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阿弥陀様とネガティブ・ケイパビリティ~ブログから思うこと

9月に入り朝晩は過ごしやすくなって参りました。とはいえ、日中の暑さは堪えます。まだまだ暑さ対策は抜かりなくお過ごしくださいませ。


今回の担当は愛知の岩田です。
ブログ執筆者の一員ですが仲間のブログを読むときは一読者です。
担当回はヒーヒー言ってますが、仲間の更新は毎回楽しみにしています。

7月半ばのブログで隂山さんが「感性」について触れていました。
私も仲間のご法義のお味わいに感心することがあります。
ご法義を受け取る感性が鋭くて、発信する表現が豊かで、そもそも聞く肚が座っている。
「この人ら本当に2,30代か。中身おっさ△※★ やないかい」

…お聴聞者としての円熟味を感じさせられることも、しばしばです。

法を聞き始めるのに早いも遅いもありませんが、自分事となると完全に出遅れた感を覚えている私にとって、仲間達は皆「お聴聞の先輩」です。


その先輩達が育てられているはたらきの中に、今私も抱き取られている。
決して持ち前のはずではない感性が開かれつつ…あるんだかないんだか…。

自分の内側を見れば確信はありませんが、阿弥陀さんの方を向けば安心とよろこびが恵まれています。
隂山さんがブログに書かれていたとおりの、念仏者の心模様であります。

そうそう。那須野さんのブログを受けて、吉尾さんはご自身を評して「理屈をこねくり回すタイプ」と仰っていましたね。

(お察しの通り)私もそのタイプなのですが、彼との大きな違いは、理屈をこねくり回しきれないことです。ぐちゃぐちゃにした中から宝物を見つけ出す前に、脳内の混乱状態に耐えきれず埋め戻して整地してしまうのです。

その時残るのは、知識的な情報と刷り込み、表面的な理解のような気がしてなりません。

そんなことを考えていると、精神医療で出会った“ネガティブ・ケイパビリティ”という概念を思い浮かべます。

ネガティブ・ケイパビリティとは、こう表現されます。

「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」
「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」

『ネガティブ・ケイパビリティ-答えの出ない事態に耐える力』 帚木蓬生

能力にも色々ありますね。
哲学分野で提唱され、時を経て心理学・精神医療分野で見直された概念ですが、私は感性とお聴聞にも親和性を感じています。

これまで私が受けてきた教育では物事を理解していく能力を養い、日々身を置く医療現場では、問題点を見つけ出し臨機応変に・的確に・迅速に対応する能力が必要とされます。
そうでないと現場は停滞してしまいます。
医療だけではない、社会全体の下地となる能力ですよね。

そんな問題解決していく能力を(ネガティブ・ケイパビリティに対して)ポジティブ・ケイパビリティといいます。
それらしく聞こえますが、特別なことではありません。背景には人間の脳が生来持つ、物事を「分かろう」とする性質があります。ワケの分からないこと、手のつけようのないことは脳にとって不安であり不快なのです。

目の前に、わけの分からないもの、不可思議なもの、嫌なものが放置されていると脳は落ちつかず、及び腰になります。そうした困惑状態を回避しようとして、脳は当面している事象に、とりあえず意味づけをし、何とか「分かろう」とします。世の中でノウハウもの、ハウツーものが歓迎されるのはそのためです。

『ネガティブ・ケイパビリティ-答えの出ない事態に耐える力』 帚木蓬生

つまり問題解決のための解の探究が目的ではなく、ポジティブ・ケイパビリティの本丸は不安・不快状態の解消でありました。

単純な問題だったらすんなりスッキリもできますが、複雑で答えのない問題にポジティブ・ケイパビリティで対応したらどうなるのか?
無理が生じて、芯を喰わない表層的な答えで満足したことにするか、蓋をするしかありません。

でも私達の周りには、どうにもならない事柄、自分の力では変えることのできない事柄が溢れています。むしろ、人生は答えのない問題で満ちているから、頭を悩ませ苦しむのですよね。
ネガティブ・ケイパビリティとは、困難な問題に対して簡単に目先の答えを出すのではなく、見ない振りをするのでもなく、じっくりと腹を据えて人生を生ききっていく力なのだと思います。

そのネガティブ・ケイパビリティが精神医学で取り沙汰されるということは、バランスを欠くと精神的な不具合を生じる可能性がある、と見ることができます。
精神的には(ギリギリ)大きな問題はなくても、
ポジティブ・ケイパビリティ ≫≫≫ ネガティブ・ケイパビリティ
の状態が私でありました。

そこで、如何にしてネガティブ・ケイパビリティを自分の中に育てていくのか?に関心が集まりそうですが、それこそ簡単に解決される問題ではありません。
これをこうしたら養われるというノウハウもありません。笑
(そんな本があるかもしれませんが…)

ただ、私の例で恐縮ですが、自覚できるようにはなったのですよね。“脳内の混乱状態に耐えきれず埋め戻して整地してしまう”ことを。
それは、行信教校で1年間だけでも座って、わけが分からない話をわけが分からないままに聞かせていただいたことが大きく影響していたようです。

行信教校入学当初は、講義を聞いていても話の筋が見えなくてイライラ。(脳の不快状態)
テキストが進まなくて「一年でこのデキスト終わるのか?」と疑心を抱き、浮き世離れした人々に戸惑っておりました。

その頃は自覚なんてまるでなく、ポジティブ・ケイパビリティ全開状態で仏様の話しを聞いていたのです。
今、不可思議の世界のお話を聞かされているだなんて感覚もなく。

それでもとりあえず講義の場に座りさえすれば、仏様のお話が聞こえてきます。
ちょっとずつ、ちょっとずつ先生方のお話と、あの空間に引き込まれていきました。

人間が一生かけても分かり切ることが出来ない、大きな不可思議なはたらきに包まれて生きている。
分かりきることが出来ないから、生涯かけて聞き続け深め続けていくことが出来る仏道がある。
いや、分かるどころか、はたらきを感じ取ることも難しい。難しいから聞く度に気付かされ、新鮮な有難さがこみ上げる。
「あぁ、そうでした、そうでしたなぁ。って、聞いていったらいいんや」と自らも法を味わいながら、聞き受ける姿を見せてくださる。

そんな仏様のお話を嬉しそうに、熱心に、間違いやすさに細心の注意を払いながら伝えてくださる先生方の姿に、牙が抜かれました。
不可思議を不可思議なまま、受容れる瞬間が訪れるようになっていました。

気が付けば、分かり得ることの出来ない仏様の話しにこころ揺さぶられるお聴聞の時間が、大切な大切な時間となっています。

そうした経過が私にとっては「お育て」の兆しであり、視点を変えればネガティブ・ケイパビリティの開発であったのかもしれない…。

うーん、安易に結びつけ過ぎでしょうか。

スパっと結論をお出したかったのですが、そうもいかなくなりました。
よし、しばらく寝かせてまた考えるとします 笑

仲間のブログに刺激を受け、ユルユルと頭を巡らせた夏の終わりの時間でありました。


称名


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