モンゴルとバイカル湖
#行った国行ってみたい国
25年前、夫とのただ一回の海外旅行に選んだ旅行社に久しぶりにアクセスしてみて素敵なツアーを見つけ、矢も楯もたまらずすぐに申し込んだ。25年前60歳だった私。今年は〇歳、
無事に旅することができますようにとお守りのつもりで、旅行保険にも入って、いざ出発。
2018年7月5日
航空機は窓際の座席だったので、様々に思いを巡らせながら時を過ごしす。
最も大きな感想は「モンゴルについては、何も知らなかったなあ」。
いきなり大砂漠になる。それがかの有名なゴビ砂漠。ゴビ砂漠はもっと西の方、アラブに近い所と思い込んでいたのだ。国の大部分が、草原なのだと思っていた。Wikipediaによると中華民国(蒋介石の)がモンゴルを自国領と主張していたがソ連圏の国であって、1992年にモンゴル人民共和国からモンゴル国へ改称。
なぜこんなことにびっくりしているかというと、世界の4大文明はすべて大河のあるところに発生しているが、大河があれば文明が発達するというような単純なものではないのだね。人類が快適に住まえる場所であって、肥沃な土地が広がっているという大きな条件が、必要なのだ。(アタリマエダロ)
ゲルを宿泊施設としているホテルへ向かう。テレルジ国立公園内のテレルジ・ヒルズ・ロッジについたのは午後10時過ぎ。もちろん真っ暗である。
ここで3泊する。宿泊用のゲルは、3部屋が組み合わせられていて、
真ん中に水回りが集められている。この写真では左側が私のゲル。
7月6日(土) テレルジ国立公園の観光
オボーは石が積み上げられ様々な色の布が巻かれたもので旅において道中の安全を祈願してオボーの周りを三周、時計回りに回る事が慣習である。
普通は地面から石を拾いそれをオボーの上に積み上げる。甘いものやお金、ミルクやウォッカを供える場合もある。もし急いでいてオボーに立ち寄る時間がない場合は、オボーを通り過ぎる際にクラクションを鳴らすことでも良いとされる。でも車のない時代からオボーはあるのだろう??
モンゴルは、ずっと中華民国の支配下にあったと思っていたが、1921年にソ連の支援で独立し、1924年11月26日に「モンゴル人民共和国」が誕生。なんと世界で2番目の社会主義国だったのだ。中ソ対立により再び中国と敵対関係となる。道理でガイドさんが中国の事をよく言わなかったなあ。
ソ連に従属する15の共和国があり、モンゴルは、それには属さなかったけれどソ連一辺倒の政策を続け、「ソ連の16番目の共和国」とまで呼ばれた。
1980年代後半、モンゴルでもソ連のペレストロイカが波及して民主化運動が高まり、人民革命党の一党独裁政権は1990年に崩壊、複数政党制による自由選挙で行われる大統領制と議会制を導入して人民革命党と民主化勢力の連立政権へ移行した。その後「モンゴル国」と改称し社会主義の放棄を実行。
モンゴル人民共和国は名実とともにその歴史的役割を終えた。
(以上ウイキペディアより)
モンゴルの社会主義はかなりうまく機能していたのではないだろうか。例えば、学校教育の平等性である。子供たちは、学齢期になると、どんなに遠い田舎に住んでいても、親元を離れて、寄宿生活を送り、夏には夏休みで帰ってくるが、逆に、都会からキャンプ生活に田舎へやってくる。
モンゴルが中国の友好国でなく、ロシアの友好国であったというのは、目から鱗である。そしてソ連に完全に従属する共和国ではなく、ある意味で、対等の立場を持っていたということも、この国の独自の発展のためにとてもよいことだったのだろう。
そういえば、あの時代は、私はもう50歳を超えていたのだから、自分で外国については新しい知識を得る努力が必要だったのだ。今回の旅行はチンギスハーンの時代から現代まで、私の蒙古についての知識の空白を埋めてくれる旅だった。
次いで亀石という巨大な岩へ。到着寸前、ガイドさんが「あの岩まで、どのくらい時間がかかると思いますか」といったところで、寝込んでしまった。
次に目覚めたときバスの中は空っぽ。運転手さんもいない。どうして出たらよいのかわからないので、窓をたたいていたら運転手さんが気づいて開けてくれた。したがって亀石の正面からは写真を撮っていない。
土産物屋のゲルなどを覗いてまた乗車。
この後、本物の遊牧民のゲルの見学があったのだけれど、写真が見当たらない。次の写真はバスの窓から撮ったもの。
今ではゲルのそばに電柱があり、テレビや冷蔵庫なども使えるようだ。
私見だが、第2次世界大戦後、ソ連寄りだった所為での発展は大きいと思う。中国寄りだったら??
