【甲陽軍鑑】もう一つの一騎打ち
武田信玄の一騎打ちと言えば
「武田信玄」「一騎打ち」このワードから連想される武将と言えば上杉謙信ですよね。
武田信玄と上杉謙信の一騎打ちについては甲陽軍鑑にはこの様に書かれています。
甲陽軍鑑 品第三十二
萌黄の胴肩衣きたる武者白手拭にて、つふりをつゝみ月毛の馬に乗り、三尺斗の刀を抜持て、信玄公牀机の上に御座候所へ、一文字に乗よせ、きつさきはづしに、三刀伐奉る、信玄公立て軍配団扇にてうけなさる
馬に乗って切りかかってきた上杉謙信を武田信玄が軍配で受け止める。川中島の戦いの名シーンですね。
実際にそんな事があったかは様々な議論があるのでここでは触れませんが話題になる場面であることは間違いありません。
甲陽軍鑑ファンの私としては熱い場面のひとつです。
実は上杉謙信との一騎打ちの他に一騎打ちの場面があるんですよね!
もう一つの一騎打ち
武田信玄が敗北したと語られる村上義清との戦いが2つあります。
「上田原合戦」「戸石合戦」です。
この辺りの戦いについて、甲陽軍鑑の時系列はこうなっています。
甲陽軍鑑の合戦時系列
1546年
戸石合戦(品第二十五)
1546年10月6日
碓氷峠合戦(品第二十六)
1547年8月6日
志賀城攻略(品第二十七)
1547年8月24日
上田原合戦(品第二十七)
戸石合戦→上田原合戦となっていますね!
しかし、信憑性の高い一次資料と甲陽軍鑑との時系列を比較すると違いが見られます。
上田原合戦
天文17年2月14日(1548)
砥石合戦
天文19年(1550年)
上田原合戦→戸石合戦の順番です。
甲陽軍鑑は時系列が一次資料と比較して相違する事があります。武田信虎の追放も時系列に疑問点がありましたね。時系列の違いなどから甲陽軍鑑は低く評価される事があります。
それ自体は問題でないと言う人もいます。
甲陽軍鑑の記述を活かすも殺すも読み手次第です。
一次資料と甲陽軍鑑の記述の違いを理解した上で甲陽軍鑑の記述と向き合い楽しみたいですね。
今回のケースではそれぞれの戦いに至った背景や地理的関係から甲陽軍鑑の記述は否定的に捉えられます。
話はそれましたが、もう一つの一騎打ちについてこの戦いでこんな記述があります。
品第二十七
義清は我手よりの者四方へつきちらされたるにもかまはず晴信公と互に馬の上にてわたりあひ両方切先より火炎を出し伐り戦ふ
されとも敵味方共に御馬逸物にて太刀の光におどけて近くよる様にても遠立ち、村上は敗軍武田方は勝軍次第に武田の味方かさみてみゆる時
村上義清落馬なされたるをみて村上衆十四五騎雑兵四五十早々引まとひ落馬したる人をつゝみ、円く成てのけ共跡を取きられ、かや野へかゞまり深山に入て越後へにげ入後は晴信公と太刀打仕たるは村上義清なり出陣の時の広言に少も違はずつよき大将なり。
ざっくり訳すとこんな感じです。
義清は自軍の者たちが四方に散らされていたにもかかわらず、晴信公と互いに馬の上で戦い、両軍の刀から火花が飛び散りながら激しく戦った。
しかし、敵味方を問わず、両軍とも馬や武具が傷んでおり、刀の光に気を取られ、近づいたり遠くから戦ったりしていた。村上軍は敗北し、武田軍は勝利を収め、次第に武田の味方が増えていった。
その時、村上義清が落馬したのを見た村上軍の兵士たちは、十四、五騎の精鋭と四、五十騎の雑兵が急いで集まり、落馬した義清を包み込み、円陣を組んで戦った。
しかし、追撃を受けて敗れ、村上軍は深い山や茅野に逃げ込み、越後へと退却した。後に義清は晴信公と再び戦ったが、出陣の際の大言に違わず、実に強い大将であった。
村上義清と武田信玄一騎打ちの記述です。
上杉謙信以外とも一騎打ちの場面があるんです!甲陽軍鑑は大将同士の一騎打ちから何を伝えたいのでしょうか?
甲陽軍鑑は兵法書であり江戸時代の教科書です。記述については何かしらの意図があったはず。
現実的にはあり得ないエピソードについてどう考えていくかも甲陽軍鑑の楽しみのひとつです。
今回はもう一つの一騎打ちについて紹介させていただきました!