役者として大成したいと常日頃から言っており、他の劇団から仕事のお声がかかることも度々あった。

遠州の文字が大きく背中に入ったTシャツに着替えてエプロンを締めると、私たちはフロアに出た。厨房にいた店長の富永さんに挨拶をする。

「店長、お疲れ様です。今日もよろしくお願いします!」

「はい、よろしく!!」

富永さんの轟くような大声が帰って来た。

富永さんは静岡出身で、若い頃は静岡から単身で東京に出てきて劇団で役者をされていたそうだ。しかし、三十代の頃になって自分の店をもって切り盛りしたいという気持ちになり、劇団を飛び出すと、借金をして今の店を構えたと言う。

「遠州」の名前も、富永さんが故郷にかける気概を現しており、店の目玉商品も静岡の海産物で彩られていた。

金曜日のフロアは満席で、お客様からは次々と注文がかかる。

「ビール・ドライ、大ジョッキで四杯ね!」

「カツオの刺身、ちょうだい」

「ホッケの開き、二人前!」

「金目鯛、ある?」

すでにフロアに出ていた先輩たちが、注文をどんどん捌いていた。

「ビール・ドライ、5番テーブルへ!」

「カツオ、もうじきあがります!」

「ホッケ、あと五分ちょうだい!」

「金目、煮つけと開きがあるから聞いて来て!」

などと声が飛び交う。

私は金目鯛の注文を取りに三番テーブルへと向かった。

テーブルには仕立ての良さそうなカラフルなシャツを身に着け、首元のネクタイを緩めた四十代と思敷き男性が二人座っていた。

「お客様、本日金目鯛は煮つけと開きがございます。いかがいたしましょうか?」

「煮つけと開きか・・・今日はビールだから、開きにするかな・・・あ、日本酒ある?」

「はい、熱燗と冷酒がございます」

「じゃあ、熱燗と金目の煮つけを頂戴。二人前ね」

「かしこまりました!」

テーブルの間をすり抜けながら、私は厨房に注文を通す。

その間、わいわいと盛り上がっているお客様の会話が漏れ聞こえてくる。

「このあいだハワイにゴルフに行ってきたよ。ワイコロアのコース。やっぱり冬は暖かい所に行くに限るね」

「ハワイでゴルフかあ。あっちはあれだろ?日本語だけでも通じるだろ?」

「もちろんさ。海外に行って言葉が通じないのは不便だもんな」

「買い物も便利だよな。あっちのコンドミニアムも手ごろな値段だし、そろそろい一軒買おうかと思っているぐらいだよ」

「何だよ、それ!北海道の別荘だけでは足りなくなったのか?本当に銀行は儲かってるんだな」

「まあ多少なりとはだけれどね。そちらも相当景気が良いんだろう?」

「ああ、投資は今順調だよ。ハワイもそうだけど、アメリカ本土やヨーロッパでも不動産投資がうまく行っててね。ホテルの買収やゴルフコースの買収。まあ色々あるよ」

「フランスのシャトーやスコットランドのゴルフ場を買収したのはそちらさんだったっけ?」

「いや、他社さんだよ。景気の良い顧客が付くと、大型のビジネスも転がり込んでくるよね」

「フランスのシャトーは驚いたよな。ちょうどボジョレー・ヌーボーで日本が盛り上がってきた頃だろう?何億だったっけ?単なる投資のためだけなのかね」

「いや、シャトーを買った人はめっぽうワイン好きだと聞いているよ。それじゃなきゃおフランスのワイン処を手にしても、ご近所さんから掌を返されるに決まってる。

まずかったのはゴルフ場買収じゃないかな。買ったご本人がスコットランドになかなか顔を見せないから、相当な反感を食らったようだよ。これからはスコットランドに住所の無い人間には不動産を売ってくれないかもしれん」

「まあ、無茶な買収は控えた方が良いんだろうけどもね。ただ億単位のビジネスなら世界を見渡せばまだまだ眠っているだろうし、これからが本番かもしれんな」

億単位のビジネスかあ・・・

私は金目の煮つけと熱燗をテーブルに置きながら、ビールで火照った顔でビジネスを語り合うお客様の言葉に耳を傾けた。

こんな会話、お芝居には出て来るのかな。実際に私たちの舞台が億の単位の売り上げを叩き出せるとは思いもよらないが、芝居の中だったらどうだろう。

億の単位のビジネスの話。

芝居だとしたら、場所はどこだろう?まさか居酒屋で展開される話にはならないのでは?

