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日本におけるテーラワーダ仏教の黎明。

 2020年7月、出版社サンガの社長島影透さんが60歳の若さで急逝されました。数々のベストセラーを出版し、初期仏教を日本に紹介した島影さんに敬意を評します。ところで島影さんよりずっと前に、テーラワーダ仏教を日本へ紹介するべく、努力した人がいました。以下はアルボムッレ・スマナサーラ長老とともに日本テーラワーダ仏教協会を設立し、初代会長に就任した鈴木一生さん(1947ー 2017 )を取材した記事です。雑誌「大法輪」に書いたものですが、歴史的意義があると考え、ここにアップさせていただきます。

 鈴木一生さんは1947(昭和22)年生まれの48歳(当時)。サラリーマンなら脂の乗りきった年齢といおうか。実際、鈴木さん自身も、ある企業の社長までのぼりつめたひとなのだが、意を決してすべてを捨て、仏教の道に入った。

 鈴木さんが取り組んでいる教えはテーラワーダ系といわれる仏教である。スリランカ仏教の長老アルボムッレ・スマナサーラさんを中心に日本テーラワーダ協会を設立。仏教伝来から1500年のあいだ一度も伝えられることのなかった南方仏教の教えを、なんとか日本に伝えようと必死になっている。

 テーラワーダ仏教は別名、上座部仏教。スリランカやタイ、ミャンマー、カンボジアなどで現在も行われている仏教で、出家主義が特徴。僧侶は厳しい戒律を守り修行を行う。その実践のひとつに瞑想があることは「大法輪」95年4月号「ブッダの瞑想」でも書いた。ただ日本においては小乗仏教という言葉と同一視され、重要視されてこなかったのも事実だ。小乗(ヒーナ・ヤーナ)とは小さな乗り物という侮蔑的なニュアンスを含んだ呼称で、正確には僧院にこもって一般民衆のことを顧みなかった部派仏教を大乗の立場から指す言い方。南方仏教とはイコールでないのに、その区別もなく使われることが多い。

 こんな状態だから、これが歴史上の仏陀の教説にもっとも近いものを残しているにも関わらず、正統的な、伝統に基づいた教えであることを知ってもらうのは難しい。まして教えの中身を理解してもらうことは大変な困難をともなう。

 テーラワーダ協会の講演会に行くと、ちょっと太めの身体で、額に汗を光らせて走り回る鈴木さんに会える。かつては社長の椅子に座り部下を使っていた人物が、頭を丸めて質素な服装で走り回っているのだ。なぜ彼はこの教えを伝えるために、これほどの情熱を傾けているのだろうか。

人生は楽しむためにある。

 神奈川県横須賀市に生まれた鈴木さんは、戦後の混乱期にも関わらず経済的には不自由のない少年時代を過ごした。

「米屋の息子でしてね。小僧さんなんかをたくさん使っているような店でしたから、ずいぶんとわがままに育ってしまったんです」

 高校時代には喧嘩をして警察に補導されたこともある。進学した日本大学では学生運動が盛んだったが、ほとんど関心を持たず、むしろアルバイトや仲間とマージャンをやって時間を過ごした。

「人生は楽しむためにある。遊ばなくちゃ、ソンだ」

 これが当時の鈴木さんの哲学だった。遊びと言えば「飲む・打つ・買う」。なかでも好きだったのがギャンブルである。マージャンだけでなく競馬、競輪などあらゆる博打に手を出した。

 卒業後もその経験を生かすために(?)商品相場の会社に入る。相場師にあこがれてがんばったためか、気がつくと同期でもトップの成績をあげていた。しかし次第に、人をだまして金を引き出すような仕事に嫌気がさしてくる。一年ほどして父親が癌で倒れたこともあって、親元に戻り、米屋の仕事を手伝うことにした。

 約一年後に父親が退院した機会に、近所で焼き肉屋を始める。味がいい、とけっこう評判になったのだが、主人は売上金を持って全国を競輪行脚。焼き肉屋は一年ほどでつぶれてしまう。

 考えてみればギャンブルというのは煩悩の典型だ。勝てば、さらにもう一回賭けたくなる。負けても、次は勝てるだろうと思う。この限りない繰り返し。ギャンブルがなにをもたらしてくれるか。それは、刺激だけである。

