読書 1月17日 マンガ・春樹椋尾、監修・小和田哲男『マンガ大江戸パワフル人物伝 近松門左衛門』(草土文化、2009年)
マンガ・春樹椋尾、監修・小和田哲男『マンガ大江戸パワフル人物伝 近松門左衛門』(草土文化、2009年)を読んで付箋を貼ったところの記録。
実は、貞享4(1687)年に近松門左衛門が『つれづれ』の講釈していた記録が残っているそうです。
「堺のゑびす島で栄宅と組んでつれづれの講釈も致されるけるなり」(『野郎立役舞台大鏡』貞享4年)
※栄宅とは京の講釈師・原栄宅のこと
原栄宅とは、江戸時代中期の講釈師。宝永年間(1704-11)に京都で太平記読みとして活躍した。(『日本人名大辞典』)
つまり近松門左衛門は講談師の先輩なんです!!!
個人的にいつか近松門左衛門の人生を講談にしたいと思っております。
ある人物の講談を作るときに、まず知りたいのが、生まれてから、この世を去るまでの大まかな人生なんです。そこで便利なのが子供向けの偉人伝関係の本。
これを読んでから、さらに詳しい本を読むと創造の速度が全然違います。
ただ、子供向けはわかりやすくするために誇張や創作が多分に含まれるのでそこは要注意です。その点は講談と一緒です♪♪
「近松が10代のいつごろ詠んだかは不明だが、のちに出版された山岡元隣の俳書「宝蔵」の中に
しら雲や 花なき山の 恥かくし
という彼の句がある」(58頁)
「父と同じ浪人の身となった近松はかつて一条禅閤恵観(ぜんごうえかん)や後水尾帝と縁の深かったと思われる宇治加賀掾の門をたたいた」(69頁)
父「物書きになるだとお!武士を捨て町人に成り下がるというのか!」(77頁)
⇒時代は違うが、幕末維新に大阪で活躍した五代友厚も同じようなことを兄から言われる。身分の違いが物語を生む。
「貞享元(1684)年、理太夫は、その名も竹屋庄兵衛にちなんで、竹本義太夫とあらため、大坂道頓堀戎橋の南詰めに竹本座を旗揚げした―
―その旗揚げに「世継曽我」が上演されたほど、この作品は高い評価を得ていたのである。この時、近松32歳であった」(90頁)
「(出世景清)この作品を境に、前のものは古浄瑠璃、以降のものは新(当世)浄瑠璃と区別されることになった」
「古浄瑠璃は、中世以来の伝統色が濃く神仏を絶対のものととらえ、つごうよく神力・仏力を解決するのがふつうであった」
「しかし、この作品以後は人間の生きざまが中心におかれ、自分の思いや願い、考えをもとに行動する人間の姿が描かれるようになる」(100頁)
「歌舞伎の番付において「狂言作者」という肩書をつけたのは、およそ7年前の延宝8(1680)年、富永平兵衛が最初だとされている」
「近松がその名を署名した最初の作品は、歌舞伎のほうはさだかでないが、浄瑠璃では、貞享3(1686)年7月の「佐々木先陣」である」(119頁)
「世話物的な題材をあつかった新しい浄瑠璃を世話浄瑠璃というが、「曽根崎心中」こそ、その最初なのである。元禄16(1703)年5月7日、竹本座で初演された」(128頁)
「武士時代の彼の経歴のなかで異色なのは、京都の公家に仕えていたことです。はっきりしている人物の1人は一条恵観です。この一条恵観は後水尾天皇の弟で、兄弟そろって人形浄瑠璃の愛好者だったといわれています」(140頁)
生まれた時代、物語に興味をもったタイミング、階級を跨いだ行動力、物語創作への衝動と努力、それらがビシッとはまった、たまたまの奇跡。
近松門左衛門の創作力は講釈師時代に培ったと個人的に思っています!!!