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紀伊半島ー神仏習合と「あそび」

日本の宗教は仏教と神道?
 通訳案内士という職業柄、特に私が案内する欧米人のうち、多少日本文化を勉強した人は「日本の宗教は仏教と神道」と思っているようだということに気づいている。さらに通訳案内士ですらそのように解釈しているものが少なくないことも知っている。しかしそれは「仏教」「神道」というものをキリスト教やユダヤ教、イスラム教のような絶対神による一神教と同格のものとして考えているからである。京都や鎌倉の禅宗や西日本各地の浄土真宗はともかく、仏教と古神道の境界が曖昧な宗派として密教(真言宗・天台宗)がある。そしてその神仏習合が進んだ結果、神社と銘打ってはいるが仏教的色彩の強いところも少なくない。
 今回はそのような場所の代表例として比叡山から本州の南国紀伊半島、特に高野山と熊野を歩いてみた。その前にまず、高野山以前の日本の密教発祥の地ともいえる比叡山延暦寺を歩いてみよう。

雨の比叡山延暦寺
 比叡山というと初秋に行った時のことを思い出す。ふもとの門前町、坂本では残暑を感じたが、比叡山ドライブウェイを曲がっては登り、曲がっては登りを繰り返しているうちに曇りだしてきた。延暦寺の境内は中腹の「横川(よかわ)」、山頂の「東塔(とうどう)」「西塔(さいとう)」の三か所に分かれているのだが、平安時代の浄土信仰発祥の地である横川をお参りするころは周りはうっそうとした緑に覆われているからか涼しくなっていった。さらに頂上を目指すと天気が崩れ、雨に打たれだした。
 雨に濡れながら東塔を、まだ工事中だった根本中堂に向かって歩く。こここそ奈良仏教から平安仏教への橋渡しをした日本仏教史上のパイオニアにして日本天台宗の開祖、伝教大師最澄が788年に建立した一乗止観院の跡地である。彼が日本の仏教史のパイオニアとなったのは、それ以前の奈良仏教が「仏の教え」である前に「仏教思想研究」であり、また出家者のみ救われるという考えだったからであり、それに対する反発があったからだろう

「山川草木悉有仏性」
 百済系渡来人の家系にあった最澄はもともと東大寺戒壇院で具足戒を受けて学んでいたが、わずか三か月余りで比叡山に籠もり、山岳信仰の実践者としての道を歩んだ。貴族的な出自を持つ「やんごとなきご身分」なので学問をしさえすれば生活と高い地位が保障される暮らしを捨て、厳しい自然の中で何かをつかもうとしたのだ。その在り方はそのままインドのガウタマ・シッダールタことお釈迦様の後を追ったのかもしれない。もちろんその先は何の当てもなかったが、後にそれなりに評価されたこともあり、804年に遣唐使の留学生(るがくしょう)として大陸に渡った。目的は天台宗を日本に移植するためであるが、国費で仏教書籍を集めることができる恵まれた環境にあった。
 そんな最澄の思想の中核には、「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」、すなわち人間のみならず、草や木、山や川といった自然のすべてがいのちを大切にして生きているという考えがある。これは天竺(インド)や中国の仏教に見られる抽象的な教えとは一線を画し、日本人の自然観と深く結びついているといえよう。彼はこの比叡山の四季や山水を歩き、その移ろいに感銘を受け、「諸法実相」すなわち自然の一瞬一瞬の移ろいにこそ真実があるとする考えを強調したのだ。それは、目に見えるものに実体性などない「色即是空」という奈良仏教以来の考えからすると異端ではあるが、山川草木にいのちの営みを感じる日本人の心情にしみいる思想だったといえよう。
 また、浄土信仰が死後の救済を重視するのに対し、最澄の天台思想はこの世の悩みを解決し、いかに生きるべきかを説く実践的なものでもあった。それはその後、日本仏教の根本として受け継がれ、ここ延暦寺から全国に広がっていった。
 ところで比叡山には千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)という荒行が今なお行われている。それは修行者たちが山々を駆け巡り、数百の仏殿や草木に祈りを捧げる修行だが、これを通して修行者は自然の中に宿る「いのち」を体感するという。山々に入れば感じる何か——それは神道でいう「カミ」や、民俗学でいう「妖怪」のような存在かもしれないが、いずれにせよ人智を超えた「いのち」の気配が濃厚に感じられるではないか。
 その中心となる延暦寺の伽藍から一歩山に入ることで、日本仏教の源流と、最澄が描いた「すべての命の尊さ」に触れることができたような気がする。それでは前置きはここまでにしてこれから紀伊半島の付け根、吉野と高野山に向かってみたい。

