BooninによるBenatarの反出生主義批判は本当に正しかったか?
常に人間は心に痛みを感じている。心が痛がりだから、生きるのも辛いと感じる。ガラスのように繊細だね。特に君の心は。
新世紀エヴァンゲリオン 第弐拾四話 最後のシ者 カヲルのセリフより引用
はじめに
このnoteの概要
Benatar型の反出生主義に対する反論として、最も洗練されたものの一つが[Boonin 2012]による反論である。しかしながら筆者の見解では、これに対する[Benatar 2012]での再反論も十分に機能している。本稿では、まずBooninの議論に対して肯定的で、かつ[Benatar 2012]における反論は不十分であると主張する[榊原清玄 2021]と[鈴木生朗 2019]に対する反論を加える。次に、[Benatar 2012]で既に指摘されている代替案が、Benatarの基本的非対称性よりも優れているのではないかという提案を行う。
事前知識
最低限、Benatarの基本的非対称性について知っている必要がある。[Benatar 2006 chap.2]および、[Benatar 2012]のAsymmetriesの項に書かれていることが必要である。さらに、[Boonin 2012],[榊原清玄 2021],[鈴木生朗 2019]および、[Benatar 2012 pp.135-141]で検討された、Rivka WeinbergとDavid Booninに対するBenatarの応答を読んでいる事が望ましい。
Booninを支持する2つの論文への批判
[榊原清玄 2021]に対する批判
まず、論点を以下に提示しておく。
(S1)Booninが実在潜在人物原理を採用して、Benatarの議論を批判しているとする点
(S2)実在人物原理(APP)の適用する事例に関する点
(S3)相関的対称性原理(RSP)の解釈に関する点
(S1)について
[榊原清玄 2021]では、「Booninが4つの非対称性を説明する上で実在潜在人物原理(APPP)を採用している」という前提に立っているように思われる。
ブーニンはこれを悪いものであるとし、その快苦の対称性に反しない「相関的対称性原理」(Relational Symmetry Principle) と「実在人物原理」(Actual Persons Principle)・「 実 在・ 潜 在 人 物 原 理 」(Actual and Possible Persons Principle) を導入し、この原理群によって快苦に関する関係が説明できることを示す。([榊原清玄 2021 p.235]より引用)
相関的対称性原理と実在人物原理によって、ベネターの基本的非対称性は
論駁されたかのように見える。しかし、まだ依然として不十分だ。なぜなら、実在人物原理は実在の人のみを対象にしているために、潜在的な状況において幸福な子供を生んだ場合と生まない場合の快楽の差を区別することができない。この問題を解決するために、ブーニンはさらに「実在・潜在人物原理」を導入する。([榊原清玄 2021 p.238]より引用)
しかし、実際に[Boonin 2012]において、Booninが採用したのは実在人物原理だけであり、むしろ「実在潜在人物原理をBenatarは採用している」とBooninは主張する。
In order to account for the asymmetry between the Blessed Couple and the Cursed Couple by appealing to RAP, however, we must instead depend on what I will call the Actual and Possible Persons Principle (APPP), where by a “possible person” I mean a person who will never exist, but who would have existed had the other option been selected: ([Boonin 2012 p.19]より引用)
祝福されしカップルと呪われしカップルの間の非対称性をRAP(相関的非対称性原理)を用いて説明する為には、しかしながら、我々は実在潜在人物原理(APPP)を代替手段として採用せねばならない。(拙訳)
ここで、RAPとは、「ベネターの基本的非対称性をより精密に言い換えたもの[Boonin 2012 p.13 ll.15-16]」であり、従って「RAPを用いて説明するには、APPPを採用せねばならない」とは、「ベネターの基本的非対称性を用いて説明するには、APPPを採用せねばならない」という意味となる。