深夜12時に星の観測があった。さぞかしとは思ったが、
疲労回復優先で参加しなかった。
7月7日(月) 午前、野の花を探しに
ガイドのムフさんの得ている情報をもとに、高山植物などを探す。
テレルジ国立公園は高度1000mから2000mらしいので、
高山植物の宝庫である。
もちろん低地で見られる花々もたくさんあった。
ゆったりと、お花畑を歩き、放牧ヤクのそばまで近寄ったりした。
午後 ミニ・ナーダム祭これは出発前から、期待していたのだが、ツーリスト向けの演技である。それでも結構楽しかった。モンゴル馬頭琴は、何となく昔からの憧れで、音は?形は?と思っていた。思いがけないほどの低音の弦楽器で、演奏者は歌も歌い、これまた低く響く声だ。調弦する部分が馬の頭部の形になっている。馬頭琴奏者は何となく芸術家だと思った。
モンゴル相撲などもあった。本物のナーダム祭りは7月11日から。各所に、準備は始まっていて遠くから祭りに参加する馬も集まっているようだった。
総括するとモンゴルの滞在は、結構よかった。
7月8日(月)テレルジ⇒ウランバートル
ウランバートル市へ向かう。この道は常に大渋滞との事で、時間がかかる。
モンゴル最後のハーンであった生き仏ボグドハーンの夏の宮殿
仏像や仏画が展示されている。
別に冬の宮殿もあって、そこには、ハーンや后の衣装や調度品などが展示されていたが疲れと飽きで写真は写していない。
昼食は和定食。それなりにおいしかった。モンゴルの食事はほとんど不満はなく、ホテルの食事などもおいしかったと思う。
ガンダン寺 1727年創建
ホルローギーン・チョイバルサン がスターリンの指示のもとに
1000人の僧侶を粛正したといわれている。(1938年)
しかし社会主義政権下であったにもかかわらず
その政権の監視のもとに1944年から復興が始まり1990年までにほぼ復興。モンゴル仏教界の最高学府になっている。
(モンゴルの人々の熱意に感動するね)
この日最後に訪れた民族舞踊ショーは素晴らしいものだった。
おそらくこの国の、プロ中のプロたちが演技と演奏を見せてくれたのだろうと思う。ホーミーという不思議な歌唱法にも引き込まれた。
ホーミーとは一人の人間が二つの声を出して歌う男性による歌唱法であるが,歌詞をもたず,むしろ器楽的である。
一つの声は喉の奥から絞り出される一定した持続低音,もう一つの声は口腔内の形を変えることによって得られる倍音である。
聴き手は主として倍音の動きを旋律として追っていく。
(コトバンクによる)
女性の演者たちはみな美しく、初めて見るような様々な楽器を演奏する。
中国風の軽業もあって、人間の究極の動きを見るようだった。
しゃぶしゃぶ風の夕食の後ホテルに戻る。
7月9日(火) ウランバートル観光
首都ウランバートルのスフバートル広場。モンゴル革命の父とよばれる政治家、革命家スフバートルの騎馬像がある。彼はモンゴルが、中国の支配から独立するについて、大きな功績を残したが、29歳で亡くなった。
(暗殺されたとの説もある)
今もモンゴル独立(中華民国から)の英雄として人々の崇拝を集めている。
ただ、建国関係その他の英雄の像だといっても
外国人の私にはあまり興味はない。
西郷隆盛や坂本龍馬の像を見る外国人も同じように思うのではないかな。。
ガイドさんは一生懸命話している。
そんなことより、この青空のすばらしさはどうだ。
この国には、鉱山以外の重工業はほとんどないので、公害とは無縁。
大草原の中で穏やかに暮らしている人々には、
たとえ都市化の波に飲まれようとゆったりと穏やかな気性が
維持されているのではないかと思う。しかしながら都市化の波はどんどんウランバートルを飲み込んでいる。マンションに住むのは憧れであるという。建築中のマンションが各地で見られた。
