煩悩の犬は追えども去らず。
何処へ行くでもカメラを鞄に忍ばせて家を出る。
ふと目に留まる、ありふれた日常を写真に収める。カメラが無くて写真を撮れないと、夜まで引きずる。鞄に戻す労力を惜しみ、カメラを抱えながら歩くこともざらだ。
今年になって、私の機材一覧にLeica M Typ 240とLeitz Summicron-M 1:2/50が加わった。レンジファインダーは、他のシステムとは異なる撮影体験を提供してくれる。
憧れの機器を手に入れ満ち足りた生活をしていたつもりが、数か月ののち、Ernst Leitz GmbH Wetzlar Summarn f=3.5cm 1:3.5(L39)を購入した。
以前は苦手だった35mm。
そんなレンズを購入するに至った極々個人的な記録である。
煩悩の犬
Leica M Typ 240とLeitz Summicron-M 1:2/50の組み合わせは、ごく当たり前の景色に意味を持たせ、シャッターを切る理由を与える。やや誇張気味で、でも説得力のある描写で、私が見た景色をデジタルデータに変えていく。
Leitz Summicron-M 1:2/50に限らず、私の中で50mmは、最も肌に合う焦点距離だ。単焦点レンズを数多く出し入れしてきたが、手元には常に50mmの単焦点レンズがある。
今は、性格の異なる50mmレンズが4本、手元にある。減ったほうだ。
いつもの距離感
50mmは、感覚的に見えたものをそのまま写せる。実際には間接視野も含め広範囲の景色を認識しているが、自分がカメラを携えて見る世界はだいたい50mmの焦点距離で収まる範囲だ。50mmを汎用レンズと呼べる。私はそのような「体質」だ。
一方で、35mmという焦点距離はとても難しい。
50mmの体質では、35mmは、意識の外にある景色が四角い枠に忍び込んでしまう。だからと言って、では35mmで景色全体を捉ええようと引いた視野を意識してカメラを構えると、今度は少し狭すぎる。
最初は新鮮味があって取り立てて使うが、次第に家の中で留守番をするようになる。それが私にとっての35mmだった。
子どもとの距離感
大人にとっては取るに足らない全てが、子どもにとっては新鮮な発見だ。
何かを手に持ち、自慢げに掲げながら、駆け寄ってくる。
親としては、その表情を写真に収めたい。
撮影した瞬間、撮影されたものは過去のものになり、時間の流れから孤立する。スーザン・ソンタグに感化された私の考えでは、私が人差し指に力を加えた瞬間、その朗らかで誇らしげな子どもの表情は、永遠という額縁を与えられる。
いつものように気の置けない50mmを取り出し、子どもの方に向けた。
その表情を撮ろうとしたとき、睡眠不足の日の朝のような違和感を感じた。
距離感が合わない。
手が届く範囲にいる子どもに対して50mmは「望遠」なのだ。近すぎて圧迫感が出てしまうのを避けようと一歩引くと、今度は他所の子を見るような距離を感じる。24mmや28mmにすれば、広く一連の景色を写すことはできるが、これでは子どもを遠くから観察するようなよそよそしさが出る。
丁度良い距離感で、自分が子どもと一緒にそこにいた事実を表現したい。
丁度良い距離感
LUMIX S 20‐60mm F3.5‐5.6。
このレンズは私の中でキットレンズ、そしてズームレンズの概念を変えたレンズであり、今最も使用頻度の高いレンズと言っても過言ではない。
Leica M Typ 240を買う前、遥か数年前にLUMIX DC-S5を買ったときに同梱されていたこのレンズを35mmに合わせ(私はズームレンズでも伝統的な焦点距離に合わせてから使う)、駆け回る子を追う。
実に具合が良い。
食卓を挟み、ご馳走を前に満面の笑みを浮かべる我が子と相対する。
実に、実に、具合が良い。
ごめんなさい、35mm。
なんて丁度良い距離感なんだ。
子どもが生まれてからは撮って出しで写真を撮っているので、メーカーによる現像時の味付けは重要な差別化要素だ。
LUMIXで人を撮ると、肌の透明感が写る気がする。
Leica M Typ 240で人を撮ると、その人の熱が写る気がする。
何かに夢中な子の表情には、いつも以上に溌剌とした熱量が宿る。
Leicaのボディで35mmを使いたい。
煩悩の犬は、吠えることなく、気づかぬうちに忍び寄る。