吉野金峯山寺ー強面コスプレの蔵王権現
 吉野と言えば桜である。桜のころ訪れると、山全体が幻想的に霞んでくる。特に小雨が降るような日には霧か靄で桜もはっきり見えないが、それがまたよい。ロープウェイで上がってしばらく歩くと巨大な檜皮葺が見えてくる。金峯山寺(きんぷせんじ)だ。高さ34m、前近代の木造建築としては東大寺大仏殿に次ぐ規模という。
 修験道をはじめた役小角(えんのおづぬ)もこの山道を歩いていたはずだ。彼が蔵王権現に「出会った」のもこの寺で、それにインスピレーションを受けて仏教、道教、古神道がシームレスにつながった修験道が生まれたというのだ。御開帳の日に訪れれば、青色に塗られた3体の7mにもなる蔵王権現が憤怒の形相で我々をにらむ。まさに「異形」の仏たちのお迎えだ。ちなみに「権現」とは「コスプレ神仏」である。本当は別の形だが、我々の前に現れるときは「それらしい」姿、この場合は強面で現れるというのだ。
 もともと役小角が千日間修行しているころには釈迦如来、千手千眼観世音、そして弥勒菩薩などを拝んでいた。しかしそのような柔和で慈悲深そうな諸仏では混乱を極めた飛鳥時代の衆生を救うことができないとして、さらに探し求めた結果現れたのが、その三尊をミックスさせた日本独自の蔵王権現だという。そしてそれを山桜の木に彫り付けたのがこの寺の起源であり、それが理由で吉野は桜の名所になったともいう。ただし修験道の場合は桃山時代の檜皮葺のお堂や仏像に価値を見出すものではない。
 内部には役小角の像もある。ぎょろめで手に錫杖を持ち、高下駄をはいて、なによりも二匹の鬼を侍らすその異形は、仏教の指導者として塑像を作られてきた聖徳太子や空海の持つ「仏教正統性」とは正反対のアウトローさを醸し出している。彼に始まる山岳信仰の行者たちは世間的には「邪宗」あつかいだったが、貴族たちはその「法力」を信じてしばしば招いては加持祈祷を受けたという。
 ちなみに摂関政治で知られる藤原道長や頼通親子、白河上皇など王侯貴族も11世紀前後に相次いでここを詣でている。それだけではない。吉野には鎌倉時代初期、兄に追われた源義経も、放浪の吟遊歌人、西行法師も、南北朝時代には後醍醐天皇まで南朝の拠点として流れてきた。蔵王権現にせよ役小角にせよ、ここを訪れる人々は強烈な男性性を持った人か、でなければ男性社会の「負け組」ととられかねない両極端のタイプが多い。いずれにせよ野性味を匂わせる男性原理を強く感じる。そしてそれはこれから訪れる熊野のような女性原理の地域とは大きく異なる。それではここらで男性原理の吉野山を下りて吉野川を下り、高野山のふもとを目指そう