 焼き肉屋をつぶしたあと、もう一度上京。たまたま募集をしていたゴルフ会員権を売買する会社に就職。半年ほど勤めると、「これなら俺でもできるじゃないか」と独立して自分で会社をはじめてしまった。26歳のときである。

 このころの鈴木さんはなにかを信じたり拝んだことは一度もなかった。宗教的なものとは対極の生き方だった。本人が「徹底的に悪かった。自分のことしか考えていなかった」と振り返る生き方が180度変わったのは、ある不思議な人物との出会いがきっかけだった。

法華経行者との出会い。

 地下鉄の稲荷町駅から歩いて3分の仏壇屋。その主人は金田道跡といい、天台宗系の在野の修行者だった。仏教にはなんの関心もなかった鈴木さんだが、面白い人間がいると友人に誘われて冷やかし半分で会いに行った。

 3年間の行を終えた直後だったその人物は、まるで不動明王のような厳しい顔をしていた。それだけでなく、鈴木さんがなんとかへこましてやろうと思って発する質問に、ことごとく答えてきた。その答えに、また次々に質問が生まれてくる。問答は明け方まで続いた。ほとんどが今までに聞いたこともない言葉だったけれど、鈴木さんは心を動かされた。

 特にインパクトがあったのが「世の中には原因と結果がある」という言葉。いいことをすればいい結果、悪いことをすれば、悪い結果が生まれる。これを聞いて鈴木さんは愕然とした。今までの自分は、いいことなどひとつもやっていないことに気がついたからだ。

「しまった。なぜもっと早く気がつかなかったんだろう。もしこの縁起の法則とやらがほんとうだとしたら、おれは一体どうなるんだ」

 地獄行きは確実だと思った。心底、「恐い」という気持ちがわきあがってきた。鈴木さんは、あれほどのめり込んでいたギャンブルを一切やめ、少しずつでも、いいことをしよう、という心に誓った。

 28歳のとき、両親を呼んで東京見物をさせてあげようと思った。ところがその前日、父親が脳溢血で亡くなってしまう。親孝行したいと思っても、親はいない。どうしたらいいか分からなくなった鈴木さんは稲荷町の師のところへ行き、仏教を学ばせてほしいと頼んだ。

 師の要求は厳しかった。まず五戒を守ること(食事は菜食に徹すること)。朝晩、法華経を読むこと。勉強は毎週、土曜日と日曜日の2日。1回でも休んだら、「もう来なくていい」と言われる。学んだことは自分で復習して、毎週レポートを書く。

 一対一の、厳しい日々が始まった。人生に関わる疑問をひとつひとつつぶしていくのだが、師匠の圧迫感はすさまじいものだった。毎週土曜日は午後2時から夜の11時まで。翌日の日曜日は午前10時から夜の11時まで。ウイークデイも朝晩1時間ずつ、法華経を読む。終わったら、なにをする元気もなく、ただ寝るだけ。半年がんばったが、ついにダウン。投げ出してしまう。

 師のところへ通うのをやめて、何冊もの仏教書を読んだ。いろんな宗教団体を訪ねたこともある。だが師の教えに匹敵するものはどこにもなかった。一方で、地獄の恐怖は消えない。

 一年ほどして、鈴木さんは師のもとへ舞い戻る。だが厳しさに根を上げ、また逃げ出す。そしてまた、戻る。そんなことを繰り返しているあいだに、金田さんのところは次第に仏法を求める人が集まるようになっていた。「大乗仏教を正しく勉強する会」という組織となり、百人以上が集まる。だがそのころ、師匠が変わってきたのに気がついた。

 信徒が増え組織が大きくなってくると、否応なく変質してしまうのは人の宿命なのだろうか。ひとつの疑いは師匠の女性問題だ。あれほど清浄戒をうるさく言っていた師匠と、周囲の女性たちとの関係が聞こえてくる。仏法を問う質問に対する反応もにぶくなったようだ。

 鈴木さんはいったん師と距離を置き、比叡山で得度し、僧籍に入った。ある庵と縁を結び、いずれは入山するつもりになっていた。だが厳しい師匠と離れているうちに生活は乱れ、酒や女遊び(ギャンブルだけは手を出さなかったが)の日々。しかしどんなに遊んでも、修行時代の充実感は得られなかったし、自分でも心が崩れてくるのがわかった。まるで一生懸命に洗ってきれいに保ってきた衣服が、泥水をあびて一瞬で汚れてしまうようだった。

