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『いまファンタジーにできること』


2022/05/15
Ursula K. Le Guin,2009,Cheek by Jowl:Seattle,Aqueduct Press(谷垣暁美訳,河出書房.)

これ!この本!推します。
私は本がすきだけど、フィクションがすきで、ファンタジーがすき。私たちがやってる劇はそんなに法外なことが起こるわけではなくて(起こることもあるけど)、むしろ劇的なことなんて何もないけど私たちは私たちを生きていくよねって話が多い。けれどもあれはファンタジーだとやっぱり私は思うんだな。

表紙がいいのよ〜〜。竜?ワニ?ドラゴン?やっぱり竜?船もある!骨もある!卵もある!!いやあ、いいねえ、、引き出し、本棚、地球儀、地図。あとね枕もねうっすら竜なのよ。これ空飛ぶ夢見られるよきっと。
英文学にそこまで馴染みがない私が竜にときめくのはきっと『エルマーのぼうけん』シリーズのおかげだろうな。歌だとピーター・ポール&マリーの”Puff the Magic Dragon”がすきです。小学校の音楽の授業でリコーダーで吹いてた。
竜って完全に西洋のものだと思っていたけど、むかし『でんでら竜がでてきたよ』をめっちゃ熱心に読んでたのを思い出した。紙に描いた竜が出てきて、紙に描いたミルクを飲ませると膨らんで、私もおんなじことやってみた気がするぞ。『さいごのまほう』シリーズを読んで魔女になる修行してたもんな。あれ何歳ぐらいだったんだろう。むかし読んだ本のこと、こうやって思い出すまで完全に忘れていてこわい。

本書に戻るけど、最初の『眠りの森の美女』の節がもぅぅどきどきするよ。その後は学びを得るところが大きい。「文学」から「児童文学」が閉め出されてきたことや、リアリズムがファンタジーを「子ども向け」「未熟」「幼稚」と評してきたことをけっこう強く批判している。「ファンタジーは原始的(プリミティブ)なのではなく、根源的(プライマリー)なのだ。」(p. 42)ここすごい。
論理的に批判的に読むことと同じくらい、想像することを大切にしたい。わくわくしたいし、どきどきしたいし、キラキラしたものを胸に抱えて生きていたい。
頭で読むか心を震わせて読むか、ロジカルに読むか感覚的に読むか、切り分けて対立するもののように言われることが多くて悲しい。どっちも要るし、どっちもやれると思ってる。

ゆうて私、絵本を読み出したのは最近で、児童文学もあんまり(というかほとんど)読んでないんだな。『ナルニア国物語』は読んだけどそんなに覚えてないな。クローゼットの奥が雪の国っていう導入がすきで、母のクローゼットに何度も出入りした記憶。私が一番入らない部屋の一番奥にある細っこいその扉は、私にとって私の家の最も辺境に位置していて、異世界に繋がる場所があるならどう考えてもここだった。(ちなみにクリスマスの朝までサンタさんがプレゼントを隠していたのもここだった。それは10歳の時にあにきと家中を探し回って見つけた。プレゼントが欲しかったお洋服であることを知って喜んで、翌朝私は初見のフリをしてもう一度新鮮に喜ぶ演技をした。私があにきのこと好きなのは、あにきにくっついて歩いた幼少期〜中高時代を好きなんだろうなずっと。)

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「子どもの本の動物たち」が一番長いし読み応えがあったよ。『ドリトル先生物語』や『鏡の国のアリス』が出てきてどきどきしたり、昔すきだった(絵も描いた!)『空飛び猫』が村上春樹訳だったの初めて知ったり。

「『バンビ』というタイトルを読んで、眼球の肥大したキュートなスカンクたちが目に浮かぶ人がいたら、ディズニー病にかかっている。ぜひとも、フェリークス・ザルテンが書いた原作を手に取って、読んでいただきたい。それは、野生の鹿であるとはどういうことかを教えようとする本だ。」(p. 108)