どこか、秘密の会員制のクラブか何かで、ゆったりした革張りのソファーにローテーブル。ブランデーグラスや葉巻、分厚い革張りの書籍が詰まった書棚といったプロップや大道具も必要だろう。

それとも、ガラス張りで無機質な会議室が入った近代的なビル。謎めいたビジネスマンたちが、アタッシュケースに札束を詰め込み、商談をする。

アタッシュケースはリサイクル市で古い物を探してくる。紙幣は円にしようか、ドルにしようか。アタッシュケースの表面に見えるお札の下に詰める新聞紙も沢山いることだろう。

ふと我に返り、私は厨房へ向かった。

「はい、ホッケ出来ましたよ!五番テーブル!」

焼いた魚の開きがじゅうじゅう言っている熱いうちに、テーブルにお届けする。
お客様がこちらを見て待ちかねたかのように声を上げた。

「おっ、やっと来たね」

「お熱いのでお気を付けください」

「はいよ。ここの居酒屋の魚の開きには目が無くてね。どうだい皆、美味そうだろう」

テーブルにいた他のサラリーマン風の三人も熱心に相槌を打ち、八本のお箸がみるみるうちにホッケの開きから美味しそうな身を取り外していく。

「そういえばこの間言っていたいイギリスへの工場の進出、あれはどうなったんだい?たしか本決まりになったら、お前が行くことになってたんじゃなかったっけ」

問いかけられた若い三十台程の男性が答えた。

「いや、あの話は流れましたね。地元の猛烈な反発に遭って。ほら、あの国にはすでにT社が工場を建設したじゃないですか。我々が進出を試みた時には、すでにこれ以上日本の資本はいらないと酷評でしたよ」

「いやあ、もったいないね。日本車の人気がこれだけ高まっていて、あちらの国で生産できれば地元の人が日本車をもっと安く買うことも出来るようになるだろうに」

「やはり地元の産業界が反発しているようですね。ほら、イギリスにも世界に名だたる高級車が目白押しじゃないですか。そこに日本の高級車の生産拠点を作るのには、地元の人たちの精神的な反感があるようで」

「そういうものかね。一社が進出しただけでも厳しいものなのかな」

「でもまだまだこれからですよ。いずれ他の国に生産拠点を設けて、日本の良質な高級車を販売する。その為だったらうちの会社も負けていないですからね」

車かあ・・・

そういえば運転免許を取ることをすっかり忘れていた。
大型車両を運転できる免許があれば、舞台セットを運ぶトラックも運転できるのに。
いつも大道具のやっちゃんが徹夜で作業場から3時間かけて劇場までセットを運んでくれる。やっちゃんがいなくなったら誰がトラックを運転するのか、私たちも時々懸念をしていた。

今目の前にいるお客様の話している高級車とは全く違う世界だけれど、いつか私も車を運転できるようになりたい。ベンツのトラックは無理だろうけれども、せめて10トントラックとか。

時間はあっという間に過ぎ去り、時間が十一時半を回った。ラストオーダーの時間だ。

その時、二人連れの客が雪崩込んできた。

ダークスーツに身を包み、派手なシャツを襟元からのぞかせた初老の頭の禿げた男性と、ピンクと黒のスーツに身を包んだ髪の長い若い女性。一瞬親子かと思うほど年の離れたカップルだった。

