鬼を見たーあるヨギの物語 前編
この記事は1995年、仏教雑誌「大法輪」に書いたものです。「大法輪」が休刊になると聞いて、昔のファイルを引っ張り出してきました。ここに登場する對島由紀彦さんのことをひと言で説明するのは難しい。瞑想の先生? カウンセラー? 今でいうメンター? というより、ラーマクリシュナやラマナ・マハリシ、ニーム・カロリ・ババのようなインドのヨギに近いかもしれません。残念ながらいま對島さんは音信不通のようです。どなたか對島さんの現況をご存知の方がいらっしゃったらお知らせください。(なお、最後のほうに刺激的な表現があります。ご注意ください)
あ、鬼だ。
そのとき思った。
2年ほど前の、冬のことだ。国立の駅から歩いて15分くらいの小さな雑居アパートの一室に、男女あわせて十人くらいが輪になって坐っていた。輪のなかにはお湯の入ったポットとせんべいなどの菓子。めいめいがお茶を飲んだり、誰ともなくぽつりぽつりと言葉を発している。
そのまん中に、對島由紀彦さんはいた。
ぎょろりとした目。短く刈った頭。無精ひげ。口を開けると、一本だけ残った下の犬歯がにょきっと銀色に光っている。
對島さんは、東北のなまり丸出しでぽつりぽつりと話していた。みんなに話しかけているときもあったし、誰かひとりと会話を交わすこともあった。おそろしく省略された表現ながら、その奥にはとても深い微妙なニュアンスが込められているようだった。ここでの会話を文章に起こして誰かに読ませても、ほとんど意味は通じないだろう。それなのにある瞬間、突然、話のなかのフレーズが自分のほうに突き刺さってきたりする。
不思議な時間だった。
ぼくに對島さんのことを教えてくれた友人は「瞑想の先生みたいなことをやっているひと」と言っていた。だが足を組んで坐って瞑想をするわけでもない。参加していた五十代の女性は「週にいっぺんの垢落としよ」と言うが、話しているだけで垢落としになるのか分からない。しかしとにかくそこに集まっているひとたちは、なにかの問題を解決したいと思い、ここにいることによってなにかを得ているようだった。
この鬼は、一体なにをやっているのだろうか。
對島さんを見て「鬼」だと思ったのは、笑うと光る、異様に長い銀色の犬歯のせいだけではない。もちろん鬼といってもひとに悪さをするという意味ではないし、テニスの鬼コーチというのでもない。強いていえば、人間の形をしているけれど人間じゃないもの。みんなのまん中にいるのだけれど、ただひとりで存在している。日本語を話しているけれど、そこでやりとりされているのは「意味」ではない。そんな感じなのだ。
腹が減ったら食べる
ぼくらが誰かに取材するときはあるていど相手のことを調べて、こういう順番で話を引き出していって、最後はこういう結論になるだろうとポイントをまとめていく。もちろん先入観で話を聞くのは最悪だが、方向性は見えていないと話にならない。だがこの對島さんの場合、いったい何をどう聞いたらいいのか、最後まで考えまとまらなかった。というよりも、小賢しく考えても、そんなものは吹っ飛んでしまうのではないかという気がしたのだ。
ただひとつ頭にあったのは、宗教のもっとも根元的なものでありながら宗教を越えたなにかを、對島さんやその集まりに感じたこと。オウム真理教の事件でぼく自身も宗教とはなにかということがますます分からなくなっている。そうした疑問を、素直にぶつけてみようと思った。
国立駅で待っていると、ブルーグレーのハイエースに乗った對島さんがやってきた。荷台には登山の道具がたくさん積んである。最近では週に一回は山に登り、よく野宿もするのだという。
「別にたいした理由はないんだよ。たまたま山が好きなヤツ、集まったからね。新鮮な空気を吸いたいというくらいの、軽い気持ちでね」
十五人くらいのパーティで行く場合もあるし、二人の場合もある。それが現在の對島さんの、重要な「ワーク」になっている。とはいえ特別な行をするわけではない。必要に応じて滝に入ることもあるが、山に登ることそのものが大切なのだ。
「腹が減ったら、飯、うまいだろ。歩いて疲れたらぐっすり眠れるだろ。そういう当たり前のことが、みんな実感できるんだよな」
ぼくらはお腹が空いたからご飯を食べるというより、時間だから、あるいはつきあいで食事をすることも多い。身体が欲している以上のものを取り込んでしまい、不味い、なんて言ったりしている。
山に入ったからといってすぐ身体が順応するわけでもない。最初はやたらきついと感じたり、不安になったりする。それも十五分くらい歩いているとほぐれてくる。自分が今、なにをするべきかが分かってくると、世界が広がって、自然とのつながりも実感できるようになっていく。なにをするべきか(對島さんの言い方では、「第一義」)とは、山に行ったら、自分の足で登る。自分の荷物は自分で背負う、ということ。
「岩、登っているときに手、離したら、死ぬだろ。おれは自然のきびしさだけがいいとは思わない。でも自分のことは自分でやるというのが分からなかったら、自然のルールとしてはそうとうしんどいよな」
確かに現代の日本の日常生活では、死ぬかもしれない場面というのはほとんどない。でも実はそういう状態に気がつかないだけかもしれないけれど。
話しているうちに、近くの多摩川に着いた。今日は、河原で話を聞くことになったのだ。荷台からシートとガスバーナーを降ろして、草を分け入っていく。十一月の空はびっくりするほど青い。
