"戦"に学ぶ!No.1~小牧・長久手の戦い①~
”軍師” こと、株式会社GUNSHIコーポレーションの社本です。
このnoteでは経営者の軍師としての目線で、
これからの時代を生き抜く戦略を発信しています。
私は日ごろより周りの方々から
”軍師” というニックネームで、
お呼びいただいています!(笑)
社名であることもその理由ですが、
私は自他共に認める歴史好き!
とくに戦国時代が好きです。
今回は、私が好きで見習っている、
学んでいる武将や軍師を紹介するシリーズ。
ぜひ最後まで楽しんでいただけたら幸いです。
さて今回は、初めての試み!!
”戦”にフォーカスした記事に
していきたいと思います!!
第一回目のその戦とは…
天下分け目の関ケ原の戦い!!
と見せかけて(笑)、
天下分け目の
小牧・長久手の戦いです!!
天下分け目といえば
一般的には関ケ原ですが(笑)、
関ケ原の戦いから16年も前に
起こった小牧・長久手の戦いは、
秀吉と家康が直接対決した唯一の
戦いであり、私個人は、もう一つの
天下分け目の戦いだったと思っています。
1582年。
有名な本能寺の変が起こります。
天下統一を目指していた織田信長が
暗殺されたことで、主に豊臣家、
織田家の間で後継者争いが勃発します。
本能寺の変の首謀者である
明智光秀を討ち取った豊臣秀吉
(当時は羽柴秀吉)は、後継者争いの
筆頭に名乗りを上げます。
一方、それを良くは思わない
人物がいました。
後継者争い織田家の筆頭、
信長の息子である織田信雄でした。
これまで自分たちの家臣として
仕えてきた秀吉が、
織田家を守るという大義が
あったにもかかわらず、
実権を握り力をつけていくことに
反発したのです。
この時、信雄が力を貸してくれと
お願いしたのが徳川家康でした。
なので簡単にいえば、
小牧・長久手の戦いは
【秀吉 vs 信雄&家康連合軍】
というイメージですね。
本能寺の変から2年が経った1584年。
小牧・長久手の戦いが起こります。
いうなればこの戦は、
私の地元である愛知県を舞台に
全国から仲間を集め、
秀吉包囲網をつくって破ろうとした
戦いです。
このとき、秀吉軍10万に対し
信雄&家康連合軍が1万6000という、
どう考えても圧倒的に
秀吉が有利の戦でした。
これだけの兵力差があったにも
かかわらず家康の“戦術”によって、
なんと信雄&家康連合軍が優勢で
戦は進んでいきます。
秀吉の仲間たちが家康の戦術に
次々と敗れ、信雄&家康連合軍に
追い風が吹き始めたのです。
(この家康の戦術についても
語りたいことがたくさんあるのですが、
長くなりすぎるので今回は割愛します!)
一時は信雄&家康連合軍が優勢に
思われましたが、秀吉軍も健闘し、
戦が長期戦に。
戦は長期戦になればなるほど
両軍とも疲弊します。
秀吉もこれはまずいと判断し、
あることを実行します。
それは、敵である信雄と
和睦を結ぶこと。
しかも、家康の知らないところで、
秘密裡に和睦を結び、
戦いを終わらせたのです。
こうなってしまっては
織田家を守るという大義名分が
家康にはなくなり、
戦う理由がなくなります。
これは、負けることだけは
避けたかった秀吉の“戦略”であり、
この戦略のおかげで、
この戦はドローになりました。
“戦術”であれば一枚も二枚も
上手だった家康からすれば
釈然としない、なんだか後味の悪い
戦のようにも思えます。
しかしやはりさすがは秀吉。
天下統一のためには、これ以上
反乱軍が押し寄せてきてはならず、
戦いを終わらせるための“戦略”で、
見事ドローに持ち込みました。
ドローの戦、小牧・長久手の戦い。
その真相は、
“戦術”で勝った家康、
“戦略”で勝った秀吉、
という、戦国時代にトップ争いを
繰り広げた、二人の武将の実力が
ぶつかり合った戦だったのです。
いつもは一人の戦国武将に
フォーカスして記事にしていますが、
このように”戦”に着目して
歴史をみていくのも、
とてもおもしろいですよ!!
また書いてみたいと思います!!