如月青「An Old’s Sentimental Song」感想
「文芸くらはい」はシロート読者・春Qが文芸作品を読んでアレコレと感想を書く企画です。感想を書いていい作品は絶賛募集中。詳細はこちら。
◆春Qの近況
テレビを点けるとWi-Fiが切れる家に住んでいます。たいへん。
◇「An Old’s Sentimental Song」概要
「私」は一定の年月を経て学生時代を振り返る。そこにいる髪の短い少女に、「私」は惹きつけられている。
あの頃、彼女に一歩踏み出すことができなかった。今、人生の下り坂を歩みながら思いを馳せる。もしも坂の終わりで彼女に会えたら、当時は言えなかった言葉を言える気がする。
「私」は未だ恋を知らない。
詩です!!
「文芸くらはい」で詩を取り扱うのは初めてなのでとても嬉しい。活動を開始して三か月過ぎましたが、ぜんぶ小説作品でしたからね。日本語で書かれた自作の文芸作品ならなんでも良いのですよ・・・! 一生懸命読むので色々くらはい🤤🙏💕モチロン小説もくらはい(強欲)。
でも、小説が多いのもわかる気がします。詩って難しいじゃないですかあ・・・。
作品に入る前に、恥を忍んで自分語りしますね! 春Qは子供の時から工藤直子さんを読んで育ったから、詩がとても身近だったんです。だからスケッチブックに詩を書いて色鉛筆で絵をつける遊びを当たり前にしてたのね。そしたら5歳年上のお姉ちゃんに見つかって、マジでボコボコにされてしまった! なんでだろう? 当時のお姉ちゃんがフラストレーションの塊で、春Qはクソ生意気なガキだったから?
多分それだけが理由じゃないんですよね。多様化が進んだ現代日本においてさえ、詩を書くという行為はまったく一般的じゃないんです。そうじゃないですか? 学校で詩の授業があっても鑑賞が中心、作るのも小学生まで。だけど読書感想文や、おーいお茶の俳句コンクールは中高までやらされる。
まあそれはたぶん、詩が・・・ことに自由詩が神からあまりにも愛されているからなのでしょう。だから罰当たりなやつがポエムという言葉を悪口に使ったり、詩を書く妹を姉がキモイと言ってどつきまわしたりする。春Qもその間違った考え方にずいぶん毒されていて、エロ小説は堂々とネットに載せるくせに、詩はもじもじしてノートのはじっことかに書いている。マジどうかしてるよ。
詩は原点です。これは春Qにとってだけではなく、文芸という大きな括りの中で、核だと思う。生まれたての詩はカニミソみたいに脆く柔らかい(そして美味しい)ので、身を守るために硬い甲羅をまとう。その甲羅のカタチが小説や短歌や戯曲や色々な文芸なんじゃないか?と思うんだ。(異論は認める。詩にもいろいろあらーな。)
つまり、むきだしだから恥ずかしく感じるし傷つきやすくもあるってことです。本作もそう。春Qは、この詩のはしばしに羞恥やためらいが滲み出ているのを感じました。
まずタイトルは「An Old’s Sentimental Song」、冒頭に右寄せで「(柄にもなく…)」と付記があります。Old'sって所有格ですね。訳すと「老人の感傷的な歌」かな?
過去の甘酸っぱい記憶を振り返っている。それを「感傷的」とするのは主体の自意識だな・・・とにやにやしました。同じ思い出でもおめでたいやつなら「嗚呼、素晴らしき青春の日々!」とか言いそうだからです。
春Qはね、主体は(※必ずしも作者ではない)タイトルと付記で予防線を張るくらい、羞恥心を感じているんだと思うよ。これは老人の感傷的な歌です、今ここで柄にもなく歌います、とね。
(なんて陳腐な比喩!)カッコ内のセルフツッコミが効いている。もう恥ずかしくて仕方ない、そのうえ主体の学生時代は「上背ばかり不格好に伸びた」姿。冴えない感じです。だけどそんな「私」にとって彼女は間違いなくミューズだった。
春Qがえらいなと思うのは、主体がミューズを矮小化しないところです。過去なんてとっても恥ずかしくて受け入れられないよ!という人は、時として事実を歪めようとします。たまにいるじゃないですか。「んまぁ当時は夢中になってたけど、今にして思えば十人並みの大したことねー女だったぜ」みたいに言うひと。
だけど「私」は、昔も今も彼女をミューズと思っている。説明する必要ないだろうけどミューズは芸術の女神のことだな。最近はフェミニズムの文脈でこの言い方は否定されることが多い。(大ざっぱに説明すると、芸術のために女性をもの扱いするのはやめてくれよということですね)
春Qはこの場でミューズ問題を取り上げたいわけじゃないから、ミューズという言葉で相手の性別を限定しているよね、という言及に留めておくことにします。「あなた」だけだと男か女かわからないが、ミューズは女神なので、まあ女性とするのが無難な読み方でしょう。
綺麗ですね。「私の歌声はいつもそこで止まる」と、「渡されなかった手紙のフレーズ」が「あなたの声で聴きたかった」でつながっている。これが後にある「言えるだろうきっと」にかかってくる。春Qは『当時あふれてくる言葉はあったけれど彼女に伝えることはできなかった』という読み方をしました。
終盤に登場する人生の下り坂のイメージはありきたりですが、わかりやすく読めます。そして最後に意外性があって良かった。
学生時代、彼女を見つめていた「私」。しかし彼女への想いは恋ではなかったと「私」は自認している。それどころか未だに恋を知らない。
この不思議な言い回しには魅力を感じます。だって本当に恋を知らなかったら、恋かどうかの区別もつかないはずじゃない?
