1月31日 講談『毛利元就』を創作したときの備忘録
先日、広島で講談『毛利元就』をさせて頂きました。
3つの発見がありましたので、ノートして置きます。
発見1 毛利元就の周りの方々が次々に亡くなる。
まず、母が3歳頃に亡くなり、9歳で父もなくなりました。
まだ10歳にも満たないのに、頼れるのは兄のみ。
しかし、その兄も幕府に呼ばれ、地元にはいない。
地元では元就を助けるどころか、失脚させようとする動きが活発化。
そんな中、一人の女性が母親代わりとなって、育ててくれたのでした。
そして元服し城主となった後も、毛利家の家督を継ぐ兄が亡くなりました。その後は、兄の子を支え続けましたが、その子も子どもの内に亡くなってしまうのでした。
元就が毛利家当主となって、勢力を拡大。
その中でいつも子供たちの間を取り持ってくれていた妻も先に亡くなり、、なんと長男まで急死してしまった。
戦国の世とはいいながら、戦場と関係ないところで、多くの近親者がバタバタと亡くなってのを見て、毛利元就は命について色々と考えたんではないでしょうか。
死ななくてもいい命は助けよう!!
城を新たに築城し直したとき、乾の方角の石垣が崩れ続けました。
こんな場合、人柱を立ることが当たり前でしたが、元就は「百万一心」と刻まれた石碑を埋めて、その代りにさせました。
また尼子氏が月山富田城を開け渡したとき、彼らに切腹させず、その生涯を全うさせました。
いつ自分が死ぬかもしれないと元就は思い続け、今を精一杯生きた人生だったのではないでしょうか。
発見2 先祖が日本最古の兵法書『闘戦経』を著す
平安時代後期に活躍した大江匡房(おおえのまさふさ)が著した兵法書『闘戦経』。毛利元就は大江匡房の家系だった。その為、小さな頃から闘戦経を学ぶ機会があった。初陣から55年間で約250回の戦を行うが不敗。凄い実績を残した。
『孫子』の補助的役割を果たす。楠木正成も学び、その精神が育まれた。
毛利元就の戦上手も、小さな頃から闘戦経に触れることができたからか!!
発見3 陶晴賢(はるかた)よりも、陶隆房の時代の方が長かった。
日本三大奇襲戦と言われる厳島の戦い。これは毛利元就が厳島において、敵大将の陶晴賢を破った戦いでした。
この時、敵将の名前は陶晴賢でしたが、1551(天文20)年に主君・大内義隆を討った時の名前は陶隆房でした。当主に大友晴英(後の大内義長)を据え、その一字を貰い受け、陶晴賢と名前を変えました。有名な陶晴賢はほんの数年使っただけで、人生の殆どは違う名前でした。
歴史嫌いになる方のポイントはここでしょうね!!!
昔の人は名前がコロコロ変わるので、誰が誰かわからなくなってくる。