「え?ラストオーダー?まだ大丈夫なんでしょ?ワインかなんか無いの?」

明らかに酔っぱらっているその男女二人連れは、店の中央の六人掛けの七番テーブルに腰を沈め、私に赤い顔を向けて同じ言葉を繰り返した。

「ハウスワインならご用意がございます」

「ちゃんとしたフランスのワインなんでしょうね?」

今日のワインの原産地はさすがに確認をしていなかった。

「確認いたしますので少々お待ちください」

大慌てで厨房に行くと、店長が「大丈夫。フランス産だよ。ブルゴーニュ産のワイン。細かく聞かれたら、ボトルを持って行って見せてあげて。」と言ってくれた。

テーブルのお客様の所に戻り、フランスのブルゴーニュ産だと伝えると、即ボトルで注文が入った。アイスバケツに氷を入れてボトルを差し、二つのグラスと一緒にテーブルにもっていく。その間、二人のお客は熱心に海外旅行の話をしていた。

「ほらあ、この間パリに行ったときにエルメスに行ったじゃない。あの時買ったのと同じバッグが欲しいのよ」

「でも、そのバッグ、もう持っているんだろう?まだ買うのかよ」

「一つは使う用。一つは保管用。もう一つは色違い。三つ持つのが常識でしょう?」

「はいはい、分かったよ」

「今持ってるのが黒のバッグだから、次はキャメルね。スカーフもちゃんと買ってきてよ。エルメスに行ってスカーフの一本も買わないなんて馬鹿にされちゃうわ」

「スカーフももう何本も持ってるじゃないか」

「だからあ、使うのと保管用。最低でも二本は持っていなきゃ」

「東京でも買おうと思えば買えるじゃないか。それじゃダメなのかい?」

「駄目よお!何言っているの、パリで買うからこそ価値があるんじゃないの。東京で買ったなんて知れたら笑いものになるわ」

「どこで買ったか言わなければいいのにね・・・分かったよ、キャメルのバッグとスカーフね。他に何かあるかい?」

「他にも良いの?それじゃあね・・・」

女性の物欲にはとどまりが無いようだった。どうせなら彼女をパリに連れて行ってあげればいいのに。そんなことを思いながら私は早苗と一緒に厨房の奥で片づけ物を始めた。

二人の客は、そこから一時間、ボトルを二本明けた。赤ワインから始めて、白ワインを飲み、最後の一杯が終わったところで店は看板となった。

酩酊状態になってもまだ飲み足りないと言っているその二人組を、先輩たちが両脇を抱えて店の外に誘導していくのを横目で見ながら、私はフロアの掃除を始めた。

それぞれのテーブルを順番に拭いて椅子をテーブルの上に上げていく。
床を箒と塵取りで掃き清めてモップをかけ、入り口のドアに雑巾をかける。

今日もこれでバイトはおしまい。

毎日見ている光景ではあっても、居酒屋やスーパーで出会う人たちの日常がいかに自分の日常とかけ離れているかを思わされる。そこが面白くてたまらない。

景気の良い世の中。だからこそお客さんが私たちの舞台を見に来る余裕があり、そしてビジネスの世界も盛り上がっている。遠い外国にはまだ行ったことが無いけれども、そこでビジネスやショッピングに明け暮れる人たちもいるんだ。

毎日バイト先で出会う人達。

この人たちを舞台でどう再現しよう?

脚本を書くのは、今は無理だとしても、いつか自分の手でお話を紡ぎ出し、舞台の上にのせてみたい。

登場人物がどのような人で何の仕事をしているのか。今の社会情勢のなかでどのように生きているのか。それを現してみたい。

お酒のある所では人は本音を語りやすい。

今日お店に来た景気の好い投資家の人達や自動車会社の人達。何を職業にしているのか分からないような人達。六千万円損をした人。色々な人たちのドラマを、一瞬だけれども垣間見ることが出来た。

今日から少しずつメモを取ってみよう。

そしてお話が出来たら、どうしよう。

高瀬さんに一度見てもらうか。
それとも自分でメンバーを募って、舞台を一から作り上げるか。

遠くで早苗が私の事を呼んでいる。

将来なんてどうなるかは、今は分からない。けれども今思いついたばかりのわくわくしてくる考えを胸に、私は早苗の待つ休憩室へと向かった。

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