九度山慈尊院
 吉野山麓から和歌山市に向かって流れる紀ノ川の南岸に九度山という町がある。戦国時代ファンならばあの真田昌幸、幸村親子が関ケ原から大坂の陣までの十数年間蟄居させられていたところとして記憶しているかもしれない。ところで女人禁制の高野山なので空海の母親すら入れず、かつては高野山入口の女人堂まできて遥拝するしかなかった。そこでふもとのこの地に慈尊院を建立し、空海の母親を住まわせたが、母親に会うために月に九度もこの地を訪れたため、九度山という地名が付けられたという。
 それだけでなく、後にこの地は湿度の高い高野山では保存しにくいものを保管したり、諸国の荘園からの税を、高野山に代わって保管する場所となった。さらには上皇たちや藤原道長頼通親子の高野山参りの折は滞在場所となったという。高野山を登る前に時間があれば、「高野山のB面」としてぜひとも見ておきたいところではある。

雪の高野山へ
 初めて高野山に登ったのは雪深い暮れのことだった。ふもとの暖かさから一転して、海抜800m以上の宗教都市に近づくにつれて、雪と氷に覆われた道になっていった。もちろんグネグネとしたカーブの連続である。雪道を進むのは得意ではない。八年間雪国で暮らしていたこともあったが、凍結した道はいまだに苦手だ。幾度かスリップしてぶつけたことも、ワゴン車をひっくり返したことすらある。しかも今はもう夕方だ。意識せずともハンドルを握る手に力が入る。
 だが曹洞宗(父方)と浄土真宗(母方)の家で育った私が、この真言宗総本山の地にたどり着いたのは、さまざまな「結縁(けちえん)」—仏教用語で言うところの出会い—に導かれた結果だろう。私は高野山に「呼ばれている」から無事につくはずだと信じ、粛々と登って行った。密教では特にこうした「仏との出会い」を重視する。
 
宿坊で知った大日如来からのメッセージ
 高野山には110余りの寺院があり、そのうち半数近くが宿坊を運営している。その多くが密教の体験ができるということで特に欧米人のインバウンド客であふれている。お世話になった宿坊でもフランス語やイタリア語が飛び交っていたが、彼ら同士の言葉がわからないことに少し戸惑いを感じだした。動画を視聴しようとしたがWi-Fiの接続状況がよくない。そこである「密教的解釈」を思い出した。これは大日如来からのメッセージととらえることである。
 「密教」とはそもそも「秘密の教え」なのだろうが、「秘密」と感じるのは、私たちが大日如来からのメッセージを「受信」するため修行を積んでいないからだという。それはちょうどWi-Fiの感度が弱いため動画が見られないようなものだろう。あるいはフランス語やイタリア語を学んでないから分からないようなものだろう。フランス語とイタリア語とWi-Fiの調子の悪さでようやく大日如来からのメッセージに気づいたような気がする。

空海が高野山を選んだわけ
 翌朝、お勤めを見学し、食事をいただいてから雪の金剛峯寺に赴いた。壇上伽藍の参拝者はほとんどいなかった。ここを建立した弘法大師空海は最澄と比較するとその独自性が際立つ。最澄は空海に比べ、エリートながらも人間らしい苦悩と葛藤を見せる。派手な「武勇伝」には欠け、不完全さがかえって魅力として語り継がれているのだ。一方の空海は、若い頃から四国の野山を歩き、自然と一体化する修行を行っていた。野人のような野性味を持つ天才児の彼は、その自由で創造的かつ「盛った」生き方が、多くの人々を魅了している。
 そんな空海の「盛られた」伝説の代表例が、壇上伽藍の中ほどにある「三鈷(さんこ)の松」という一本の松の木だ。空海が唐から帰国後の密教の大本山を選ぶために法具の三鈷杵(さんこしょ)を空高く投げたところ、東シナ海を越えてここの松に引っかかったというのだ。確かに宗教にはこうした「奇跡」はある程度必要だ。しかし話を盛り過ぎではないか。
 一方で壇上伽藍のもう一つの見どころは、丹生都比売明神(にうつひめみょうじん)ら地元の神々を祭る御社(みやしろ)だ。高野山のふもとで紀ノ川の南にも丹生都比売神社があるが、この女神は地元の鎮守の神である。真言宗の仏たちが高野山の中心を占める一方で、地元の神々もその片隅に祭られる姿は、密教と古神道が融合し、柔軟に共存してきたあかしでもある。
 また、ここで注目したいのが「丹生」という表現だ。これは金銅の仏像などを建立するにあたって必要な水銀を意味する。この地域、いや紀伊半島全体で金山、銀山、銅山などは古来より少なくなかった。入唐以前にもこの地に着目していたといわれる空海がこの地を本拠地として選んだのは案外そのような実利的なことを考えてきたからかもしれない。間違っても法具を海に向かって投げたわけではない。ただしここに建立した理由が「水銀目的」となると実利的すぎて神秘性もありがたみも消えてしまう。ただ松の木と御社の意味を読み解くことでレジェンドとしての魅力と同時に、空海がこの地を選んだ理由が伝わってくるではないか。

