十劫成道は、この私のために
ご讃題
弥陀成佛のこのかたは いまに十劫を経たまへり
法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり
(親鸞聖人のご和讃…浄土和讃)
法話
挨拶
皆さんこんにちは。弘教寺のnoteをご覧下さり有難うございます。初めましての方もいらっしゃると思いますので自己紹介をかねてご挨拶をさせて頂きます。副住職の小林真法(コバヤシマサノリ)と申します。27歳です。2年前にお坊さんになりまして、大阪の行信教校と広島の広島仏教学院に通っておりました。法名は釈真法(シンポウ)です。3月20日より弘教寺の副住職としてお世話になっております。本日は皆さんと共々、阿弥陀様のお慈悲をお味わいさせて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。
こちらの和讃ですが、浄土真宗で正信偈を読むときに、最初に読まれる和讃です。聞き覚えのある方もいらっしゃるのではないでしょうか?おつとめで「弥陀成仏のこのかたは」という節回しを聞いたことがあるかもしれません。
この和讃の出拠は、これもご法事等でお聞きしたことがあるかもわかりませんが、阿弥陀経の「成仏以来 於今十劫」という御文からこの和讃が作られています。
和讃とは
和讃とは親鸞聖人が、阿弥陀様の悟りを開いたことのお徳をほめ、讃えられた七五調の歌です。解釈をしますと、「阿弥陀様はさとりを開かれてから、はるか十劫の時を経ておられます。そのおさとりのお姿や欠けるところのない智慧の光は、あらゆる世界に満ち満ちて、迷いの世界の闇を照らしておられます。」という意味です。
阿弥陀様がさとりを開かれてから十劫ということで、十劫とは何か?気になるからもいるかと思います。「十劫」というのは時間の長さです。どれくらい長いかと申しますと、四方が40里の大きな岩を、天女が着ている衣のすそで、3年に1回撫でて、岩の表面が全て削り取られて消えてなくなる時間を一劫といいます。それが十回行われるので十劫です。なので、10個分の石が削り取られるというのはとてつもなく長い時間を指しているのがわかると思います。阿弥陀様はこのとてつもなく長い間、私のことをおさとりの光で照らしてくださっていると親鸞聖人はほめ称えて下さっています。
妙好人の浅原才市さん
話は変わりますが、浄土真宗ではお念仏のおみのりを味わわれた方を、妙好人(みょうこうにん)と呼びます。その妙好人に、島根県の温泉津の浅原才市(あさはら さいち)さんという方がいらっしゃいます。その方の言葉でこのようなものがあります。
『弥陀成仏の このかたは いまに十劫を へたまへり
わしの心に 経たまえて くださる慈悲が なむあみだぶつ』
先程の和讃と似ているようですが、下の句は違います。浅原才市さんは、阿弥陀様が仏のさとりを開かれたことを、「この私」の上に願いをかけて下さり、それが成就したものであると味わわれました。
阿弥陀さまの願いとはたらきには、まったく気づかなかったこの私に、阿弥陀さまのひかりが照らされてつづけていたという事そのものが尊いことです。一方、私の側からすると十劫もの間、阿弥陀様の教えを聞くことなく、待たせ続けてきたということです。
十劫成道は、この私のために
阿弥陀様はそんなずっと教えを聞かない私に対して絶えず「お念仏しておくれ、あなたを救うために南無阿弥陀仏の六字の名号の中に摂めたぞ」と願って下さっています。そんな阿弥陀様に対して「南無阿弥陀仏」とお念仏申させていただくということは、阿弥陀様の私をつつむお慈悲のおこころが、ただ今私に南無阿弥陀仏の六字となって届けてくださっているといるのです。 阿弥陀様のおこころが私に届いているからこそ、いまこの私から「南無阿弥陀仏」のお念仏がこぼれ出ている。これが阿弥陀様におまかせする姿です。
呼びかけ続けられていた私が、長い時間を経てようやく気づかされて、やっと南無阿弥陀仏とお念仏申す身となることができたのです。
和讃の一つ一つが、仏様に向けて褒めたたえるのみではなく、阿弥陀様のお慈悲がこの私にかけられているのだいう事を深くお味わいさせて頂きたいことでございます。