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第一話「林檎とふたり」
(まずはキャラクター紹介からどうぞ)
「ありゃま」
弁当屋のバイトから帰ってきた同居人·狸塚奈子(まみつかなこ)の声に、私は読み込んでいた資料から思わず顔を上げる。
彼女の視線はローテーブルに向けられていた。同居人が留守なのを良いことに目一杯広げたA4用紙。これはマズいと急いで片付けつつ、言い訳タイムスタート。
「あ、これ? 今度書く小説の舞台がバーだから洋酒の歴史について調べてたんだけど、結構面白くて」
「いえいえ梨花ちゃん、そっちじゃなくて」
おや、どうやら怒られずに済みそうだ。
では、彼女は一体何に驚いたのだろうか。
奈子の肉付きの良い指が天板の端を差す。そこには林檎がニつ、お行儀よく並べられていた。
「それはお隣さんからのお裾分け。実家から送られてきたんだって。それがどうしたの?」
私の問いに対して、奈子は無言で抱えている紙袋に手を突っ込み、答えを提示する。
彼女の手にはこれまた立派な林檎が握られていた。
「ありゃまだね」
「そう、ありゃまなの」
運動会の玉入れで何個入ったのか数えるように、紙袋の中から一つ、二つ、三つ……次々と林檎が姿を現す。
「こんなにいっぱいどうしたの?」
「よく行く八百屋があるでしょ? あそこの店頭でね、林檎と目があったの。あと安かったの」
奈子も奈子で衝動買いをした後ろめたさがあるのか、ご利用はちゃんと計画的ですよというアピールの一言が添えられる。人には人の言い訳タイムがある。
最終的に、私達の目の前に八つの林檎が整列した。我々は真っ赤な新兵達をどの部隊に配属させるか考え始める。
「一つはヨーグルトに入れて明日の朝ご飯に。一つは今度のカレーライスに。一つは保留ということで」
「残り五つは?」
「ジャムにします。手伝ってくれる?」
奈子はパーカーの袖を捲って気合い充分だ。
「いいけど、作るの初めてだから教えて」
「ジャム記念日」
「祝日に制定しよう」
「毎年国を挙げて祝いだね」
私たちは早速準備を始めた。
小柄な奈子の代わりに吊り戸棚から空き瓶を五つ取り出す。こういうとき高身長に生まれてよかったと思える。男に間違われたり、運動音痴なのに部活の勧誘で追い回されたり、ろくな思いをしてこなかった。自分や誰かの役に立ったとき、何かを好きになれるのかもしれない。
物思いにふけっている間に、奈子は大鍋にたっぷり水を入れて火にかけ始めた。
「ジャムってこんなにお湯が必要なの?」
「これは瓶を消毒するため」
なるほど、煮沸消毒か。それなら確かにこの大きさの鍋が必要なのも納得だ。
奈子は包丁やまな板を用意したり、備蓄用の砂糖の袋をわし掴んで戻ってきたり、狭い台所の中をふくよかな身体でダイナミックに動きまわる。
「5ミリ角でお願いね」
気がつけば、目の前に皮が剥かれた林檎と包丁が置いてあった。
シンクで手を洗う。作業台に戻ってくる頃には、林檎が二つ待っていた。
黙々と皮を剥く奈子の手にはピーラーが握られている。
「え、ピーラーで剥くの?」
「こっちの方が薄く剥けて、しかも早いの」
「……そっか、私には『林檎は包丁で皮を剥く』って固定観念があったんだなぁ」
あ、何かのシーンで使えそう。スマートフォンを取り出して忘れない内にメモを取る。
「また手を洗ってくださいね」
二度目の手洗いを終えてシンクから戻ってくると、まな板の上の林檎は四つになっていた。
「ウチが切るので、鍋に瓶を入れてね」
どうやら配属が変わったらしい。
見事な采配。さすがです、美味しいもの食べ隊総司令官。
鍋の水はお湯に変わっていた。
それにしても、さっき火をかけたばかりのはず。こんな大鍋で沸騰するには早すぎないか?