さて、これ以降で、BenatarのRAPとAPPPを用いた説明と、BooninのRSPとAPPを用いた説明のいずれがより「生殖に関する義務の非対称性」をよりよく説明するかの議論を展開しており、[Boonin 2012 p.20 ll.8-28]にて、APPPよりも、APPを採用すべき理由を2つ挙げている。
①APPの方がシンプルであるということ。APPPを採用すると、曖昧な可能的存在者(possible person)に関する利害まで考慮せねばならず、複雑な原理となってしまう。
②実在人物の福利を考えて行動すべきという規範は、可能的存在者の福利も考えて行動すべきという規範よりも、広く受け入れられている事実。
この部分も、BooninがAPPPを採用していない論拠となる。
(S2)について
まず、Benatarが提示する、4つの広く受け入れられている非対称性(AC)を紹介する。
(AC1) 生殖に関する義務の非対称性
不幸な人生を送るだろう人々を生み出すことを避ける義務はあっても、幸福な人生を送るだろう人々を生み出さねばならない義務はない。
(AC2) 予想される利益の非対称性
子供を持つ理由として、その子供がそれによって利益を受けるだろうという事を挙げるのはおかしい。子供を持たない理由としてその子供が苦しむだろうということをあげるのは、同じようにおかしい訳では無い。
(AC3) 回顧的利益の非対称性
苦しんでいる子供を存在させてしまった場合、その子供を存在させてしまったことを後悔すること、そしてその子供のためにそれを後悔することは理にかなっている。対照的に、幸せな子供を存在させることが出来なかった場合は、その子のためにその出来なかったことを後悔することはあり得ない。
(AC4) 遠くで苦しむ人々と存在しない幸せな人々の非対称性
私たちが遠くで苦しんでいる人々の事を悲しく思うのは当然だ。それとは対照的に、無人の惑星や無人島、この地球の他の地域に存在していない幸せな人々のために涙を流す必要はない。
次に、APPについての重要な事実を指摘する。すなわち、APPは、福利から道徳への橋渡しを行う原理として導入されているという事である。[Boonin 2012 p.19 ll.16-21]によれば、RAPやRSPは福利に関する主張を行うが、道徳や義務に関する主張については何もいう事ができない。従って、橋渡しの原理(Bridging Principle)無しでは、何をすべきか(義務)に関する正当化を行うことはできないのである。
さてそうすると、APPは福利から義務に関する主張を導出するための原理であるのだから、APPを用いた場合には、義務に関する主張を行った事になる。ここでACを振り返ると、AC1に関しては確かに義務に関する主張であったが、AC2,3,4は義務というよりは、それぞれ生殖の理由や、後悔の理由や、同情する理由に関わる問題である。従って、APPを用いてAC2,3,4を説明しようと試みるという事は、義務の観点から生殖や後悔や同情の理由を説明しようと試みるという事であり、本当に義務の観点から説明できているのかについての論証が必要となる。
さて、上記をふまえて[榊原清玄 2021]の記述を検討していく。
ベネターによると、相関的対称性原理と実在人物原理は生殖に関する義務の非対称性だけは説明できているが、それ以外の事実は説明できていないとのことだ。しかし、ベネターはブーニンの議論を誤解しているように思われる。ブーニンは ( ⅱ ) から ( ⅳ ) までの事実をすべて、ベネターが言うように「人々にとって何が良くて何が悪いのか」という観点から説明している。だから義務が必ず発生するとは主張していない。さらに、「人々を害するが、それをするのが道徳的に間違っているというわけではないこともありうる」という点に関しても、実在人物原理は、ある人にとって事態がより悪くなってしまう実在の人物が発生してしまう行為は一応間違いであるとし、だから害をなすすべての行為が悪いと言っているわけではない。したがって、実在人物原理は ( ⅱ ) から ( ⅳ ) の非対称性に適用できることを確認できる。「相関的対称性原理は適用されるが、実際のところ三つの非対称性を説明しているのではなく、非対称性があることを否定しているのだ」という点に関しては、そもそも相関的対称性原理が示しているのは快楽と苦痛が対称的であることだからそれは問題にはならず、相関的対称性原理と実在人物原理を同時に導入することで実際の非対称性 ( とされるもの ) を説明している。([榊原清玄 2021 pp.244-245]より引用)
