戦国武将に学ぶ!No.10~小早川隆景~
”軍師” こと、株式会社GUNSHIコーポレーションの社本です。
このnoteでは経営者の軍師としての目線で、
これからの時代を生き抜く戦略を発信しています。
私は日ごろより周りの方々から
”軍師” というニックネームで、
お呼びいただいています!(笑)
社名であることもその理由ですが、
私は自他共に認める歴史好き!
とくに戦国時代が好きです。
今回は、私が好きで見習っている、
学んでいる武将や軍師を紹介するシリーズ。
歴史には諸説ありますが、
中でも私が好きなエピソードや、
『ビジネスや人生に役立つのでは?』
という目線でご紹介しています!
最後まで楽しんでいただけたら幸いです。
■名将・黒田官兵衛に『賢人』と言わせた知性派武将
本シリーズ、今回で10人目の武将を
ご紹介することになります!!
ありがとうございます!!
そんな記念すべき回に、
小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)
をピックアップします!!
小早川隆景は、小早川秀秋の養父であり、
関ケ原の戦いで裏切ったとされる
秀秋に比べると知名度はやや低いかと
思っていますが、歴史好きの中には
ファンが多いのではないでしょうか。
隆景が亡くなったとき、あの黒田官兵衛が、
『本当の賢人がいなくなった』
と嘆いたほど、聡明な人物でした。
そんな隆景ですが、
実は毛利元就の三男です。
長兄は毛利隆元といい毛利家を継ぎ、
次兄は元春といい、
のちに吉川(きっかわ)家を継ぎます。
隆景は小早川家に養子として入り、
のちに小早川家を継ぎました。
毛利家を守るために、元春と隆景はそれぞれ
養子となって別の家督を継いだのです。
毛利家といえば有名なのは
【3本の矢】の話です。
『矢は1本だと簡単に折れてしまう。
でも3本に束ねれば折れにくい。
そうやって3人で力を合わせ、
毛利家を守りなさい』と、
元就が息子たちに言い残したと
されています。
ちなみにこの吉川家、小早川家を総じて
両川と呼び、“毛利両川体制” などと
呼ばれたりもしています。
■毛利家を守るために小早川家を生きた
長兄である毛利隆元亡きあと、
毛利家を継いだのは隆元の息子、
毛利輝元(もうり・てるもと)でした。
輝元は、叔父である隆景に、
『広島城を築城するのにどうしたらよいか?』
という相談をしました。
すると隆景は、
『海の近くに建てなさい』
とアドバイスしました。
海の近くに城を建てると
攻められやすくなるため、
通常であればそんなところに
城を建てる人はいませんでした。
それを見た豊臣秀吉は、
『なぜあのように攻められやすいところに』
と笑ったそうです。
笑われたことを知った輝元は、
これを隆景に報告しました。
すると、
『それでいい。
あまりにも堅牢な城をつくったら、
何か野心があるんじゃないか、
やましい気持ちがあるんじゃないか、
と、秀吉に疑われてしまう。
毛利家を守るためには、
強い城を敢えてつくらない。』
と答えたといいます。
戦国時代は、
武力行使も存在した時代でした。
何かを守るためには、他を出し抜いて
強いものをつくるという発想が、
おそらく一般的だったと思います。
しかし隆景はそうは考えず、
豊臣政権下で毛利家を守るために、
通常とは逆の発想で策を講じました。
これは誰にでもできることではありません。
秀吉のことだけでなく周りのことを、
とてもよく観察していた人物であり、
何より『毛利家を守る』ことを
絶対に忘れず、そのために生きた人でした。
隆景は遺言を残していて、そこには、
『今治めている中国地方8か国を守り、
領地の拡大を狙うな』と書いています。
争いが激しくなっても積極的に攻めるな、
という戒めの意味が込められていた
と思うのですが…
結果的に毛利家は、
のちの関ケ原の戦いに関わることとなり、
敗戦もあって8か国が3か国になってしまう…
この結果まで隆景が見越していたかは
もちろん定かではありませんが、
先見の明があっただろうことは
他の数々のエピソードからも伺えます。
後を継いだ者たちが隆景の言う通りにしていたら、
歴史はどうなっていたんだろうか…
と想像してしまいます。
しかも、隆景が亡くなったのは1597年。
関ケ原の戦いは1600年。
もし隆景があと3年生きていたら、
小早川家の当主は小早川秀秋ではなく
隆景だったはずです。
そう考えるとますます、
歴史はどうなっていたんだろう…!
と想像が止まらなくなります。
『この武将がもし生きていたら…』
という想像が最近止まりません(笑)
【もしもあの武将が生きていたら!?】
という、歴史妄想映画があったら
おもしろそう!!(笑)
とにもかくにも…
小早川隆景を中心にした
映画をつくってほしい!!
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