“神”という「言葉」について
先頃亡くなられたホーキング博士の遺書が出版されたそうです。
ここで存在しないとされた“神”とは、新旧のバイブルやクルアーンで存在するとされている存在、つまり世界を想像したとされる超越神です。
アインシュタインは「スピノザの神を信じている」と答えたということが知られていますが、スピノザの神なら、ホーキング博士も否定しないかもしれません。
「それは、この世界の秩序ある調和の中に自身をあらわされる神であって、人間の運命や行動にかかわる神ではない」
邦訳が出版されたら、読んでみたいものです。
本テキストでは、“神”という「言葉」に的を絞って考えてみます。
卵が先か、鶏が先か。
神という「存在」が先か、神という「言葉」が先か。
神とは「存在」を指す言葉なのか。「現象」を指す言葉なのか。
上の記事を読む限り、ホーキング博士は「存在としての神」は否定した。アインシュタインは「現象としての神」を信じると言ったわけだけれど、ホーキングとアインシュタインは矛盾しません。
科学は「存在としての神」を否定するけれども、「世界の調和」を指して“神”と呼ぶことは否定しない。というか、そのように呼ぶことの当否は自然科学の範疇外のこと。
ぼく自身はどう考えているかというと、アインシュタインを支持します。
一応、根拠もあります。
言葉は複合感覚だから。
複合感覚であるがゆえに、「言葉が先」ということが生じうる。
りんごです。
“リンゴ”と書いてもいいし、漢字で“林檎”も可でしょう。
英語で“apple”としてもいい。
英語なら、“an apple”かな。
“a”を付けるのは、1個だからと学校で教わります。
でも、“apple”で意味は十分に通じる。
なのに、「りんごがある」と書くならば”a(n)”をつけなければなりません。このあたりの感覚は日本語とは異なる。
でも、There is apple.”と書いても、意味は通じるはずです。文法的には間違いでも。
「1個」というのはあってもなくてもいい。
りんご。
りんごがある。
りんごが1個ある。
上の画像の表現は、三つとも正しい。
”りんご”は存在します。存在する「モノ」です。
では“1個”はどうか。“1個”は存在するのか。
“1個”は「存在」ではない。「現象」です。
「存在」は「感覚されるもの」だから、そこにリアリティがある。ごく自然な(感覚への)感覚です。
では「現象」はどうか。
「現象」にだってリアリティはあります。五感で感じられるものではないけれども、うつ(空)だけれども、某かの感触があることは間違いない。少なくとも“1個”は無意味ではない。
こちらはどうでしょう。
“ススキ”です。
“雲”です。
”風景”と言ってもいい。秋の風景。
“自然”と言ってもいい。
“ススキ”は存在します。
では、“雲”は?
遠くから見れば存在するように見えるけれども、近くに行けば水蒸気に過ぎないということは大人なら知っています。
では、“雲”は「存在」と言っていいのか。
“風景”も“自然”も、「存在」なのか「現象」なのか、考えてみれば怪しい。
かつての日本語には“自然(しぜん)”という言葉はありませんでした。「自ずから然り」という意味の“自然(じねん)”はあったけれど。明治になって、英語の“nature”の訳語に“自然(しぜん)”が当てられて、“自然(しぜん)”は存在するようになった――
というのは、誤りです。言葉がなくても「存在」はあったはずです。ススキは存在したし、ススキが生えている大地も存在したし、大地とは一線を画す空(そら)もあった。人間がこの地球に誕生する以前から。
「自然(という存在)がある」と感じるようになったのは、“自然(しぜん)”という言葉ができてから。してみれば、“自然”は「現象」だと言ってもおかしくはない。
“神”も同じように考えることができます。
“神”という言葉が発明されて初めて、“神”という「現象」が認識されるようになった。そして「現象」の認識がいつの間にか「存在」の認識へと変わっていく。言葉は複合感覚で、言葉そのものにリアリティがあるがゆえに。
この手のリアリティは、「クオリア」と呼ばれているものと同じだとぼくは思っています。
“神”と同種の言語現象で生じた「現象」なのにあたかも「存在」のように感じられるものは他にもあります。
代表的なものをふたつ。
“国家”と”お金”です。
“国家”などといったものは存在しません。
“国家”は「社会現象」です。
“お金”はちと面倒です。
もともとは、“1個”と同類の(自然)現象だった。それが、実在のモノ(金銀や貝殻など)と結びついて、「存在」だという誤解がより深まってしまった。現代ではお金の大半は「記号」すなわち「現象」だけれど、それでもまだ大半の人はお金に存在感を感じているし、そこが秩序という社会現象の基盤になっています。
このあたりの話(哲学?)は、すこぶる東洋的な趣があります。
言葉と「存在」および「現象」。そして「存在」や「現象」を認識する人間の心理構造。『大乗起信論』は、そのあたりに迫った論考だと思っていますが、用いられている術語が現代人の標準とはかなり違います。
上掲書は、そのあたりを「現代標準」に寄せてくれているものですが、それでもなかなかの難物。
「現象」のはずのものが「存在」だと勘違いされてしまうと、生まれるのが【道徳】です。
『論語』は「現象」の記述なのに、いつまにか道徳書になってしまったということは、先日記しました。
同様のことが西洋でも起きた。冒頭の引用記事は、【道徳】の解体なんだと思います。
「お金」という【道徳】の解体は、まだ始まっているとは言えないけれども...。