「幸せ」の押し付け、強要 Nの幸せとは
世界で一番だるい話。
「幸せ」の話。
幸せという言葉を使う一番の機会といえば、恐らく結婚とか、恋愛。
第三者が言う「お幸せに」だとか、
プロポーズによくある「幸せにする」だとか。
それって本当に「幸せ」なのか?
独身の人に「早く幸せになってほしい」とか言う人も見かけたことがある。
それは「結婚=幸せ」という価値観の上でしか成り立たない文言では?
本人が「幸せです」というのであれば、それは間違いない。
本人の幸せは本人にしか決められないのに、それを第三者の物差しで気安く「幸せ」と定義するのは、あまりにも横暴ではないか?
結婚してなくても、恋愛してなくても幸せな人はいる。
富豪でなくても、高学歴でなくても幸せな人はいる。
逆に、結婚していても、恋愛していても苦しい人はいる。
富豪でも、高学歴でも苦しい人はいる。
他人が「幸せだろう」と思ったからといって、本人が「本当に幸せ」だとは限らない。
幸せという概念の押し付け、一般化。
うまく社会化することを「幸せ」と定義して、人々に憧れさせようとする洗脳なのか?
もちろん、「幸せ」だけではなく、「楽しい」「悲しい」「辛い」「苦しい」など、全ての感情や状態が人それぞれであり、個人差が激しいことは言うまでもない。
それでも他の言葉と比べても、「幸せ」の押し付けがあまりにも蔓延しすぎている。
「一般的に使われてるんだからいいじゃん」と思うかもしれないが、それは脳死ではないか?
一度でも幸せを押し付けられたことのある人ならわかると思う。
というより、幸せを押し付けられた人にしかわからないのかもしれない。
何の気もなく「幸せ」という言葉を使った結果、傷つく人もいるのだと。
とはいえ、実際私はまだ「幸せ」の押し付けで傷ついたことは多くない。
それでも疑問に思う。
この思想は恐らくNの人の方が共感できるのではないかと予想している。
他人の評価より、自分の満足を重視する人は共感できるだろう。
Sが多数派である世の中では、Nがこのような疑問を持つのは仕方ないことだ。
Nの人は「自分が何者であるか」「生きる意味は何なのか」と同時に、「自分の幸せとは何か」について、1回くらいは考えたことがあるだろうから。
私は今、幸せではない。
そして今後、幸せになることあったとしても、ほんの一時だろう。
たとえ今目標としているものを達成できたとしても、さらに次を求める。
それが現実的なことでなくても、絶対に叶わないようなことだとしても。
それを追い求めているマインドがある限り、絶対に満足することができない。
そして、その目標はオリジナルなものであり、恐らく他人に認められるものではない。
自分の道を進む、ということで満足できるのがNなら、もう進むしかない。
死ぬまでずっと、自分の目標に向かっていくしかない。
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