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動物たちから教わったこと
正直なところを申し上げます。
ぼくは人間があまり好きではありません。
でも、ヒトは好きです。
ヒトとは、動物としての人間を指します。
だから、子どもは大好き。眺めているだけで気持ちがいい。子どもは、人間になる前のヒトだから。
ぼくが好きなのは〈自然〉です。ここが第一。
といって、自然ではない「人為」「人工」が嫌いなわけもない。嫌いなのは自然であることを妨げ抑圧する「人為」「人工」です。「自然」を引き立てる「人工」「人為」もたくさんあって、その代表は芸術でしょう。
ヒトは好き。自然を引き立てる〈人間〉も好き。けれど、同じ人間が自然であることを妨げ抑圧しないでいられないことも事実です。
その点、動物は自然でないということがない。自然ではないものを創造する能力は動物にはない。その点において、人間は他の動物より秀でているということができます。
が、人間の優秀さが〈しあわせ〉を約束するものではありません。「人為」や「人工」は〈しあわせ〉を約束しない。それどころか〈しあわせ〉を妨げ抑圧することが多々あります。その点、動物は人間のように優秀な能力はない。そのかわりに〈しあわせ〉が抑圧されることもない。
もちろん動物たちにだってしあわせ・ふしあわせはあります。ただ、彼らのしあわせ・ふしあわせは人間より素直に表れる。だから、彼らからは〈しあわせ〉ということがいったいどういったことなのか、人間からよりもずっと素直に教わることができます。
ぼくの経験からすれば。
一年にも満たない期間でしたが、北海道のとある牧場にいたことがあります。
この写真はそのときに撮影してもらったもの。
馬搬。あちらの言葉でいえばホースロギング。
森の中で伐り倒した丸太を馬に運び出してもらう。昔からある、それゆえに自然に優しい林業技術です。
木をひっばってくれている馬はキララという名前です。馬種の名前は忘れてしまいました。体重は900キロあまりの重馬種で、ばんえい競馬などで活躍する種類の馬。ばんえい競馬の馬たちの馬重は1tオーバーらしいですけれど。
馬とこのようなことをしながら、ずっと不思議に思っていました。なぜ、彼女(キララは牝馬です)は、こんなようなことをするのか? いえ、してくれるのか?
丸太は人間にとっては有用なもの。でも、馬にとってはそうではない。彼らには必要がないもの。馬にとっては無駄な行為です。
馬は人間に従順な生き物だから?
いえ、それは少し違います。
人間と馬とは関係性を築くことができますが、人間が常に優位な上下関係の関係性というのとは違います。少なくとも初心者にとっては。
『銀の匙』という漫画があります。ここには人間と馬との関係性の機微が上手に描写されていると思います。
馬術部に入った主人公の八軒は、最初は馬にさんざんバカにされます。これは本当にそうです。馬は人間を見る。人間以上に人間を観る。人間と同じように良好なコミュニケーションができない相手には決して従順ではありません。
ヒト同士なら言葉が通じます。言葉が作り上げる虚構を共有していれば、つまり「人間」であるならば、虚構上の利害を計算して必ずしも良好なコミュニケーションがとれない相手であっても、強いて上下関係を構築したりもします。けれど、動物にはそうした言語能力はありません。
それでもまだイヌ程度の身体ならば、人間が半ば力づくで押さえつけることはできなくない。けれど、馬になると力づくは通用しません。
人間は、関係性が構築できる動物を人間の都合に合わせて使役します。人間の側から見ればたしかに「使役」です。でも、動物たちの側から見ればそうとは限らない。動物もまた動物の都合で動いているはずです。
キララはぼく支持に従って丸太を引っ張り出してくれました。決していやいやながらのことではない。なにより、嫌がっているぼくよりも大きな身体をした馬を、自身の思い通りに動かすことができるだけの技能はとてもとても、ありませんでしたから。考えられるのは、彼女は(も)好き好んで重い丸太をわざわざ引っ張り出している、ということです。
だとしたら、その理由は?