ザイサンの丘へ。270段の階段を上る。
展望台には、第2次世界大戦を描いたモザイク画
シベリア鉄道乗車
ホテルに戻って、シャワーを浴びたりしたのちシベリア鉄道のウランバートル駅へ向かう。すでに列車は入っていた。
2段ベッドが2個あって4人定員の部屋だけれど、4人分の運賃を払って一人で使うことになるわけだ。二人参加の人は二人で使う。一人参加追加料金が、ホテルでも列車でも必要になるから、ツアー料金が高額になるのは仕方がない。残念だったのは、すでに長距離を走ってきた列車の窓が、汚れていたことだ。撮った動画がとても汚れている。
我々には半日、バイカル湖のそばを走るという時間的条件があるから
もっと上級の車室はなかったのだろう。シーツもきれいだし、不満はない。
走り去るモンゴルの風景を小さなスケッチブックに1枚描いて、広げたままだったら車両の係りの女性が来て、絵を欲しいという。
なんだかうれしくなって、ちぎってあげてしまった。
また描けばいいと思っていたけれど、その後夕暮れまで、同じような風景が現れず、残念だったなあ。
ダルハンという小さな駅で停車したが、私の車室からは駅舎も見当たらず
コカ・コーラの看板を上げた小屋のような売店があった。添乗員さんに頂いた記録では、モンゴルの人口の半分が、ウランバートルに集中しているそうなので、モンゴル第2の都市の駅は寂しい。
10時ごろから国境通過の諸手続きのため係官が出たり入ったり。停車中は2時ごろまでトイレは開かない。国境警備の係官がベッドの下まで見て回る。
Sckhbaatar駅(21:50~23:10)出国手続き
Naushki駅(00:20~02:10)入国手続き
すべてが午前2時頃に終って動き出して、すぐ熟睡したようだ。
夜明け前に目が覚めてバイカル湖はまだかまだかと
カメラを構える。後で気が付いたのだが、7時過ぎないとバイカル湖は現れないようだ。しかし、小さな池や流れが次々と現れる。
これらはバイカル湖にそそぐのだと思う。
電柱はモンゴルでも,ここロシアでも木製である。
7月10日(水) ウランウデ(ブリアート共和国の首都)
07:04着
ロシア連邦ブリアート共和国は15あるロシア連邦の一国。
首都なので、さすがに大きな駅であった。駅ビルもかなり立派なもの。
バイカル湖への想い
今回の旅について、私の最大の目的はバイカル湖である。
高校生の時の愛唱歌で、今でも口をついて出てくる
「バイカル湖のほとり」(井上頼豊訳詞)というロシア民謡がある。
(1)豊かなるザバイカルの 果てしなき野山を
やつれし旅人が あてもなくさまよう
やつれし旅人が あてもなくさまよう
(2)戦い敗れて つながれし獄舎(ひとや)を
暗い夜のがれ出で この道を歩む
暗い夜のがれ出で この道を歩む
(3) バイカルのほとりに たたずむ旅人
暗い世をのろいて かなし歌うたう
暗い世をのろいて かなし歌うたう
列車がバイカル湖のほとりを走っている間は、もうドキドキしていた。
なお、ずっとザバイカルのザは英語のtheみたいなものだと
思っていたが、今回「ザバイカル地方」があるいうことを知った。
ザバイカルはバイカル湖の他に多くの河川と山脈や平野を
含んでいる地方である。(Забайкалье)
バイカル湖雑学 バイカル湖の大きさは30,500㎢
日本の本州の大きさは228,000 km²
本州はバイカル湖の約7倍の大きさということになる。
バイカル湖は水深、淡水の貯水量世界一
形成時期世界最古
海へ流れる川がアンガラ川一本だけなので、近年汚染が
深刻になっているらしい。そのため
世界で唯一の淡水に棲むアラザシに腫瘍が出来たりしているという。
2度のお弁当はどちらも非常に不味かった。
殊に朝食のお弁当に入っていたご飯のまずかったこと。