「冷たい水じゃなくてお湯を入れたの。その方が早く沸くからね」
そう言って、奈子は水道のコックを指差す。
「こういうのも弁当屋で教わるの?」
「うん、あとはネットで調べたりね」
「へぇ〜」
感心している場合ではない。このままでは瓶を棚から取り出すしか能のない女になってしまう。奈子に言われた通り、瓶と蓋に満遍なく熱湯が触れるように鍋の底にそっと沈めて、タイマーをセットする。その間も、包丁のリズミカルな音が耳に心地よい。
別の鍋に角切り林檎が山盛りとなった。
「次は?」
「お砂糖をまぶして、しばらく置きます」
「どのくらい入れ──」
最後の文字を言い終わる前に、一袋分の砂糖が豪快に降り注いだ。サラサラと小さな光を放つグラニュー糖がまるで新雪のように……これもメモしておこう。
タイマーが鳴った。キッチンペーパーの上に瓶と蓋を逆さにして、あとは自然乾燥を待つ。
「こっちも林檎の水分が抜けまで待ちなので、お茶にしましょう」
奈子は茶葉と林檎の皮をティーポットに入れて、ケトルからお湯を注ぐ。
少し蒸らして。揃いのマグカップが秋色に染まる。
立ち昇る湯気は香ばしい茶葉と甘酸っぱい林檎の香りをたっぷりと含んでいて、思わず目を閉じた。こんなに林檎のいい香りがするのに、飲んでみると甘さはない。
昼に読んでいた資料を思い出して、私は棚の奥にしまってあったウイスキーをマグカップに足してみる。
「あ、梨花ちゃんだけズルい!」
「でも、これ度数高いよ?」
奈子はお酒に弱い。気をつけないとすぐに酔いつぶれてしまう。悪絡みするタイプではないけど、どこでも寝るので困ってしまう。
「でもでもでも、明日はお休みだし、この後出かける用事もないから……ダメ?」
奈子さん、私がその上目遣いに弱いの、知ってますね?
確かに、もう日が暮れ始めた。晩ごはんは昨日作った肉じゃがで済ませたらいい。
「来客予定は?」
「ないです! 宅配も来る予定ありません!」
「お隣さんも今日会ったから来る確率低そうだね」
しばしの沈黙。
私は、奈子のカップにほんの少しだけウイスキーを垂らした。これぐらいなら大丈夫だろう。奈子は小声で「やった、やった、やったった」とリズム良く歌を口ずさんでいて、飲む前からご機嫌だ。
「今週もお疲れ様でした。乾杯!」
奈子の音頭を合図に、マグカップたちがカチリと挨拶をする。口に含むと、ウイスキーのおかげでさらに深みが増して美味しくなった。しかも、このウイスキーは蜂蜜が入っているから林檎や紅茶と相性が良い。思った通りの味に仕上がっていい気分だ。
淹れたてよりも温度が下がっているはずなのに、アルコールのおかげで身体の芯から温まる。
奈子を見ると、既に鼻が赤くなっていた。
「梨花ちゃん、無礼講タイムしてもいい?」
ふにゃふにゃの声に、私は頷いた。
すると──
ぽんっ!
鼓を叩いたような破裂音とともに、煙が立ち込める。その煙はすぐに晴れて、私の目の前に一匹の狸が現れた。
ふわふわの尻尾にまん丸シルエット。
狸は後ろ脚を伸ばして座り、マグカップを持って、にへらと笑う。
「それじゃ、私も──」
頭の中にあるスイッチを切るイメージ。
ぽんっ!
この社会で生きるために作られた肉体から開放され、本来の姿に戻っていく感覚は、堅苦しいスーツを脱ぎ捨てる快感に似ている。
周りの物を弾き飛ばさないように気をつけながら羽根ならぬ尻尾を伸ばす。カップの中にはさっきよりも長くなった鼻先、それにフサフサの耳が写っている。
奈子は狸。私は狐。
それぞれ訳ありで人間として生活している。
ただ、ずっと人間の姿でいるのも中々大変で、泥酔したり、体調を崩したりすると変化が解けてしまうことがある。
だからこうして、ルームシェアをして助け合っているのだ。
ティースプーン一杯程度のウイスキーでほわほわになってしまった奈子は、台所の床に転がって、まるで枕みたいだ。
「梨花ちゃんはすごいですねぇ、こんなにおいしいものを知っているなんてぇ、ほんとすごいのですよぉ」
そう言って、奈子は寝息を立て始めた。
こうなってしまったのは私のせいでもある。カップにウイスキーを注ぐとき、多少覚悟はしていた。
仕方ないので、私はスマートフォンでジャムの作り方を調べることにした。
鍋の中で水が抜けて艶めく林檎の山を見て、故郷の雪解けを思い出し、アプリを切り替えてメモを取った。