まず、「実在人物原理は ( ⅱ ) から ( ⅳ ) の非対称性に適用できることを確認できる」や、「相関的対称性原理と実在人物原理を同時に導入することで実際の非対称性 ( とされるもの ) を説明している」(太字は原文を改変した)とあるように、APPを利用してAC2,3,4を説明していると[榊原清玄 2021]では主張されていると言って良いだろう。さて、APPを用いた場合は、義務に関する主張を行った事になるのであったのだから、義務に関する主張からAC2,3,4を説明したと言えるだろう。ところが、同時に、「ブーニンは ( ⅱ ) から ( ⅳ ) までの事実をすべて、ベネターが言うように『人々にとって何が良くて何が悪いのか』という観点から説明している。だから義務が必ず発生するとは主張していない。」とも述べられている。これでは、義務の観点からAC2,3,4に関する説明を行っているか否かの記述が不明瞭であり、Benatarに対する反論として成立しているのかが疑わしい。
次に、本当にBooninがAPPを用いてAC2,3,4を説明しているか?についても疑問が残る。[鈴木生朗 2019 p.122 ll.1-11]や、同稿の注釈(20)を見ても、AC2,3,4の説明においてはAPPが不要であると捉えられている。また、[Boonin 2012 pp.22-23]を見てもAC2,3,4の説明にあたってAPPを利用していると明示的な説明はなく、「可能的存在者の福利は、生殖or後悔or同情の理由にはならない」という原理を暗黙裡に導入して説明しているように思える。(なお、AC2の説明に関しては、上の原理だけでは十分に説明できていないと思われる。)
(S3)について
まず、RSPを明示しておく。
相関的対称性原理(RSP)
(1) 苦が存在するのは悪い
(2) 快が存在するのは良い
(3) 苦の不在は苦の存在よりも良いが、それは以下のどちらかの場合である
(a) 苦の不在がその人の利益になる実在の人間が存在する
(b) 苦の存在がある人の存在を要請し、要請がなければその人は存在しないが、苦の不在が当人にとっての潜在的な利益をよりよくもたらす場合
(4) 快の不在は快の存在よりも悪いが、それは以下のどちらかの場合で
ある
(a) 快の存在がその人の利益になる実在の人が存在する
(b) 快の不在がある人の不在を要請するが、その要請がない限りは
その人は存在し、また、快の存在が当人にとっての潜在的な利
益をよりよくもたらす場合
次に、[榊原清玄 2021]において、Benatarの「RSPに対する批判」に対する再批判を検討する。
以上の主張は、つまり相関的対称性原理をもってしても、ある個人を実際に生んでいいのかどうかはわからない、ということを主張しているものと思われる。しかし、ブーニンが主張しているのはおそらくそういうことではない。相関的対称性原理が言っているのは単に、X が存在しない世界であっても快楽の不在は悪いことであると言える、ということだけである。しかし、快の不在が悪いからといって、ある個人の人生が実際に始めるに値するかどうかは相関的対称性原理からは何も言えない。3b が言っている「苦の存在がある人の存在を要請し、要請がなければその人は存在しないが、苦の不在が当人にとっての潜在的な利益をよりよくもたらす」というのは、つまり、何らかの理由で苦痛を受けなければならない場合があるが、もしその苦痛がなければそれはその人にとってはよりよい利益である、ということであり、4b の「快の不在がある人の不在を要請するが、その要請がない限りはその人は存在し、また、快の存在が当人にとっての潜在的な利益をよりよくもたらす」とは、何らかの理由でその人は存在していないが、もし存在していればその快楽の存在によってその人はよりよい利益を享受できる、ということを言っている。つまり、この原理は、ある個人にとっての快楽と苦痛の対称性を示しているだけである。おそらく、ベネターは、ブーニンが幸福な子供と不幸な子供を想定することで始める価値のある人生と続ける価値のある人生の区別をする必要性を回避していることに気づいていない。確かにこの原理だけでは、ある個人に付随する快楽と苦痛を前もって判断することはできない。だから人生を始めるに値するかどうかが判断できないというベネターの指摘はそれ自体としては正しいが、それはそもそも相関的対称性原理の射程内にない問題であることに注意しなければならない。([榊原清玄 2021 p.242]より引用)
まず、RSPの射程内(RSPから導きたい主張の内)に、「人生を始めるに値するかどうかの判断」が含まれないと主張されているが、これは誤りだろう。以下の記述を見よう。
And so, in the end, RSP entails that in the case of the Lucky Couple, the advantage of existence outweigh the advantages of non-existence. Benatar's Relational Asymmetry Principle entails that the Lucky Couple harms its child by conceiving it. But my Relational Symmetry Principle does not entail this.