唯一の「横綱」大日如来と「関脇」としての明王たち
 大乗仏教では神仏に序列がある。単純にいえば横綱≒如来、大関≒菩薩、関脇≒明王、小結≒天部である。ただ密教では一段ずつずれる。横綱=大日如来のみ、大関≒その他の如来、関脇≒菩薩、小結≒明王、前頭=天部といっても過言ではない。それだけ大日如来は別格なのだ。その他、真言宗寺院では必ず見かける、しかも目立つのが不動明王愛染明王である。根本大塔の東に二棟の明王専用「一戸建て」がある。まず不動明王の不動堂だが、いかにも体育会系の風貌で、手にした羂索(けんじゃく)というネットで悪を捕まえ、剣で懲らしめるという。その力強さや鋭い眼光で、菩薩のような優しさでは矯正できない悪を滅することができるというのも確かだが、実は明王は大日如来の秘書係をするのも大切な任務だ。大日如来には直接お願い事はできないことになっているため、それをまずは不動明王に託すのである。ただ、お願いする我々としては、彼を大日如来そのものとして真摯に向き合わねばならない。
 不動明王と並んで人気のある愛染明王の「一戸建て」、愛染堂はその真北にある。真っ赤な躯体に様々な道具を持った六本腕の獅子頭がこちらをにらんでいる。額に縦についている第三の目は、万事の本質を見抜く「智慧(般若)の目」と呼ばれる。
 ところで「愛染」とは「愛欲にまみれた」という意味だが、それはキリスト教的な「神の愛」という意味でも、エロティックな意味でもない。そもそも非密教では「愛欲」はくだらないこだわりとして、捨て去るべきものであり、それが悟りだと教える。しかし密教ではこれを肯定する。なぜかというと、喜怒哀楽に加え、どろどろの愛欲までもが我々に自然に備わっている心の動きであり、一見ネガティブに思えても「智慧の目(般若)」でみればそれすら清らかなものであることに気づくからだ。そもそも仏に与えられたものにけがれたものなど存在しない。これが密教的な愛欲肯定である。

壇上伽藍根本大塔
 空海が自ら土を踏み固めたといわれる壇上伽藍は高野山の「本丸」であり、その「天守」にあたるシンボル的建造物が高さ49mの根本大塔である。1937年に鉄筋コンクリートで何度目かの再建をされたこの建物は二層の多宝塔に見えるが、実は一層構造で、胎蔵界曼荼羅そのものを立体化して表している
 塔内に入ると大日如来を中心とした須弥壇(しゅみだん)とその周囲を取り囲む諸仏が、そして柱には十六菩薩の絵が描かれており、宇宙の壮大な循環を視覚的に表現している。これは大日如来の教えが中心から周囲全体に広がるように設計されており、荘厳で神秘的な空間は訪れる者を異次元へと誘うようだ。阿弥陀仏一尊を敬う浄土真宗寺院に慣れている私のような人間は、この多神教さに驚かないではいられない。

