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世を超えて

皆様、こんばんは。
今週は陰山です。

よくYouTubeで外国の現状や文化について見ているのですが、先日面白いものを見つけました。

トルコにクシュコイという村があります。
クシュコイというのは鳥の村という意味です。
村民たちはトルコ語も話すのですが、1km先まで届く鳥言葉と呼ばれる口笛(指笛)での意思疎通を取ります。

クシュコイは丘陵地域で、集落は分散し家屋は互いに離れ、叫んでも声が届かないため、遠くまで届く鳥言葉が生み出されました。
私の感覚ではトンビの鳴き声のような音で、300~500年前から使われているそうです。

口笛というと世界中で使われています。
あまり意味を持たず、相手を気づかせたり、動物に命令を出したりする等の単純なもののように思っていました。
しかし、鳥言葉は普段の会話とも引けを取らない程の会話が成り立ちます。
調べていると共通言語の音の高低や長短を口笛に対応して表現しているそうですが、それだけで成り立っているのが疑問なほど会話が成り立っています。
今や無形文化遺産に登録され、この鳥言葉を大切に後世に残していこうとされているようです。

勝手な妄想ですが、非常に移動が困難な中、どうやって遠くにいるあの人に声を届けようか、その環境に適した言語として鳥言葉が作られ、環境に適しているからその言語は今まで相続されてきたように思います。

環境という言葉とは少し違うかもしれませんが、仏教では機という言葉があります。
機関などの機で、法という教えを聞いて反応するものというような意味です。
教えである法に対して機という言葉を使います。
つまり、その教えを聞く者です。
その教えを聞く者には、年老いた者も若い者も、善人も悪人もいます。
その機に適した法でなければなりません。

500年前のクシュコイで鳥言語ではなく、もし糸電話を採用しようとしたら。
100m先の家ならなんとか繋げたとしても、1km先の家までは糸が足りない状況が起きるかもしれません。
あの家もこの家もと大量に糸電話を繋いだ結果、紙コップだらけになってどれが誰の家と繋がっているか分からなくなったかもしれません(そんなこと考えもしなかったでしょうが…)。
環境に対応しきれない為、それはきっと採用されません。

もし臨終を迎えようとしている方に、悪いことせんと善いことをしなさいよと言っても、その方にはその法は間に合いません。
機に適していない法であります。

仏教には正法の時代・像法の時代・末法の時代という三時思想というものがあります。
お釈迦様がお隠れになって、五百年間はお釈迦様の教えも、その教えに順って行ずる者も、悟りに至る者もいますが(正法)、その後五百年間は悟りに至る者はいなくなり、お釈迦様の教えとその教えに順って行ずる者しかいなくなり(像法)、やがて千年教えだけが残ります(末法)。
その後一万年間は、お釈迦様の教えも失くなる法滅の世が待っています(年数は諸説あります)。

お釈迦様の教えだけが残るというのは、教えはあるがその本意に気付けないようになることなのかなと思います。
教えはあるがその本意に気付けず、行じてはいるが間違った方向に行じている感じでしょうか。

親鸞聖人は『正像末和讃』の中の「三時讃」において

釈迦如来かくれましまして 二千餘年になりたまふ 正像の二時はおはりにき 如来の遺弟悲泣せよ

『正像末和讃』「三時讃」

と、おっしゃられています。

お釈迦様がお隠れになって、二千年と少しが経ちました。
正法の時代も像法の時代も終わって末法の時代になってしまった。
如来の遺された弟子達よ、悲しみ泣きなさい。という意味になるでしょうか。

末法の時代になり悟りに至る道が閉ざされてしまい、そんな時代に生まれてしまった私を悲しみ泣きなさいという意味に取ってしまいそうになります。

先生方から
この和讃は正像末という三時を讃嘆されている和讃であり、本来悲泣すべきことでありながら、末法の時代に仏法に出遇えた、真意に出遇えたことを喜んでおられる
と教えて頂きました。

 そして、同じく「三時讃」において

三恆河砂の諸仏の 出世のみもとにありしとき 大菩提心おこせども 自力かなはで流転せり

『正像末和讃』「三時讃」

ガンジス河の砂の数の3倍程の諸仏がいらっしゃる(正法の時代)にいた時、
一切の衆生を仏にしようという大乗の悟りを目指す心を起こしたけれども、自力がかなわず流転している。
ということで、
私が今迷っているのはずっと自力であったからだとおっしゃられています。
自力というのは自身の行為の因果を信じ、私を救うという阿弥陀仏の本願を受け入れず、つっぱねている状態です。

そんな私が、末法という時代に阿弥陀仏のご本願という仏の真意に出遇えた、そのことをお喜びになられています。

阿弥陀仏のご本願は一切衆生を救う、念仏して生きてきてくれよというご本願であります。
老いも若きも善悪も問わず、どんな者であっても救うものであり、どんな機(私)であっても救うというものです。
しかし、それを受け入れず自力に執心するが為に私は迷い続けてしまっていたのです。

クシュコイの鳥言語は、携帯の出現と共にその役割を取って替わられつつあるようです。
文化が縮小していくことは寂しいことですが、さらに便利なものが出てきて、そちらに移っていってしまうのは仕方がないのかもしれません。
その中で、文化を残そうと尽力されていることは大変ありがたいことであります。
移ろい変わっていくことは、この世界においては時に苦しみとなっていくことでありますが、決して変わらないものが阿弥陀仏のご本願であります。

 超世無上に摂取し 選択五劫思惟して 光明・寿命の誓願を 大悲の本としたまへり

『正像末和讃』「三時讃」

阿弥陀仏のご本願は、超世・世を超え三世を超え常に私を救うとおはたらきくださっているものであります。
三世を超えていつでもどんな私にも適して建てられたものでありました。

 南無阿弥陀仏

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