([Boonin 2012 pp.17-18]より引用)
そうすると、最終的には、幸運なカップルの事例において、存在することのアドバンテージが、存在しないことのアドバンテージを上回ることをRSPは導く。他方で、BenatarのRAPは幸福なカップルの事例において、子供を生むことはその子供を害することを導く。このような結論を、私のRSPは導かないのである。(拙訳)
「人生を始めるに値するかの判断」においては、「その子供を生むことで、子供が害されるか(その子供にとっては生まれてこない方がより良いか)」は重要である。RSPは幸運なカップルの事例において、RAPと異なり「その子供は生まれることで害されない」という結論を導く以上、(幸運なカップルの子供が)「人生を始めるに値するかの判断」の役に立っている(射程内である)とBooninは考えるだろう。
次に、「相関的対称性原理が言っているのは単に、X が存在しない世界であっても快楽の不在は悪いことであると言える」や、「4b の『快の不在がある人の不在を要請するが、その要請がない限りはその人は存在し、また、快の存在が当人にとっての潜在的な利益をよりよくもたらす』とは、何らかの理由でその人は存在していないが、もし存在していればその快楽の存在によってその人はよりよい利益を享受できる、ということを言っている。」という記述を検討しよう。
私の見解では、「当人にとっての潜在的な利益にとってよりよい」という部分に関する解釈が、[榊原清玄 2021]と[Benatar 2012]では異なっており、従ってBenatarに対する反論としては成立していない。すなわち、RSPの3bや4bについて、以下の2つの解釈に分かれている。(議論のため、4bだけを扱う。)
解釈①「快が存在すること」だけが直ちに、「快の存在が当人にとっての潜在的な利益をよりよくもたらす場合」となる。
解釈②「快が存在する場合における、快苦の全体を全て考慮にいれて(all things considered)、快が存在しない場合よりも良い場合」が、「快の存在が当人にとっての潜在的な利益をよりよくもたらす場合」となる。
Benatarは解釈②を取っており、この場合に以下の論点先取りの問題が生じると指摘する。
まず、RSP4より、幸運なカップルの子供が生まれなかった場合の「快の不在」が、生まれた場合の「快の存在」よりも悪いのは、RSP4aおよび、RSP4bのいずれかの場合に限るが、この場面は存在と非存在を比較しているのでRSP4aは当てはまらず、RSP4bを適用する必要がある。さて、RSP4bの「快の存在が当人にとっての潜在的な利益をよりよくもたらす場合」とは、「快が存在する場合における、快苦の全体を全て考慮にいれて(all things considered)、快が存在しない場合よりも良い場合」である。この場合、幸運なカップルの子供は、生まれてくる場合(快が存在する場合)、100万の快と100の苦を味わう。この快苦の全体を考慮にいれると、快が存在しない場合(生まれてこない場合)よりもより良い。つまり、RSP4bに当てはまる。従って、「快の不在は快の存在よりも悪い」と言える。ところが、「この快苦の全体を考慮にいれると、快が存在しない場合(生まれてこない場合)よりもより良い」とは、「その子供は生まれる方がより良い」と同じ意味である。従って、RSPを用いて「その子供は生まれることで害されるか?」を判断するためには、RSP4の適用の段階で「その子供は生まれる方がより良い」という前提を利用せねばならず、これでは論点先取りとなる。
以下の記述も参考にしてほしい。
If we try to use the Relational Symmetry Principle to determine when
coming into existence is a harm, we find that we already need to know when coming into existence is a harm in order to use the principle to reach a conclusion. This is question-begging.([Benatar 2012 p.138]より引用)
