『ここはとても速い川』
2021/01/23
井戸川射子,2020,講談社.
「膨張」
なにかがとても良いけど、なにが良いのかしっくりくる言葉がない。生活の、景色としての切り取り方が淡々としていて、知ってる感覚がちらちらと見え隠れした気がする。「私なら学校トイレの汚物入れに捨てるけどな、汚物入れっていうのもすごい名前だな。」(p. 124)がなんか面白くてふんふんと笑った。そのあと、急にとてつもない言葉が流れ込んできて驚く。共鳴して辛くなる。
いつもそうだ。怒りを言葉で的確にぶつけられない、だってそういう時はそもそも尋常な心持ちではない、主張できない。いつも抱える単語の広さを思う。たとえば昔産婦人科で、股にしこりができた時、よく見もしないで塗り薬だけ出してきた医者にも、太田にも宇敷にも、私は本当ならもっと声を上げれば良かったのだ。言葉は意味を持ち過ぎていて、橋の架け方も分からない。文章は私にとって今、無限。無限?(p. 133)
「ここはとても速い川」
小学生の語りで、かつ方言なので主述がしっかり切り揃えられていなくて、だからこそ書けるなかなか荒涼とした現実があった。関西の「地域」ってこんなかんじ。「地域のつながり」とか「地域の魅力再発見!」とかでいう「地域」ではなくて、もっと昔から土とかどぶ水とかと一緒にそこにあるものとしての「地域」。
あ、この作家は女性だな、と思う場面が多々あって(モツモツの短歌、妊娠線、ベビーカーなど)、でもこれを女性の一人称の語り手で書くとしんどくなるやろなってところを、小学生の男の子に語らせるのが上手い。もし集が女の子だったら、語り手が潜在的な女であることがなかなかの地獄を生成するように思う。子どもの語り手は込み入った自我が確立する前段階にいるからか、事実の断片を観測するような語りをする。繋ぎ合わされた断片が意味を結んでもいいし、結ばなくてもたぶんいい。これは集の構成した意味世界を軽んじているわけではなくて、集の見る世界と大人の見る世界のずれが、漫然とした大人不信として滲み出ている点もまた見事。
たまたま直前に読んだインタビュー記事には「『著者の体験と重ねて読まれがち』な詩と異なる自由を小説執筆に見つけた」(『毎日新聞』2022.1.4)と書かれてあって、記事だけではぴんとこなかったけど、読んでみるとそういうことかと納得した。