パブロフの犬
私は35mmのレンズが気になった
何をしていても
35mmから逃れることが
出来なかった
やがて私はWebを漁るようになり
家庭をも仕事さえも
かえりみぬ男になっていた
大槻ケンヂの教えをちゃんと理解している自信はないが、私はどうやらパブロフの犬に嚙まれてしまったらしい。
リング・ア・ベル
良い作例を見つけると、そのレンズを試さずには居られなくなる。
L39マウントを含めたMマウント界隈には、35mmのレンズがひしめき合い、そのレンズの数だけキャラクターが存在する。
憧れの頂点は、Leica Summilux M35mm F1.4 11301である。滲むレンズを求めErnst Leitz GmbH Wetzlar Summarit f=5cm 1:1.5を手に入れた私にとって、11301は垂涎の的だ。しかし、高嶺の花である。購入を夢見るだけで、本当に家庭をかえりみぬ男と呼ばれるだろう。
Ernst Leitz GmbH Wetzlar Summarn f=3.5cm 1:3.5は、以前から存在を知っていた。コスト面を含めての評価であろうけど、このレンズは評価が高い。作例を見ると、とても普通の写りなのだが、言い知れぬ匂いを放っているではないか。良い塩梅でアナログらしさがある。
アナログらしさを具体的に表現することは非常に難しいが、デジタル写真の刺々しさを感じさせない、何処となく色褪せた、目に優しい印象を与える。
サードパーティに目を向けても、35mmという世界は群雄割拠の状態。
「アナログらしさ」と「クラシック」を安易に紐づけてはいけないが、Voigtlander NOKTON classic 35mm F1.4の評価は高そうだ。この記事を書くにあたり再度Webの作例を確認したが、やはり良い。コーティングをわざわざ二種類も用意するなんて、コシナのやる気に乾杯。
リング・ザ・ゴング
選択肢を増やし過ぎて良い事は無いので、試写は二本に絞った。
候補1:Ernst Leitz GmbH Wetzlar Summarn f=3.5cm 1:3.5 L39前期型、略してSummaron
候補2:Voigtlander NOKTON classic 35mm F1.4 SC VM、略してNOKTON
店舗でのお試し撮影のため、画像掲載は自粛する。
画像を載せない以上、どのような言葉も説得力は無いが、印象に残ったことを書き残す。試写の確認には、Leica M Typ 240のかの有名な液晶画面ではなく色域の合うモニタで確認した。
Summaron
暗部がストンと落ちる感覚。
Web上の作例の一部はソフトフィルタを装着したような柔らかな滲みがあるが、個体差なのかコンディションなのか、そこまで滲む印象は無い。
色味は、マゼンタ寄り。NOKTON
暗部のなだらかな移り変わりが印象的。
店舗照明のLEDライトに対し、1.5段絞った程度でも美しい光条が出現。
色味はかなり原色に忠実で、全体的に端正な、優等生的な写り。
願わくは、屋外で撮影したかった。
特筆すべきは、Summaronの歪み補正精度の高さ。光学設計は全くの素人なのでどれだけの技術的優位性があるのか分からないが、戦後間もない1952年製造のレンズが、光学設計のみで破綻無く歪みを抑えている。NOKTONは意地悪く観察すればわかる程度に樽型傾向だった。
イントゥ・マイ・バッグ
そうして、Summaronは鞄の中に納まった。
Summaronは惚れ惚れするような描写ではなく、どこか野暮ったい気だるい写りだ。ソール・ライターでは無いが、モノクロではなくカラーにしたときに顕著な違いが現れる。しかし、否、寧ろ半世紀以上前のレンズと現代のレンズを比べている時点で可笑しな話だが、デジタルの日常にアナログライクなまろやかさを与え、時間軸を外すのに丁度良い印象を受けた。
現代のレンズから考えると不思議なことに、絞りを変えようとすると距離環も回ってしまうという特徴のあるSummaronだが、一々無限遠まで回しロックするというプロトコルを心の中で噛み締める時間が好きだ。
さいごに
購入当日にSummaronで撮影した新宿のスナップ写真を載せる。
全てJPEG撮って出し。
さて、煩悩の犬は、まだそこらに居るのだろうか。
菩提の鹿は、招いても招いても、現れる気配が無い。