RSPを用いていつ生まれてくる事が害となるかを決定する為には、いつ生まれてくる事が害となるかをRSPを利用する際に予め知っていることが要求される。しかしこれは論点先取りである。(拙訳)
これに対して、[榊原清玄 2021]では解釈①を取っているように思われる。たしかにこの解釈を取れば、快苦の全体評価を回避して、単に快の存在する事だけが、快の不在よりも良いのであるから、論点先取りは生じない。問題は、RSP4bをこのように捉えると、何のためにRSP4bで「快の存在が当人にとっての潜在的な利益をよりよくもたらす場合」という条件があるのかが理解不能になるという事である。快の存在が、それに付随する快苦の全体評価を無視したうえで、それ自体として当人にとって良いという事は明らかで、いつそれ自体として良くない事が有りうるのだろうか?あるいは、「快が存在することが、(その人が不在の場合の)快の不在よりも良い場合」を「快の存在が当人にとっての潜在的な利益をよりよくもたらす場合」と解釈することも出来るのだが、それこそトートロジーとなる。
いずれにせよ、上記のようなRSP3b,4bに対する解釈において両者が異なっているので、Benatarに対する反論としては成立していないだろう。以下の記述についても、同様の問題が存在すると思われる。
相関的対称性原理の 3 は基本的非対称性の (3) と本当に違うのだろうか。ベネターによれば、(3) が言っているのは苦の不在は常に苦の存在よりも良いというものだが、それは相関的対称性原理でも十分に論証されている。相関的対称性原理の 3a は「苦の不在が、その人の利益になるような実在の人間が存在する」であり、ここから苦の不在は苦の存在よりも常に良いと言えるし、3b によれば「苦の存在がある人の存在を要請し、要請がなければその人は存在しないが、苦の不在が当人にとっての潜在的な利益をよりよくもたらす」から、実際に苦痛を受ける人がいようといまいと、やはり苦の不在は苦の存在よりも常に良いということを言っているのがわかる。苦の存在が苦の不在よりも良いと解釈できる部分はブーニンの原理にはない。ベネターは、ブーニンの原理は意味が曖昧だと言っているが、相関的対称性原理から「苦の不在は苦の存在よりも常に良い」という部分は十分に読み取れるため、それは相関的対称性原理に対する有効な反論ではない。さらに言えば、どのように曖昧なのかをベネターは示していない。([榊原清玄 2021 p.243]より引用)
「苦の存在が苦の不在よりも良いと解釈できる部分はブーニンの原理にはない」とあるが、少なくとも、解釈②を取れば、「苦の存在が苦の不在よりも悪いとはならない」と解釈できる場面が、「苦の不在が当人にとっての潜在的な利益をよりよくもたらさない場合」(苦の存在する場面における、快苦の全体を考慮に入れて、苦が存在しない(生まれてこない場合)よりもより良い)において存在する事になる。具体的には、幸運なカップルの子供が生まれてくる場合である。
また確かに、BenatarはBooninの議論が具体的にどこが曖昧であるかを適示してはいないが、上述の解釈①,②に開かれていることは十分に曖昧である。
[榊原清玄 2021]の結論部分に対する批判
以上S1,2,3を踏まえた上で、[榊原清玄 2021 pp.247-248]の結論部分に対する批判を行う。
まず、基本的非対称性の4は実在人物原理を暗黙裡に前提としていると主張する点は、S2で触れた、実在人物原理が福利から道徳への橋渡し原理である事実を無視しているだろう。確かに、基本的非対称性の4は人物が実在するかどうかを重要視する点で実在人物原理と類似しているが、基本的非対称性は福利に関する主張であって、実在人物原理のような道徳に関する主張は行っていないので、両者は明確に区別される。
次に、Benatarが、幸福な子供と不幸な子供のみがいる世界で幸福な子供を作らないことが「悪くはない」理由を提出していないと主張する点であるが、これは正しくは提出していると言うべきだろう。Benatarの基本的非対称性によれば、幸福な子供(快のみのある人生が約束された子供)であろうと、生まれてこない場合に比べて生まれてくることが当人にとってより良い訳ではないのであった。つまり、幸福な子供が生まれても、生まれなくても、当人の福利にとって差が無いのだから、道徳的にも、幸福な子供を作ろうが作らなかろうがどちらが悪いということは無いのである。「ベネターが言うような、常に出生が間違いであるという主張」は、どんな人生にも「針の一刺しほどの苦痛は存在する」という前提の上での主張であり、Benatarであっても幸福な子供であれば確かに子供を作って構わないのである。