 あれほど厳しい行を積んできたのに、育ったのはプライドばかり。どんなに素晴らしいお経を学ぼうと、どんなに素晴らしい師につこうと、自分が素晴らしくなるとは限らない。結局外側ばかり気にしていて、自分の核心は何も変わっていなかったことに愕然とした。

「今までおれは、何をやってきたんだ」

 しかし自分を導いてくれる人はほかに見あたらない。しかたなく、もう一度師匠のところへ戻る。

 ところが皮肉なことに、戻ってから一ヶ月、師匠が脳溢血で急死してしまった。親孝行をしようとしたときには親はなく、教えを学ぼうとしたときに師はなかった。

心を変える。

 スマナサーラさんと出会ったのは、そのころだ。稲荷町の師の元に出入りしていたメンバーが、スリランカから来ている比丘だと連れてきたのだ。鈴木さんは(おそらく大部分の日本人と同じように)南方仏教がなんなのか、まったく知らなかった。小乗の教えとして、自分たちよりも低いものだと思っていた。だが経済的に余裕があったので比丘に対する布施として、援助を惜しまなかった。マンションを借りて月に20万円ずつの生活費を渡した。

「それでも自分が信じていた法華経をけなされると、もうダメ。そこに宝があるのに、気がつかなかったんですね」

 ちょうどそのころ、ビルマで修行した日本人比丘ウイマラさんに出会う。ふたりは熱海で金・土・日、泊まり掛けで勉強会をひらく。そのうちにテーラワーダの教えに興味がわいてきた。それまで義理でやっていたヴィパッサナの瞑想を本気でやってみようと思いたつ。

 呼吸から始まって身体の各部分やその動きを、ただただ観察していく。毎朝30分の短い時間だが、がんばって続けていると、2カ月くらいして自分の心が変わってきているのに気がついた。それまでとにかくわがままで頑固だった性格が、少しずつ人の話も聞くようになったのだ。怒りっぽいのは相変わらずだったが、自分が怒っているときにはその怒りに気づき、抑えられるようになったのだ。

「問題は自分の心なのだ、心を変えるべきなのだ」

 ということが薄々分かってきた。

 それからしばらくしてバブル経済が崩壊、自分がプロジェクトを進めていたゴルフ場が資金回収困難に陥り、鈴木さんは本社に戻ることになった。その際、半年ほど会社を休ませてほしいと申し出る。少しずつ見えてきた自分の心の問題に、決着をつけたいと思ったのだ。

 93年の5月、茨城県土浦市にいたスマナサーラさんのもとで修行することを決意。ところが15年間学んできた大乗仏教の頭で聞くので、スマナサーラさんの話が理解できない。最初は外国人だから、あるいは説明が悪いから理解できないのだと思った。ちょっと分かってはまたたたかれる、という日々が続いた。

 そのうち瞑想の仲間ができてきたが、なかにはスケジュールを守らないひともいる。瞑想の時間に散歩したり、さぼるひとが出てきた。先輩格の鈴木さんとしては、面白くない。

「日本人はきちっと規則を作ってやったほうがいいんです」

 スマナサーラさんに申し出たのだが、帰ってきたのは意外な言葉だった。

「鈴木さん、あなたはなにをそんなに怒っているんですか。他人というのは、思い通りにならないものなんです。それを思い通りにしようと思うから、苦しみがうまれるんですよ」

 苦というのはそういう意味だったのか。自分のこころもまた、思い通りにならないということを改めて自覚した。

 そのとき鈴木さんは、本格的に自分の心と戦おう、瞑想の修行をしようと決心した。

 ビルマでももっとも高名な瞑想指導者マハーシー長老の著書『ミャンマーの瞑想』を読み、ミャンマーへ行くのは翌94年1月末のことである。

ミャンマーの道場にて。

 首都ヤンゴンについて市内をぶらぶら歩いたとき、現地の仏教にふれて驚いた。それまで南方仏教イコール小乗仏教で、お坊さんは自分の修行しか考えないのだと思っていたが、お寺には熱心なひとびとが何百人と訪れ、比丘も在家も一緒に瞑想しているのだ。日本では考えられない光景である。

 マハーシーの瞑想センターはミャンマーでも最大規模のもので、一度に500人が瞑想できる施設が整っている。外国人も多い。

 基本コースは最低3カ月。3カ月間は、どんなことがあってもセンターの外に出ることはできない、厳しいものである。でも自分は3カ月じゃ足りないと思い、6カ月間のコースをとることにした。ちなみに瞑想修行の間は宿泊費、食費ともすべて無料。在家信徒の布施によって運営されているのだ。瞑想修行者はお釈迦様と同じだという考えがある。

