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第二巻 巣立ち  8、武甲山

8、武甲山

※この小説は、すでにAmazonの電子版で出版しておりますが、より多くの人に読んでいただきたく、少しづつここに公開する事にしました。

 伊山と仲良くなって、一年から二学年に進む時の春休みに武甲山に行った。もちろん計画はすべて俺が立てて、正丸峠駅から登り始めた。伊山は、ハイキングは初めてらしく、少しハイになっていた。山歩きは、歩きながら途中で話をするのが俺は好きだった。思わぬ友の一面を知ったりして、結構発見があるものである。急に親しくなれるメリットもあった。

ところが伊山との場合は違っていた。彼は、少しハイになって、いつも五メートル以上先を歩いていて、とてもゆっくり話ができる状況ではなかった。俺は、追いつこうと思って急ぐのだが、ドンドン先に行ってしまう。途中で気が付いたのだが、伊山は異常に競争心が強く、少しでも俺の先を行こうとするらしい。俺は、相棒を間違えたと思った、二度と伊山を山登りに誘うのは止めようとこの時決心した。

 この山登りに来る一週間ほど前に、奥多摩や秩父に珍しく遅い雪が降った。俺は、少し気にはなったが、一週間も過ぎているから大丈夫だろうと思って、計画を実行したのだった。山には心配した雪はほとんど残っておらず、まあまあ正しい判断だと思ったが、これが大きな誤りだった。俺は、途中から伊山を追いかけるのをやめて、自分のペースで登り始めた。普通のコースは面白くないので、今回はあまり人が行かない裏道のコースを選んでいた。後から考えれば、これも良くない選択だった。

 しばらく歩くと、伊山が崖に取り付いていた。一体、何をやっているのか近くに行くまでわからなかった。近くに行ったら、ハイキングコースの幅十メートルくらいが崖崩れで流されていた。その崖崩れの上の方に伊山は取り付いていたのである。俺は、「危ないから、ここはやめて表コースを行こう」と、伊山に言った。伊山は崩れた崖の半分くらいの幅のところに取り付いていた。伊山は「動けないんだ」と、うめくような声で言った。

そんなところに取り付くからだと言おうとした時、伊山の体がわずかに下の方にズレるのを見た。俺は、崖の下の方を見たが、思わずぞっとした。急斜面が続きその下にでかい石が口を開けていた。俺は慌てて、周りにある木の枝を拾って、その崖の伊山の下の方を掘ろうとした。柔らかそうに見えたし、足場は直ぐにできると思った。

ところがである、そこは柔らかい土などではなかった。そこは崖崩れの後で雪が積もりアイスバーンになっていて、さらにその上からまた崖崩れが少しあったらしく柔らかそうな土がアイスバーンの上を覆っていた。木の枝などではとても足場はできない。拳大の石を探して、アイスバーンを砕いていった。急いでいたし、アイスバーンはめちゃくちゃ硬くて、足のつま先がかろうじて引っかかる程度の穴しか掘れなかった。

三つか四つくらい掘ったろうか、伊山は相変わらずズルズルと下がってきていた。俺は足場に自分のつま先を突っ込んで壁にへばりつきながら、自分の両方の手を広げて、「この手の上に足を載せろ」と言った。右手に伊山の右足が乗り、左手に伊山の左足が乗り、伊山の全体重が俺の両手にかかった時、予想外のことが起こった。

俺の足下が溶け始めたのである。後で大学で熱力学を勉強して初めて知ったが、重量が加わると、氷の融点は下がるのである。スキーやスケートが調子良く滑るのはこのためである。この時はそんなことは知らないので、慌てた。二人とも壁にしがみついて、ズルズル落ち始めたのである。

俺は、崖下を見ながら、一貫の終わりだと思った。頭をよぎったのは、「馬鹿な二人の高校生、武甲山で死ぬ」という新聞の一面であった。もうだめだなあと思った時、奇跡的に俺の両手が急に軽くなった、同時に足場がまた固まった。伊山が崖から出られたのだ。俺達は、ほとんど危機一髪のところで助かったのだ。その時、武甲山のような小さな山でも死ぬことはあるのだと初めて思った。

 俺たちはもうあまり話もせずに下山した。正直言って、とても疲れていた。正丸峠駅に着いたら、伊山は電話すると言って赤電話に駆け寄っていった。もう、これから帰るんだし、俺は電話をする気にもなれなかった。伊山は、「もしもし、お母さん。俺、生きてるよ」。俺、生きているよ、確かにこれがその時の実感だった。

 崖崩れ おまえの重みで氷溶け 地獄を見たぜ あの武甲山

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