今のSHELLYを見ていると、昔の人は宣教師をこんな風に見ていたのかなと思った。
SHELLYが語る欧米基準の性規範やら道徳なんかを説かれてありがたいことのように聞いてる人もいるかもしれない。
何が同意か同意でないか、あるいは「正しい」セックスなどと言うものを国にも個人にも宗教にも説かれる筋合いなどない。端的に言って、気持ちが悪い。
そりゃあそこら中で不道徳なセックスや時には傷つくようなセックス、イマイチだったセックス、独りよがりのセックスがあるだろう。
ただ、それが存在することよりも、国やら道徳やら宗教やらが性のあり方を固定化したり、個人の性のあり方に口出ししてくる方が気持ちが悪い。当たり前の感覚であろう。
セックスに口出ししてくる国とか個人とか宗教とか気持ちが悪いだろう。
同意なるものを無邪気に考えている人って、私には本当によくわからないのだが、日常会話においてイエスと言ったが本当はそんな乗り気ではないとか、嫌々やってみたら実は結構楽しかったなんて経験普通に生きてればあるものだと思うのだ。
しかし、嫌々やってみてやっぱり嫌だったにしても結局嫌々ながらもやった自分の責任を自分で負うべきであろう。そうでなきゃ嫌々やるのではなく、嫌だからやらないでいいはずである。(私は絶叫系ジェットコースターに乗れないので、どんなに一緒に行った友人たちに乗ろうと言われても空気が悪くなっても乗らない)
自宅に来ることが同意か同意じゃないかなんて話も、そんなもん場合によるだろう。
しかし、そういうことも「あるかもしれない」と想定することは十分当たり前ではないか。
仮にそのような状況になった時に拒否せず流れるままにヤったならそれこそがまさに(!)同意であって、嫌なら帰ればよかっただけである。
もし同意というものを定義しようとするならそれは「不同意ではない」以外にない。そう迂遠することでしか、同意は語れない。
同意そのものは個人の心の中を覗く以外捉えられないからだ。
はいと言ったイエスミーンズイエスだ!などと言うのは馬鹿げている。
"はいと言った(心の中では嫌だった)"をこれでどうやって排除できるのか。
最近ではこのように、いろんな道徳を説く宣教師たちが現れているわけですが、宣教師を呼ぶなら反対側も用意しといて欲しいものである。