ケバブが交錯させる過去と現在

近大の学食が続いたところで、移動販売のケバブの屋台が目についた。誰もいなかったため、店員さんと少し話し込む。

ケバブはフランスでもかなりメジャーであり、フランスの思い出はケバブへと結びつく。だがフランスのような味のケバブはなかなか巡り会えない。サラダやポテトを挟み、サムライソースというよくわからないソースをかけたケバブは日本では見つからない。

若い頃、フランスで飲んだ帰りにケバブを食べた。思えばシメのラーメンにも似ている。留学したての頃、街を歩いてはケバブ屋に入っていたことを思い出す。

ところで近大のケバブはフランスと似ていた。しっかりと「無意志的記憶」が発動する。ケバブの味で過去の思い出が甦り、二つの空間が交差する。

もう二十年近くも前、不安なまま暮らしたボルドーで過ごした日々が、研究室の自分と繋がる。じゃあ自分の不安は消えたかと言えば、別の不安に入れ替わっただけである。ただ、その頃から今に至るまで、プルーストだけは変わらず読み続けている。書物もまた記憶復活の装置として過去と現在を繋いでいる。

僕の授業で扱いたいのは、こんな当たり前のような「あの頃の味の思い出」だったりする。それがその人の唯一無二性の証であり、隣の人間も同様に唯一無二のものを内包している。他者理解はそれを認めたところから始まっていく。

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