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私とあなたの関係:川上弘美 「センセイの鞄」書評

書評。物語はこんな宇宙#21

川上弘美作 新潮社



誰かとの関係を測ること


定められた距離、造られた距離
それは今日までの距離

別れた距離、いつかまた会うときの距離
まだわからない距離


「センセイの鞄」 あらすじ


37歳の会社員ツキコは、ある日居酒屋で、高校生の時代の国語教師であるセンセイに再会する。センセイは、ツキコを覚えていたが、ツキコは彼の名前すら思い出せず、彼のことをただ「センセイ」と呼ぶのだった。
その日から、居酒屋を舞台としたツキコとセンセイの交流がはじまった。あるときは、市場に行き、あるときは居酒屋の店主と共にキノコ狩りに行き、プロ野球の巨人をめぐりケンカもする。そんな緩やかで不思議な関係が続き、花見にツキコの同級生がきたところから、少しずつ彼らの関係性は変わっていくことになる。


作者、川上弘美


川上弘美は、1958年に東京で生まれた。父親は、生物学の教授だった山田晃弘で、彼女自身ものちにお茶の水女子大学に入学し生物学を学んでいる。大学ではSF研究会に所属し、NW-SF社のSF雑誌に関わり、卒業後そのままNW-SFの編集者になった。その後雑誌が休刊すると、彼女は母校の系列高校の生物学の教員に転職し4年間働いた。

1994年の「神様」で第一回パスカル短編文学新人賞を受賞。1996年には「蛇を踏む」で芥川賞を受賞し、現在に至るまで旺盛に執筆活動を行なっている。

活動は幅広く、古典新訳コレクション「伊勢物語」の現代訳、エッセー調の「東京日記」、そして俳句など多彩である。

海外に翻訳されている作品も多く、特に本作は人気が高い作品である。(海外だと最初タイトルが、「The briefcase」だったが、「Strange Weather in Tokyo」にしたらいきなり売れたという。タイトルの重要性を認識させるエピソードである)


SFへの造詣

上記の経歴からも分かるとおり、科学、SFに縁がある作家である。小説を初めて書いたのも大学のSF研究会時代である。(幻想小説に近かったと彼女は振り返っている)
編集者としてのちに働くSF雑誌にも学生時代には小説を掲載している。

本作「センセイの鞄」は、基本的にリアリズム、現実に沿った作品でツキコとセンセイの関係性を描いているが、彼女のデビュー作「神様」は登場人物が熊で、主人公の同じアパートに住んで、生活しさらに交流しているという寓話、マジックリアリズム性に満ちた幻想的な作風である。近年ではSF作品も書いており、「大きな鳥にさらわれないよう」では、生態系的な観点からポストアポカリプスを扱った。

俳句を含む活動

本作では、センセイが国語の教員だったインテリという設定であり、作品の中では俳句が重要な要素として登場する。実際に川上弘美自身も俳句を嗜んでおり、そのきっかけとなったのはパスカル短編文学新人賞を受賞したことだ。つまりは作家とデビューと同時に俳句を始めた。

このパスカル短編文学新人賞は、当時のパソコン通信で開かれていた実験的な文学賞で、応募から講評まで、全てパソコン通信上で全て行われていた。文学賞は第三回まで開かれ、彼女は一回目の受賞者だが、単刀直入にいうと、やはり運営が大変だったのと、あまり利益に繋がらなかったので廃止になったらしい。

彼女は、そこで出会った人々(のちの芥川賞作家の長嶋有もいる)と句会を開き、仕事がなかった頃にかなり熱心に取り組み、その後も続け、俳句集も出版している。

川上弘美の特徴的な文体、緩やかで、広がりのある文体を育てた一つには俳句の活動があるだろう。


作品「センセイの鞄」


本作は、恋愛小説として言及される。そもそも新潮社の作品ホームページに行けば、

ツキコさん、デートをいたしましょう。センセイとわたしの、あわあわと、色濃く流れる日々を描く恋愛小説の傑作。

新潮社ホームページより

となんともポップな感じで書かれている。

読者側も恋愛小説として捉えるだろう。当然である。出会い、わかりあい、当て馬が現れ、乗り越え、付き合う、これは構造的に恋愛小説の何者でもない。

本作の文庫のあとがきでも、主人公とセンセイの関係、特に主人公が30代、センセイが60代と年の差の関係であることが、一部の中年の男性読者を「舞い上がらせた」と斎藤美奈子が辛口で述べている。

また、「センセイの鞄」を検索して、サジェストに「気持ちわるい」という言葉がセットで出るのは、この二人の年の差の関係を起点に作品をとらえ、その関係にしっくりこなかった読者が一定数いたことを示しているのかもしれない。

以上を素直に捉えるのなら、この小説の枠組みは、発表された当時まだ少なかっただろう年の差の恋愛関係を描写した恋愛小説である。

それでは、作品の二人の恋愛関係を、「素晴らしい」とか逆に「あり得ない」と、そういった目をもち楽しむ、それだけでいいのだろうか。

そして、そもそもこの小説は、恋愛関係のみを書いた作品であるのだろうか。

私たちは、本を読み終わり、本を振り返る。終盤に恋愛の成就の描写があるならば、恋愛小説だったと頭は規定する。

しかし、そのことをもって、小説の冒頭の出会いからの全てが、その恋愛関係の前段階だったのだと定義されるわけではない。ようは、恋愛関係のみで作品が全て解釈されるものではない。

実は、このツキコとセンセイの関係、とてもふくよかで複雑なものではないだろうか。

関係は同時に複数ありうる

彼らの関係は、師弟関係のようにも思える。それは、彼らが昔教師と生徒という関係だったからでもある。ただ同時に気の置けない友人のように見える。そしてある種の同志でもあり悪友でもあるようだ。男女の関係これもあるだろう。

このように複数の関係が、ツキコとセンセイの関係に含まれている。中には、可能性でしかないものもあるだろう。

関係が溢れているせいで、作中の雰囲気はふわふわとした感じになる。一定の関係が大きな顔をしていないからだ。

これが師弟関係、恋愛関係、ただ一つの関係であったら、読者は読みやすくわかりやすいが、きっとふわふわした感じは消えてしまうだろう。

決まった関係がないのなら、ある時はある時の関係に二人は包まれ、ある時はある時で別の関係にその振る舞いは移り変わる。

ある時は、ロックが、ポップが、いろいろな音楽が流れる。しかし、これはこれで大変だ。何らかの決まりに従った方が疲れないからである。

彼らのこういった臨機応変な関係が可能なのは、主人公とセンセイが成熟した人間であり、時に不安定に揺れても個人としての確固とした基盤をもっているからである。その安定性の上でお互いをいたわり、察しあい、関係性がふわふわと覆っている。

もしも中年男性がこの作品に惹かれるとしたら、それは年齢の離れた恋愛関係、それだけにあったのではなく、この二人のお互いを労わり合う関係が彼らの琴線に触れたのではないかと思う。尊重し対話を楽しむ。特定の人間がというより、それは全員が欲しがるものである。

一つの関係で見てしまうと、そのなかにつまっている沢山の意味を見れない時はある。人物の肩書き、舞台、関係性。私たちの頭には、特定のシーンをみると、超高速で物語を勝手に解釈するマシーンがある。私たちはすでに進化しすぎたのかもしれない。
なら、その荒ぶるマシーンを休ませた先には一体何が見えるか。それは読者の皆さんに取り組んでもらいたい私からのお願いである。




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次回の書評は、ジャック・ロンドン「野生の呼び声」を予定しております。
いわゆる冒険小説になります。お楽しみに。

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