人生って詰め放題に似ている
人生は詰め放題に似ている。いや、人生は詰め放題そのものだと言っても過言ではない。……過言かも知れない。
ともあれ、詰め放題だ。詰め放題の本質とは何だろうか? 定額でどれほどの量でも詰め込める楽しさか。たくさん詰め込めるようでいて、案外そうでもないことか。それとも詰め放題に目の色を変えて無理やり詰め込もうとする人の浅ましさか。
どれも違う、と言いたい。
詰め放題に本質があるとすれば、それは「同じ容器に詰め込むにもかかわらず、人によって詰め込める量に大きな差が表れる」という点である。
実際考えてみるとわかるが、詰め放題の最適解があって誰もがそれと寸分違わずに詰めるのなら、最初からお店側で商品を詰め合わせにして売っても変わらない。
詰め放題がエンタメになるとすれば、それは詰め方に工夫の余地があり、それ次第でお得になる可能性がある、という部分にあるのだろう。そして工夫の余地があるということは、人によって詰め込み方が、詰め込める量が変わるということでもある。より巧みに、より多く詰めようとするのは、ゲームやスポーツで高得点を狙うのと同じだ。
で、この要素は人生にも共通している、というのが言いたいことである。
詰め放題の容器とは、時間だ。1日の長さも1年の長さも、万人にとって等しい。詰めるものとは、体験であり経験であり成長であり、それらに基づく成功や幸福だ。
何をどう組み合わせ、どのような順番で詰めていくか。これ次第で、効率性だったりリターンだったりが大きく変わる。時おり、同じ年齢なのにどうしてこの人はこれほどあれもこれも知っている(できる)のだろう、と思わせる人がいるが、そういう人は詰め放題が上手いタイプなんだろう。
なお、詰め放題と人生が異なるのは、単位時間は等しくとも寿命は人により異なるという点かも知れない。
長生きや健康寿命の伸長を目指して気を付ける人は、詰め放題のビニール袋を引っ張って伸ばして少しでも多く詰めようと頑張るのに似ている。それもまたひとつのテクニックなのだろう。