最後に、Booninは幸福な子供(快のみしかない人生が約束された子供)を前提に、その幸福な子供を生まないことがその子供にとって悪いと示したに過ぎないと主張する点であるが、実際にはBooninはもう少し広く主張している。Booninは幸運なカップル(Lucky Couple)の子供、すなわち100万の快と100の苦を経験することを約束された子供についても、その子供を生まないことがその子供にとって悪いと主張しているからである。なお、BooninはAPPによってその子供を生まない事は道徳的に悪くないのだと主張する。仮にBooninがAPPPを採用していたならば、その子供を生まない事は道徳的に悪い(生む義務がある)と主張するだろう。
[鈴木生朗 2019]に対する批判
[鈴木生朗 2019]において命名された「生殖の選択に関する非対称性(以下、ARCとする)」の概念を解説する。この非対称性は、幸福な人生を送るだろう子供を作るかどうか選択する場合と、不幸な人生を送るだろう子供を作るかどうか選択する場合の比較において存在する。まず、前者の場合には、子供を作る選択をしても、作らない選択をしても、不幸な子供は実在しない。しかし、後者の場合には、もし子供を作る選択をすれば、不幸な子供が実在することになる。この非対称性がARCである。
さて、[鈴木生朗 2012 p.122]では、ARCだけを用いて(つまり、APPは用いない)AC2を説明できるとする。以下に、その論証を挙げる。
①子供を作らない理由として、その子供が苦しむ事を挙げるのがおかしくないのは、不幸な子供を作ると、現実の子供が不幸になり、これが不幸な子供を作る選択を控える理由となるからである。
②子供を作る理由として、子供を作ることでその子供が利益を得ることを挙げるのが奇妙なのは、子供を作らなくても、現実に不幸な子供は存在せず、これが積極的に子供を作る理由にならないからである。
問題は、②に存在する。論証の中では、もし子供を作らなければ、現実に不幸な子供が存在しない事を、子供の利益を子供を作る理由として挙げる事の不自然さの説明に利用している。しかし、だからと言って、子供を作れば、幸福な子供が現実に存在することが、子供を作る理由として排除されるのだろうか?AC1を説明する際には、APPを用いることが出来たので、「悪い状態になる現実の人物」が居る場合にだけ注目することが許されたのだが、AC2の説明にはAPPを使用しないのであるから、幸福な子供が現実に存在する場合の利益も考慮に入れて良いはずである。このように、ARCは不幸な子供の存在と不在に関する非対称性を確かに指摘するが、幸福な子供が実在する場合を無視して良いのかについての回答を提供できないのである。
すると、結局のところ、[Benatar 2012 p.139]で提案された、RAPPのような原理に訴える必要が生ずる。
Reformulated Actual Persons Principle:
When comparing existing and never existing people we should only be concerned about actual people and that things not be worse for them.([Benatar 2012 p.139]より引用)
再定式化実在人物原理:
もし我々が実在する人物と、可能的存在者を比較する際には、実在する人物にとって事態がより悪くなる場合だけに注意を払う必要がある。(拙訳)
RAPPのようなものを使えば、確かにAC2を説明できるようになるであろう。しかし、繰り返しになるが、RAPP抜きにARCのようなものだけで、AC2を説明できたと捉える事は上記の理由で難しい。
注意