 鈴木さんは比丘になる儀式をしてもらい、ほかのすべては捨てて修行に集中する決心をする。

 センターでの毎日はハードだ(鈴木さんはホント、厳しいのが好きらしい)。起床は朝の3時。それから1時間坐って、1時間歩くというメニューで食事時間以外はすべて瞑想である。一週間でアキレス腱が痛くなってきた。あるいは今日は集中できたと思っても、次の日になるとぜんぜんだめなこともある。瞑想は毎日違うのだ。

 一週間に3日、セヤドー(長老)による面接がある。そこで瞑想の進み具合を指導してもらうのだ。

 きょろきょろしていると、

「遊びにきたんじゃないんだから、帰れ!」

 と叱責の声がとんでくる。

 最初の40日でひとつのピークが来た。サマディ(集中)が強まってくるのだが、そこから急激に落ちるのだ。足は痛くて30分も坐れない。猛烈な眠気が襲ってくる。途中から合流したスマナサーラさんともぶつかる。貪りの心が出てくる。苦しかった。いつまでたっても瞑想が進まない。長老に対する疑いも出てきた。

「世界中に、こんなに貪りと怒りの強い人間がいるだろうか。おれなんか生きていてもみんなのじゃまになるだけだ。」

 4カ月たってようやくすこし楽になり、サマーディも深まってきたが、今度は妄想が出てくる。ジャングルで動物に襲われる場面。いろいろな神仏の像や比丘が登場し、問答している。そのなかで、大乗仏教の矛盾が解けた気がした。

 4、5カ月目にはサマーディがどんどん深まってきた。身体の感覚が無くなって、呼吸も消えてしまう。存在しているという感覚がないのだ。これは初禅を過ぎ、二禅の「喜悦」という段階らしい。これ以上ないという喜びが出てくる。食事する時間も惜しい。寝る時間も少なくなってくる。この状態に留まっていたいという欲求が出てくる。

 しかし、これさえも捨てて進んでいくのだ。

明日、食えなくてもいい。

 そのときは自分の心が変わったという実感はなかったのだが、帰国して知り合いに接したときに初めて、変化に気がついた。たとえば長く家を空けたため妻にはさんざん非難されたが、怒りがまったく起きないのだ。親会社の専務に辞表を持っていったときにも、「お前、変わったなあ」と言われた。

 94年11月、「日本テーラワーダ仏教協会」を設立。ミャンマーから日本語ができる比丘ウ・スマナ師も呼んだ。0からのスタートで、今は400人の会員がいる。瞑想会の参加者は6、70人を超える。それでも経済的にはマイナスだが、代えられない充実感があるという。

「今までの貯金でとりあえず3年は食えるだろうと思う。それでだめだったら、ミャンマーにでも行って瞑想して暮らしますよ」

 鈴木さんはくったくなく笑う。先のことは考えない、明日、食えなくてもいいという。かつてのように欲望に振り回されることはない。酒を飲みたいとも思わないし、おいしいものを食べたいとも思わない。

「ヴィパッサナというのは、今の自分の状態を観察して気づいていく。それによって、心の習慣を変えていくんです」

 会社を辞めることに反対した妻も、鈴木さんが確かに変わったことが分かって、関係がよくなってきたという。

 スマナサーラさんとの共著『知恵のこころ 上座仏教入門』(中山書房)も出版。少しずつだが、テーラワーダ仏教の紹介が始まった。

 ぼくたちは苦しいことがあると、まわりのせいにする。不満があると、相手を変えようとする。だが、それでは永遠に事態はよくならない。問題は自分にあると受け入れたとき、はじめて世界が変わり始める。

 鈴木さんが得たものは、そういうことだ。そしてヴィパッサナ瞑想によって、自分の心に気づいた瞬間、自分の心が変わるのだという。だが彼がそこにたどり着くまでには、長い長い試行錯誤があった。そしてこれまで蓄積したものを捨てたとき、変化が起こった。

 今の世の中には「自分を変える」とか「人は変われる」という耳に心地よい文句があふれているけれど、鈴木さんの道のりを見ていると、変わるということは生やさしいことではないな、と思うのだ。


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