「人間」の思考でいくなら理解不能です。「おバカな畜生だから」などという残念な思考になってしまいかねません。けれど「ヒト」の思考でいくと、実にカンタンに理解することができる。
彼女がそうするのは、そうすることが彼女にとって嬉しいことだからです。
彼女にはそうすることができるだけの能力がある。
備わった能力を最大限発揮することは、ただただ嬉しいこと。
小さな子どもが自分ができるようになったことをしようとする。たとえば、(大人にしては)ちょっとした荷物を、大人から取り上げてでも持とうとする。持たせてあげれば大喜びです。
馬もヒトも、自身が備え培った能力を発揮できることに〈悦び〉を感じる。そのようにできている。それが〈いのち〉というものに備わっている性質だということです。
この理解に至るのには、「人間」特有の社会上の利害意識が邪魔になります。動物の振る舞いを利害といったような「人間」のフィルターを通して理解しようとすると、わけがわからないということになる。とはいっても、人間はどうしても「人間」ですから、フィルターを外すことはなかなか難しい。ですから〈悦び〉を素直に感じられないし、伝えることができない。その〈悦び〉が伝わり感じられれば大きな感動を覚えるのにもかかわらず。
考え至ってみれば、実に単純なことです。
〈いのち〉は生きる。
生きるためには備わった能力を発揮しなければならない。
備わった能力を発揮することは〈悦び〉。
ゆえに〈生きる〉ことは〈悦び〉。
備わった能力のありように従って、あるべきように〈生きる〉ことができれば〈悦び〉を感じることができて、それは〈しあわせ〉なこと。
利害の関係性の中で「利」を獲得することもまた快感ではあるでしょう。「利」を獲得するにあたっては能力を発揮しなければならないことも多い。「利」を獲得することが〈幸福〉をもたらすと考えてみると、能力を発揮して「利」を得られれば〈しあわせ〉も〈幸福〉も得られます。
「人間」は〈しあわせ〉と〈幸福〉の両方の獲得をめざす。それはそれでいいのだけれど...、ここはまた機会を改めて考えてみます。
整理してみます。
「自然」という概念があります。その対立概念に「人為」がある。では「人為」は「不自然」なのかというと、ここは微妙です。「ヒト」が「人間」へと成長発展していくことは自然なことですから、ならば「人間」が「人為」を駆使するのもまた「自然」と言わなければなりません。矛盾が生じる。
矛盾を解消する鍵は「自然」の概念にあります。「人為」の対立概念としての「自然」と「不自然」の対立概念としての「自然」は、同じ名で呼びたくなるほど似てはいますが同じではありません。異なるものに同じ呼び名をつければ混乱するのは道理です。ならばそれぞれの「自然」を分けて考えるために、呼び名を改めればいい。
「自然」⇔「不自然」の両概念を「健全」⇔「不健全」と呼び替えることにします。すると、下のように整理ができます。
左側は「自然」でしかいられない動物の領域。右側はどうしても「人為」になってしまう人間の領域です。
動物であれ、人間であれ、「健全」であれば〈しあわせ〉また〈幸福〉です。
「自然」に近い「健全」は〈しあわせ〉。
「人為」による「利」を多く獲得できれば〔幸福〕。
人為であろうがなかろうが、不健全なら〔不幸〕。
「人為」は「健全」とは直接関係しないはずのものです。もっとも「人為」の用い方によっては「健全」を高めることも「不健全」に落ちていくこともできる。「人為」の使い方はそれが「人為」であるがゆえに選択可能。が「健全」「不健全」は選択不可能なもの。
選択不能な「健全」にうまく生き抜いていく方法は、端的に言えば「自分に素直」でしょう。近頃は若い人を中心に「自分に素直」であろうとする意識が強いようで、頼もしいことだと感じています。
ただ「自分に素直」になることができるのも環境しだいというところは大いにあります。逆境にある者が「自分に素直」になるのは、順境を満喫している者よりも難しい。
けれど、逆境の中にあっても「自分に素直」になる方法はある。その方法論を、ヒトという生物の「そうなっている」に沿って考えていきたいというのがぼくの望みです。
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