現実によくあるのは、経験を重ねたのちに(思い返せば、あれが初恋だったなー)なんて気がつくこと。あるいは同じような経緯を経て(当時のあれは今考えたら恋でもなんでもなかったな)って思うこと。しかしこの場合はそのいずれでもない。「私は未だ恋を知らない」のです。
◇私達の知っているたくさんの「知らない」
で、この「知らない」には色んなパターンがある。
①知識としては知っているけど、恋をしたことがない。
本当に経験したことがないパターンですね。この場合「私」のミューズへの純粋な眼差しがいっそう引き立つ。恋って否が応でも性的なイメージが絡んできますからね。そもそも恋って何なのか未経験でわからないし、昔も今も彼女のことはそういうんじゃないんだ、と但し書きしている感じ。
②知識はある、経験もある、でも本当の恋はしたことがない。
本当の恋というものがこの世のどこかにあるパターン。もしミューズに一歩踏み出していたら本当の恋になったのかもしれませんね。しかし代わりにこの詩も生まれなかったんだと思うと、なかなか味わい深い。
③実際のところぜんぶ知っているが、知らないことにしている。
②に近い読み方かな。作為的な話ですが、知らないわからないと目を背けつつ実のところ完全に理解してしまっていることって、この世には結構あるんじゃないでしょうか。つまり実のところ恋だったけど、でも恋じゃなかった、「私は未だ恋を知らない」と自分に言い聞かせている。
なかなか萌える解釈だけど、春Qは違うような気がします。タイトルが「An Old’s Sentimental Song」で、主体は老いたひとです。そうやって目を逸らそうとする段階はすでに通り過ぎているんじゃないか?
まだありそうですが、キリよく三つ挙げてみました。春Qは②推しですね。これは主体が照れながらも素直に書いた詩だと思うので・・・。
◇詩っていいですよ。
本来なら冒頭ですべき作者紹介を、敢えて最後に持ってくる。
作者の如月青さんは研究系の文章を書かれる方です。記事のテイストとしてはエッセイや日記って感じなのだが、本を読んで物をよく知っているひとなんでしょうね。洞察が深い、且つ含蓄がある。ていうか自身のがん告知を受けて「伊勢物語」を引用するあたりタダモノではない。
マガジン「しゃべりすぎる作家たちのMBTI」では、作者の性格診断をしている。ねえ、今この記事みてるひとの中に滝沢馬琴の伝記を読んだ人っています!? いや決して南総里見八犬伝をマイナーだとかディスるつもりはないが、伝記まで読むひとが珍しいのは間違いないよな。noteにはすごい人材がいるものだなと思いました。
それでね、そういう人がこの「An Old’s Sentimental Song」を書いたんですよ。凄くないかっ? しかも「文芸くらはい」に参加してくれたんですよ。くらはいは詩作品を取り扱うの、これが初めてなんですよっ。
ドヤァ・・・!😤✨👍
・・・とまぁ、自慢になってしまうわけだが。
ところで最初のあたり、春Qは罪もない姉のことを引き合いに出して、詩について色々書きましたね?(ちなみに今、彼女は男の子ふたりの母親で、めちゃくちゃ大変そうである)
思うんです。人間はもっと詩を書くべきです。誰かにどつかれるとか心配することなく、もっと詩を信頼すべきだし、詩をギュインギュインに振り回すべきなんだ。詩はそれを喜んで許してくれます。
小説みたいにキャラやストーリーありきじゃない。短歌、俳句のように韻律の縛りがない。そりゃー他人から見て良い詩・悪い詩はあるでしょうけど、別に気にする必要ないと思うよ。詩は神の領分なので・・・。
というわけで、今回は結びに詩篇を引用します。詩を書くひとが増えますように。文芸くらはいに詩作品の参加が増えますように。何よりも、如月青さんが無事に健康を取り戻され、神の祝福をいっそう受けられますように。
次回の更新は11/1の予定です。
見出し画像デザイン:MEME