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悲喜を慶ぶ

こんにちは、今週は那須野です。
今年も行ってきました、福井。
友人のお寺の報恩講です。
相も変わらず素敵な時間を過ごさせていただきました。

今年は法要が終わったら住職と御門徒の高校生の秋のミニコンサートが催され、それがとてもとても暖かかったのです。

緊張の面持ちの二人。
人は緊張するとこう言う顔になるんだ、という「緊張した人の代表」の様な表情からスタートしました。
年の多い御門徒様方は、その緊張のお顔すらも暖かく見守ってくださいます。


曲を進めるごとに緊張が解けていく(と勝手に想像する)様子。
途中童謡「ふるさと」を皆んなで一緒に歌い、最後の一曲は「赤とんぼ」。
こちらは皆んなで一緒に歌いましょうと言わずとも、自然と出てくるそれぞれの声。


「お念仏もこうやって出てきたらええのになあ」
と思った私の浅ましさでありました。
何様でしょうか。

違いますね、
「ああ、お念仏もこんな事やなあ」
お御堂に座って喚鐘(法要が始まる合図の鐘の連打)が鳴り、内陣に僧侶が着座したその時、誰が何を言わなくともその手が合わさり、お念仏の声が溢れておりました。


法要が終わり裏に下がると、玄関横の座敷には利井興隆先生の書が。(写真)
「これなんて書いてあるんやったっけ?」
仲間5人があれでもないこれでもないと、画像検索かけてみたり、思い当たる御文を調べてみたり。
最終的にブログメンバー佐々木氏に連絡して、
「なんて書いてあるんやっけ?」
「慶悲喜かな」
そうだったそうだった。いや、聞いたところでやはり読めない。
「悲喜を慶ぶ、ああ、ええ言葉やな」


生きていると、というか、私のいのちが今ここに繋がっているその背景には、様々ないのちの事情がありました。
日々の生活の中での悲しみや喜びだけではなく、先祖や友人や家族、たくさんのいのちが抱える悲しみ喜びがあって、今私のいのちが成り立っとるんやな、という事をこの頃感じております。

阿弥陀様のお慈悲に出遇って、やっとそんなことに気づかせていただきました。
全部全部まるっと摂めて、あずかってくださっているんですね。


先のコンサートを見守る人生の先輩方も、それぞれにいのちの事情を抱えながら、年の少ない者を暖かい眼差しで見守っておってくださいました。
ただ、お寺の本堂でフルートとキーボードの音が鳴っているわけではありませんでした。
どんなに大きなホールの、有名なオーケストラの方々にも、とても奏でることができない音と空間だったと思います。

ミニコンサートということで、阿弥陀様の前の扉は一旦閉じられておりましたが、確かにその奥には阿弥陀様のお姿がありました。
「ふるさと」「赤とんぼ」の歌詞は皆様それぞれに思い出されることと思いますが、載せてみます。

うさぎ追し彼の山
小鮒釣りし彼の川
夢は今も巡りて
忘れ難き故郷
いかにいます父母
恙無しや友がき
雨に風につけても
思ひ出いづる故郷
志を果して
いつの日ひにか歸らん
山は青き故郷
水は清き故郷

高野辰之作詞・岡野貞一作曲


夕焼、小焼の、あかとんぼ、
負われて見たのは、いつの日か。
山の畑の、桑の実を、
小籠(こかご)に、つんだはまぼろしか。
十五で、姐(ねえ)やは、嫁にゆき、
お里の、たよりも、たえはてた。
夕やけ、小やけの、赤とんぼ。
とまっているよ、竿の先。

三木露風作詞・山田耕筰作曲

恙無いとはこのような字を書くことを初めて知りました。
恙:心配する、うれえる。

15でねえやが嫁に行った以外は、まるで愛媛の田舎の風景そのもので、古い歌でもないという。
(桑の実は小籠にこそ摘んでませんが、家の前にありましたので小ザルに摘んだものです、まあ一緒か)
自分自身のふるさとのあの人のこの人の、あの場所この場所、様子が思い浮かびます。
ええ歌ですね。



悲喜を慶ぶ。
悲喜の言葉の中に、とても深い情景を感じます。
娘っ子が何を言うかと怒られるかもしれませんが。(そんな年でもないけど)
なんだかその言葉がぴったりな10月の福井でありました。

称名

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