[Boonin 2012 pp.21-23]におけるAC2,3,4のRSPを用いた説明に関しても、まずAC2については[鈴木生朗 2019]に対する批判がそのまま成立する。しかしAC3,4に関しては少し事情が異なるだろう。すなわち、AC2においては、「幸福な子供を存在させる選択」が有り得るので、「幸福な人々が実在する場合をなぜ考えないか?」という反論が成立するが、AC3,4に関しては「幸福な人々が実在しない事」は確定しているので、確かに幸福な人々が実在する場合を考える必要が無いからである。ただし、AC3,4の場面においても、可能的存在者(possible person)である幸福な人々の福利として、生まれてこない事は悪いと言える(RSP4b)ので、結局のところRAPPのような(RAPPは福利が悪くなる場合だけに限定して良くなる場合もさらに無視するのだが)、「実在する人物の福利だけが考慮に値して、可能的存在者の福利は後悔や同情の理由にならない」という原理を使用することになるだろう。
[Benatar 2012]で既に提案されている、新たな可能性
APPとRAPPとRSP(解釈①)を利用した解決法
Perhaps some hybrid of the original and reformulated Actual Persons Principle could do the trick.([Benatar 2012 p.140]より引用)
あるいは、元々のAPPと、RAPPによってACを全て説明することが可能かもしれない。(拙訳)
One possible suggestion is that, all things being equal, preventing harm takes priority over bestowing benefit, even if not generally, then at least in procreative contexts.([Benatar 2012 p.141]より引用)
一つの可能な提案は、他の事情が全て同じ場合においては、害を抑止することは利益を与えることよりも優先されるという原理に訴えるという事だろう。この原理は、全ての場合に通用するという訳では無いかもしれないが、少なくとも生殖の文脈においては成立するだろう。(拙訳)
APPとRAPPの両方に当てはまる問題点として、代替実在人物原理(以下AAPPとする)ではなくAPPやRAPPを採用する理由を考える必要があると、Benatarは主張する。しかし、Benatar自身は既にAAPPを採用してはACに関する対称性を何一つ説明できないことを認めている([Benatar 2012 p.141 ll.18-19])。この事実は、まさにAPPやRAPPを採用すべき理由を与えている。元々のBenatarの基本的非対称性を我々が採用すべき理由も、ACを説明する能力を有するからだったのだから、その能力を有しないAAPPを我々が採用する理由は存在しないのである。おそらく、この事実にもBenatarは気づいている([Benatar 2012 p.141 ll.20-21])。その上でBenatarは、RSPとAPPが組み合った場合に隠される問題点を、RSPとAAPPの組み合わせが暴露してくれているのではないかという疑問から、なぜAAPPではなくAPPを採用すべきかに対するより深い理由を要求する([Benatar 2012 p.141 ll.21-28])。
確かに、AAPPではなくAPPをなぜ採用すべきなのかに対する深い理由は、哲学的な興味を大いにそそるが、ここで重要なのは、その深い理由がどうであろうと、APPとRAPPによってACを全て説明可能であれば、それはBenatarの基本的非対称性に対して何ら見劣りしない理論であるということである。さらに付け加えるならば、上記の引用にある通り、他の事情が全て同じ場合においては、害を抑止することは利益を与えることよりも優先されるという原理によって説明されているようにも思われる。Benatarはこの原理に訴えたならば非対称性の議論というフライパンからQOLの議論という火の中へ飛びこむことになる[Benatar 2012 p.141]と述べるが、Benatarの基本的非対称性に訴える議論はこの場合において完全に優越性を失う事になるだろう(少なくとも、Benatarは優越性を提示できてはいない)。
さて、RSPの解釈②は、上述の通りBenatarの指摘した論点先取りの問題があるが、RSPの解釈①はそのような問題を生じなかった。そこで、RSPの解釈①を、その冗長で曖昧な表現を排して、以下のような再定式化相関的対称性原理(RRSP)として表現しなおそう。