しばらく歩くとちょっとした空き地があった。ぐるりと枯れ草に囲まれた、広場みたいな場所だ。並んで腰を降ろしてお湯をわかす。こんな取材は久しぶりである。
對島さんは、山に登ることや冒頭に書いたような集まりで話すことで、お金を受け取っている。つまりこのことをある種のセラピーのように認めているひとたちがいるのだ。にもかかわらず、對島さんは特別のことはしないという。
「10年くらい前はやたらと坐っていた時期があったんだけど。宗教的な技法使ったりヨガやったりしても、観念的になりすぎちゃうんだよな。みんな「夜逃げ」(これも對島語で、つまり現実逃避のこと)するために、自分が崇高な状態になろうとするから」
こういうのを崇高だと思えない連中がなにやったって、ややこしくなるだけだよ。そう言って對島さんは湯気の立つコーヒーの入ったコップを指さした。
仙人になりたい
對島さんは昭和二十八年、青森県の恐山のふもとで生まれた。青森で「つしま」と言えばすぐに太宰治(本名・津島修治)が思い浮かぶが、実は姻戚関係にあるらしい。對島家は代々藩に仕える重要な仕事をしていた。
両親は学校の先生で、きびしく育てられた。ちょっとしたことで壁に吹っ飛ぶほど殴られたこともある。両親が転勤のために引っ越しが多かったので、クラスに馴染めず、勉強も遅れがち。小学校三年から五年までの担任教師は「先生の子どものくせに、できが悪い」と毎日のように叱った。その三年間は記憶からぽっかり抜けているという。
自分のことで母親が悩んでいるのを感じた對島少年は山へ行き、花をつんで、母親に届けた。
「それでマザコンになっただよ」
と笑うが、そのころの少年にとって唯一の逃げ場所が自然だった。炭焼きの子どもに教わって、罠を使って兎を捕まえた。兎は貴重な蛋白源だったが、殺すとき、自分を見ているような気がしたという。生きるためには命を食べなければならない。だが食べられている命とは、ようするに自分なのだ。おそらくそんなことを少年はうすうす感じたのではないだろうか。
変わり者、世の中に出たってつとまるわけはねえ。まわりから言われるうちに、ここから逃げ出したいという少年の思いは、やがて仙人になりたい願望へと変化する。仙人になって、霞を食べて、ふわふわと浮かんでいたいなあと思っていた。
「そういう体験があるんだよね。四歳か五歳のころ、脱腸で手術してさ、全身麻酔でショック症状を起こしちゃったんだ。そのとき親なんかが叫んでいる姿が、ぐるぐる回って見えたんだよ」
それ以来、突発的に浮いちゃうこと、あんだよな、と言う。遊体離脱をするということか。浮いているときは、まわりの状況などは目に入るのだろうか。
「見ようと思えば見えるし、行こうと思えばどこでも行けるよ。ひとの夢のなかに入り込むこともできるし。でもだからってどうってことないし、自分という制約からは逃れられないからね」
もうひとつ、そのころの對島少年にそうとうのインパクトを与えた体験がある。小学校四年生のとき、祖父が亡くなって火葬をしたとき、焼け具合を見に行ってこいと言われて、まだくすぶっている遺体を見てしまったのだ。
「肉汁と内蔵の汁、出まくり。手とか足は早くに焼け落ちて、首も落ちるだろ。胴体だけ残ってて、もうハンバーグ状態よ」
つい先週まで会話を交わしていた相手がこんな状態になってしまう。いいとか悪いとかではなく、ただ理解不能な、ショックなできごとだった。
表現者から存在者へ
中学、高校と進んでも、どこか自分を持て余しているようなところがあった。自分とはなんだろうという疑問が、いつも離れない。誰でも哲学的なことに興味を持ったり、自分の存在に悩んだりする年頃だけど、對島さんの場合はとくに入り方が深かったようだ。先生である両親の理想と、自分の生の感覚とのギャップが大きかったせいもあるのだろう。
同級生にしてみれば、みょうに気になるけど、手を出しにくい、おかしな子どもだった。今でいういじめになりそうな場面は何度もあったが、どういうわけかくぐり抜けてきた。
「これなんじゃない」
と言って對島さんは風に揺れる草を指さした。風が吹けば動くが、風が止めばまっすぐに立つ。喧嘩に勝つことよりも、自分とはなにかという問いのほうが大きかった。
学校では英語が大の苦手だったが、絵を描いたり、工作をしたり、写真を撮ったりするのが好きだった。
高校を卒業して上京し、東京写真専門学校へ通う。それから6年間は、寝るときもカメラを離さないような状態。ちょうどアメリカ西海岸のフラワームーブメントが日本にも上陸した頃だ。ジャニス・ジョプリンの性別を越えた叫び声に共感を覚えた。
中学時代から先輩の影響で環境問題に関心があり、社会的なアピールのためにゴミの写真、がらくたの写真を撮っていた。
二十四歳のとき、そのカメラを捨てる。自分が写真を撮っていながら、写真を撮っていないことに気がついたからだ。つまりカメラは自己探求の道具でしかないと気づいたのだ。それなら、なにも写真を撮る必要はない。
作家の宮内勝典さんの言葉を借りれば、「表現者」から「存在者」へ、位相が移ったということだろうか。(後編に続く)
ラーマクリシュナ(1836ー1886)はインドの神秘思想家、宗教指導者。
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