ここわろた、ディズニー病だわ。ここのバンビの節すごいよ。原作読みたくなった、とてもとても。「動物の他者性、異質性」(p. 182)なんかは私の研究にも絡むよなって思って読んだ。擬人化は植民地化である、ってすごくない。

「彼らもまた両手を差し出して、わたしたちをより大きな世界に、再び結びつけてくれる。わたしたちを、本来、属しているところにいさせてくれる。」(pp. 182-183)

これは〜〜、3月ぐらいに動物および絵本にハマってた頃に発見したこと、まさにそれですね。鴻池朋子とかもさ、たぶんおんなじものを信じてるんじゃないかな。

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その後も「わあ、よい!」と思える節がたくさんあって、しかし引用するには長すぎるから目立つピンクの付箋を貼っておいたけど、ファンタジーに限らず本とかほかのすべての芸術を愛する人に読んでもらいたいところがいっぱい。紹介しきらんけど、んんん、どうしても、一個だけ!

「どんなふうにであれ、その言語を知的なメッセージに縮小したら、すべてが根本的に破壊されるほど不完全なものになってしまう。
これは、ダンス、音楽、絵画と同様、文学にもあてはまることなのだ。しかし、文学は言葉によってつくられる芸術なので、何も失うことなくほかの言葉に翻訳できると考えてしまいがちだ。そういうわけで一部の人は、物語はメッセージを伝える方法に過ぎないと考える。」(p. 220)

すべてを綺麗に切り分けるように説明すると途端に味気なくなることがあるのはこういうことだと思う。しかし、だからといって、よいと思ったものを「よいッ!」と言って収めてしまうとなると、なにがどう良いかを考えることを放棄しているという意味ではスルメを噛まずに丸呑みしてるみたいなもったいなさがある。このことは忘れないでおきたい。
繰り返すけど、頭で読むことと心で読むことは二律背反じゃないと思う。常に論理が先行しちゃう読み方のつまらなさを批判するこの本の論調には首が取れそうなくらい賛同するし、それでも私は論理的にも読もうとするし、言語化できそうなことがあるならこうやってどこかに書き留めておくの。

私はフィクションを、物語を信じているけど、それらが私たちが生きていく上でなぜ必要なのかについては説明することを避けてきたように思う。
「人文学がなんの役に立つか」と問われたときに困っちゃうのもそうで、役に立つかどうかですべてを説明付けようとするその態度がそもそも理性とか秩序とか合理性を重んじる近代的な思考に侵されてるんよってずっと思っているけど、でもやっぱり人文学畑や芸術畑の仲間内だけで、説明しなくても話のわかる人たちとだけ遊んでるのはちょっともったいないんじゃないかなって最近は思う。
人間・文明・中心が動物・野蛮・辺境を切り捨て遠ざけるのを批判するのなら、そして今の私たちには聞き取れない声を翻訳する姿勢を諦めないのなら、その必要性を理解してくれない人々に対しても、やっぱり私たちは説明していかなきゃいけないんじゃないかしら。

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以下、「単行本版訳者あとがき」より。

「では真のファンタジーとは何でしょうか。ル=グウィンは定義を与えるのではなく、さまざまな可能性に向かって開かれた言葉でファンタジーとはどのようなものかを表現します。善と悪の戦いを描くのではなく、善と悪の真の違いを表現するのに役立つもの。現実から逃避するのではなく、ほかの人たちがほかの種類の生活を送っているかもしれない、どこかほかの場所が、どこであるにせよ、どこかにあるという感覚や知識を取りもどすことで、ほかの選択肢を含む、より大きな現実を獲得するための道具。」(pp. 237-238)

「この本の魅力は、読んでいる間じゅうずっと、ル=グウィンがそばにいるような強い存在感ではないかと思います。それはこの人の類まれな正直さ、知的な面での誠実さ、倫理性の高さによるものではないでしょうか。そしてもちろん、言葉の適切さ、美しさにも。」(p. 242)

私、ル=グウィンには会ったこともないし声を聞いたこともないけど、こういう人になりたいわ。
谷垣さんが訳しているW・トレヴァー『恋と夏』もいつか読みたいと思ってる。

注:引用に際して適宜ルビを省略した。

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