戦国武将に学ぶ!No.32~石田三成③~
”軍師” こと、株式会社GUNSHIコーポレーションの社本です。
このnoteでは経営者の軍師としての目線で、
これからの時代を生き抜く戦略を発信しています。
私は日ごろより周りの方々から
”軍師” というニックネームで、
お呼びいただいています!(笑)
社名であることもその理由ですが、
私は自他共に認める歴史好き!
とくに戦国時代が好きです。
今回は、私が好きで見習っている、
学んでいる武将や軍師を紹介するシリーズ。
ぜひ最後まで楽しんでいただけたら幸いです。
■領民に愛された武将
今回は久しぶりの登場!
石田三成 part3 です!
何度も書いていますが石田三成といえば、
歴史的には関ケ原の戦いで敗者となり、
どちらかというとあまり良くは
書かれない武将です。
しかしながら、三成は領民からは
とても慕われていたと私は思っています。
領民から慕われていなければ
さすがに関ケ原の戦いで7万から8万、
もしくは10万人の兵を集めることは
できなかったと思うからです。
(兵の数は諸説あります)
知性に優れ、政治面で活躍した三成は、
豊臣政権の時に太閤検地を行ないました。
通説的には、この太閤検地により
安定した年貢(税金)の徴収を図り、
豊臣政権の経済の基盤をつくったと
いわれています。
もちろんそのような側面もあったと
思いますが、三成としては農民の立場で、
農民に寄り添った政策を行ないたいと
考えたのではないかと思うのです。
その証拠になるものが現存しています。
「十三ヶ条成菩提院村掟書」という、
三成が領民たちに発布した掟書があります。
識字率の低い領民のために仮名を多用した
他に類を見ない掟書で、このことからも
領民たちの目線で取り組みが行われていたと
いえるのですが、内容も非常に領民に
寄り添ったものなのです。
たとえば、田畑は百姓のものなので、
誰かが奪い取ったりすることはできないと
定めたり、稲刈り前の状態を見て
納める年貢を決める、などと定めました。
不作の時であっても年貢を必ず決められた分
納めなさい!といった傍若無人なものではなく、
無理のない年貢の徴収を図ったのです。
戦の時に駆り出された場合には、
その分の対価を支払う、とまで示され、
まさに領民マターな施策でした。
このように領民を思って政治に
取り組んでいたら、三成は
自然と領民たちから信頼を得て
愛されていたのではないかと
想像することができます。
■「歴史は勝者がつくる」、だからこそ真実を想像する
関ケ原の戦いで三成が負けたのは事実です。
しかし研究が進むにつれて、
本当の三成の姿というのはもっともっと
異なるものだったのではないかと
想像してしまいます。
石田三成 part1 で、
『大一大万大𠮷』という
旗印の話をご紹介しましたが、
実はこのような旗印があったことは
歴史上、長らく抹消されてきていて、
ある時研究によって旗印があったことが
わかっています。
歴史は勝者の手によって、
過去のことを隠蔽したり、
捏造されることは多々あったと思います。
ある意味で仕方がないことです。
ですので、「歴史は勝者がつくる」ことを
念頭に置いて、その上で、
「本当のところはどうだったんだろう?」
と想像することがとても有意義なことであり、
歴史をそうやってみていくと、
とても面白いです。
関ケ原の戦いで勝った徳川家康も
大好きですが……
やはり、三成も良い!!!(笑)
石田三成の過去記事もぜひ!