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「共に聞き 共に学ぶ」

はじめまして。

本日より『仏教お味わいブログ(仮)』と題しまして、浄土真宗の若手僧侶5人が、毎週日々の味わいを紹介させて頂きたいと思います。今週は自己紹介を兼ねて5人全員が毎日投稿させて頂きますが、本日は浄土真宗 本願寺派 永照寺(大阪府豊中市)の陰山が担当させて頂きます。

大阪に行信教校という、阿弥陀如来のお慈悲、親鸞聖人のみ教えを学ばせて頂く学校があります。私たちはそこで共に学ばせて頂いた仲間です。


昔、その行信教校に遠藤先生という方がいらっしゃいました。

晩年、遠藤先生が肝硬変で危篤になられた時、他の先生方や学生達がお見舞いに伺ったそうです。

遠藤先生は、

「この不学の私が、今までお聖教を読むことが出来たのは、君たちが聞いてくれたおかげや。この遠藤の<いのち>も、もうこれまでやと思う。先にお浄土に参っているから、必ずおいでや。間違わんとくるねんで。」

とおっしゃったそうです。

このお話を初めて聞いた時、私は、

「へー、生徒のおかげで勉強が出来たと思えるなんて、えらい先生っていのうはすごいんやなー」

というぐらいにしか思っていませんでした。


行信教校で学ばせて頂いていると、先生から、

「ご法話をしている際に一番近くで阿弥陀さんのお御法(みのり)を聞かせて頂いているのは、そのご法話をしている本人なんだ。」

と聞かせて頂きました。

小さい頃、自坊で法要が勤まると、他のお寺からお坊さんが来られてお話をして下さいました。

分からないながらにお話しを聞いていると、

「お坊さんっていうのは学校の先生のようなもんなんかなー」

と思ったものです。前に立ってお話をされている姿や皆が真剣にそのお話を聞いている姿を端から見ていると、なんだかえらい人に見えてきて...

皆さんも、お坊さんはなんだか小難しいような、ありがたいような話をしてくれる、何かを教えてくれるそんな存在だと思ったことはありませんか?

私にはそんなイメージがありました。でも、違ったんです。お坊さんも同じように阿弥陀さんに教えを受ける存在でした。それも一生涯。阿弥陀さんに教化され続ける生涯を送る。そこにはお坊さんも、そうでない人も、何も関係ありません。

共に阿弥陀さんのお慈悲を聞き、共に阿弥陀さんから教化される存在でありました。


私は生前お会いすることは出来ませんでしたが、梯 實圓(かけはし じつえん)という先生がいらっしゃいます。ご法話の中で、

「私はね、八十になったって九十になったって『育ち盛りでございます』と、こう言うてやろうと思っております。」

とおっしゃっていました。

すごくいいお言葉だなと思います。

何歳になっても阿弥陀さんから教化される、育てられ続ける、そんな人生を送らせて頂く。


行信教校ホームページの、校長先生の御挨拶には、

「『学仏大悲心』の精神を中心として『学ぶ喜び』と『伝える喜び』とが織りなしてきたのが行信教校の伝統です。」

とおっしゃっています。

遠藤先生も梯先生も、先生方も皆さんがこの伝統の中で生きてこられたのでしょう。

「伝える」ということは、私が「聞く」ということと、私が「学ぶ」ということとイコールなんやろうと思います。

「そんな先生方のお姿から、共に聞かせて頂き、共に学ばせて頂ける、そんな場をもっと増やしたい」

と思い、このブログを開設させて頂きました。

私自身も他の4人の方々のブログを読めるのは楽しみです!

どうぞこれからよろしくお願いいたします!

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