どちらもほとんど残した。
イルクーツクへ到着(15:49)
ズヴェズダホテル(16:40頃)
布の上に何やら塩のようなものを載せて客を迎える。客はそれをなめる。モンゴルでも見た風習だ。ここでは熊の大きな像が迎えてくれた。
ホテルの夕食もあまりおいしくなく、食欲がない。
7月11日(木)バイカル湖観光
イルクーツクからバイカル湖へは、東南65km博物館でバイカル湖の勉強をして、リフトで展望台へ。日本の山でもよく見かける花がたくさん咲いていた。
モンゴルで見かけたような、様々な色布が至る所に結び付けられている。
次いで遊覧船に乗ってイルクーツクの湖面に出る。
対岸にはバイカル湖岸鉄道が見える。乗りたかったなあ。
イルクーツクに帰る途中タリツィ野外博物館の見学。
ソ連になる前、ロシア時代、ロシア正教が熱心に信奉されていたので木造の教会が復元され、その中で、素晴らしいバリトンの独唱を
聴くことが出来た。
そのほかイコンなども展示されていた。
博物館全体は、一つの砦のようになっていて、木造のゲル群であるが、ここは森林地帯に近く、湖畔にも木が豊富なので、モンゴルのような、動物の皮を使ったゲルでなく木製である。
当然移動には不便だが、遊牧民族でなく、狩猟民族なので、家を担いで移動する必要はなかった。
夏用と冬用のゲルがあったとのことである。
ゲルの内部には、
当時の狩猟や生活のための道具が展示してあった。
7月12日(金) ウスチオルデンスキー観光
ブリヤート族の博物館(もう大して変わりはないけれど)を見学。ゲルのレストランへ。ここへ入った時、チンダル現象で埃が舞っているのが見えて、いやだなあと思ったら、ダンスを見せられたりシャーマンが踊ったり。更には私たちまで、盆踊りのような踊りをやらされた。最大に埃が舞ったところで、食事。もともとおなかの調子があまり良くなかったうえに精神的にも、埃の舞っている場所ということで食欲なく、ほとんど食べなかった。
この地方には、昔コザックなどもいたので、野外で、コザックダンスが見られるとよかったのにと思う。
観光用ということが見え見えのシャーマンのダンスもいただけない。何となく自由経済になって、中国のように一種の拝金主義が
人々を犯しているのではないかと思った。
帰りは、高速道路を通ってイルクーツクへ。
草原が広がっていて気持ちよかった。
夕食はホテルで中華料理。おなかの具合がよくないので、
お粥を頼んだが、らちが明かず、添乗員さんが持参の
多分保存食用のお粥を用意してくださって、これがとてもおいしく、この時から、お腹の調子は快方に向かったと確信した。
イルクーツクはモスクワとうんと離れているせいか、
町の整備が遅れていて、結構汚い建物がたくさんある。
極め付けは、画家の書いた絵をビーニールシートに印刷して、
建物の周りに張り付けてあるところだった。
復元を待つ建物らしい。こういう姿に復元しますというわけ。
ロシアも社会主義という長い不毛の時代によって、
ずいぶん遅れてしまったのだろうと思う。
夕食はレストラン。そこの前での再集合の時間まで、土産物を売っている通り(多分130地区)を散歩して、時間が半分になったら帰ろうと思って歩き出したら道に迷って、行ったり来たり。
やっと添乗員さんの黄色のパーカーが目に入った時は地獄に仏の思いだった。15分の遅刻。ゴメンナサイ。レストランの食事は美味しかった。
7月13日(土) イルツークツク観光続き
博物館のようなところでなく、実際に白樺の疎林の間を黄色や白の花を見ながら、バイカル湖畔を歩いてみたかったのだが、汚染がひどいとあっては仕方ない。
7月14日(日)イルクーツク⇒成田
まことに小さな空港で、日本の一日4便ぐらいの地方空港ほどの大きさ。お土産を購入したり、お茶したりは、ほとんど不可能。