RRSP1a 実在する人物の苦の不在は、その実在する人物の苦の存在よりもその実在人物にとってより良い。
RRSP1b (ある人が存在しないシナリオにおける)苦の不在は、(その人が存在するシナリオにおける)苦の存在よりも、その人にとってより良い
RRSP2a実在する人物の快の不在は、その実在する人物の快の存在よりもその実在人物にとってより悪い。
RRSP2b(ある人が存在しないシナリオにおける)快の不在は、(その人が存在するシナリオにおける)快の存在よりも、その人にとってより悪い。
ここで、RRSPの良いや悪いも全て当人にとっての福利に関する主張であることに注意して欲しい。AC1については、不幸な人生を送る場合においては、RRSP1bより生まれてこない(存在しない)方がより良いので、不幸な人生を送る子供を生む行為は、実在の人物の福利をより悪くするのでAPPによりそれを回避する義務を負う。他方で、幸福な人生を送る子供を生みだす場合はRRSP2bより生まれてくる(存在する)法がより良いが、だからといって実在人物の福利をより良くする義務はAPPにおいては発生しない。また、幸福な人生を送る子供を生みださない場合においても、RRSP2bよりその子供の福利は生まれてこない(存在しない)ことによってより悪くなるが、その子供は実在せず可能的存在者に過ぎないのでAPPによってもこの行為を回避する義務は発生しない。
AC2,3,4については、RRSPとRAPPを用いて説明する事になる。AC2だけを説明しよう(AC3,4についても同様である)。苦しむだろう子供を生む場合、その苦しみの存在は、RRSP1bより、生まれてこない(存在しない)場合の苦しみの不在より悪いので、その実在人物の福利をより悪くしているのでRAPPによりその子供を生まない理由となる。他方で、利益を得るだろう子供を生む場合、その利益の存在は、RRSP2bより、生まれてこない(存在しない)場合の快の不在より良いので、その実在人物の福利をより良くしているが、RAPPによってこれはその子供を生む理由とはならない。また、利益を得るだろう子供を生まない場合、その利益の不在はRRSP2bより、仮に生まれてきた場合の利益の存在よりも悪いが、その子供は実在せず、あくまで可能的存在者の福利を悪くしているに過ぎないので、RAPPによってもこの行為を回避する理由とはならない。
このようにして、APPとRAPPとRSP(解釈①)あるいはRRSPによって、確かにACを説明できているように思える。また、この理論を用いれば、「針の一刺し以外は幸福で満たされた人生を送ることが約束された子供」の事例においても、幸福の存在は生まれてこない場合の幸福の不在よりも良く(RRSP2b)、針の一刺しの苦の存在は生まれてこない場合の苦の不在よりも悪い(RRSP1b)ことから、存在する場合の快の存在することの(存在しない事に対する)アドバンテージと、存在する場合の苦の存在することの(存在しない事に対する)ディスアドバンテージの比較衡量の余地を許すことになり、「生まれてくることは常に害悪」とは言えないことが導ける点で、よりBenatarの基本的非対称性よりも直観的である優れた理論であろう。
以上を振り返ると、BooninのRSPとAPPによる対案は、確かにBenatarの指摘する通り問題含みであったが、Benatar自身が示唆したように、修正することが可能であり、そうした場合にはBenatarの基本的非対称性を上回る説得力があると筆者には思われる。なお、Positive dutyとNegative dutyにまつわる議論[Benatar 2006 p.32]は、AAPPとAPPのいずれを採用するべきかについてと関連しているが、議論が錯乱するので、これは今後の課題としよう。
参考文献
Better Never to Have Been(Benatar 2006)
Every Conceivable Harm:A Further Defence of Anti-natalism(Benatar 2012)
考えうるすべての害悪{小島和男による[Benatar2012]の翻訳}(小島和男2019)
Better to Be(Boonin 2012)
ベネター型反出生主義者へのブーニンによる反応の検討(榊原清玄 2021)
非対称性をめぐる攻防(鈴木生朗 2019)
ベネターの反出生主義をどう受けとめるか(吉沢文武 2019)