密教VS顕教(上座部仏教+他の大乗仏教)の構図
 ここで密教以前の仏教の流れについておさらいしよう。仏教という大きな宗教体系は、一般的には東南アジアやスリランカを中心とする「上座部仏教」と、東北アジアで広まった「大乗仏教」に大別される。前者は釈迦如来のみ崇拝する一神教ならぬ「一仏教」で、男性は一生に一度は出家する。後者は多神教ならぬ「多仏教」で、在家主義である。しかし密教は仏教を「密教」と「顕教(≒非密教)」に分け、顕教をさらに「上座部仏教」と「大乗仏教」に区分する。この分類の根底にあるのは、密教独特の宇宙観と実践である。
 密教の最大の特徴を端的に言えば「こころの底から仏になり切ること」であり、「自分が宇宙であることを自覚し続けること」である。では、この「仏」とは何を指すのか?禅宗のように釈迦如来を直接的なモデルとするわけではない。釈迦如来のモデルは実在したガウタマ・シッダールタという人物であり、彼は悟りを開き、真理(ダルマ)を説いた存在にすぎない。そして、釈迦以前にも過去に同様の悟りを開いた人物がいたと考え、それらを「過去仏」と呼ぶ。一方で、未来には五十六億七千万年後に救世主弥勒菩薩が現れると信じられており、この発想は密教の時空を超えた宇宙観を象徴している。
 大乗仏教の世界では釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来等も横綱格だが、密教の世界では大日如来(≒毘盧遮那仏)のみが「横綱」とされることはさきにも述べた。太陽、すなわち宇宙そのものとして位置づけられる大日如来は、密教の核心に位置し、宇宙全体を象徴する存在とされているからだ。なお顕教(非密教)では大日如来を「毘盧遮那(びるしゃな)仏」と呼ぶ。東大寺大仏殿の大仏も、実はこの毘盧遮那仏だ。
 金剛峯寺にしてもそうだが、この大日如来を前にして実践する「入我我入」という瞑想がある。仏が自分の胸に入り、自分が仏の中に入るイメージを描くのだ。つまり深く息を吸うときには仏を体内に取り込み、吐くときには自分が仏の一部となって外界に溶け込むイメージである。このようなイメージトレーニングを通して私たちは仏になり切れる。そして仏は「仏像」ではなく、宇宙そのものであることを忘れてはならない。
  しかし「自分が宇宙となり、宇宙が自分である」というイメージをするのであれば、なにもお寺のの前で座らなくても、星空を仰ぎながら宇宙の一部であることを実感するだけでも密教的なのではなかろうか。密教のルーツ、バラモン教ではこれを「梵我一如(ぼんがいちにょ)」、つまり「梵」=宇宙のメカニズム「ブラフマン」と「我」=個人は表裏一体であることを表す。
 ただ、どうして我々が宇宙(仏)になるのか。それは全てのものは原子からできている。私たちの遺体や遺灰も原子として空気中や大地に還るように、全ての存在が宇宙の一部として繋がっている。この視点から見ると、密教の「自分が宇宙」という思想は科学的にも理解可能なではないだろうか。

両界曼荼羅
 高野山に限らず密教寺院になくてはならないものが曼荼羅である。これはただの仏教絵画ではなく、宇宙の本質そのものを表している。先ほど根本大塔は胎蔵界曼荼羅を表しているといったが、これと西側に1834年再建された西塔の「金剛界曼荼羅」がセットになって「両界曼荼羅」と呼ばれるが、いずれも宇宙の本質を円と方形で示したものだ。
 これらを見ることの意味は、中心の大日如来という太陽や、その周りの諸仏、今でいうと「水金地火木土天海」が、そしてそれらのさらに外野の山川草木が我々を見守っていることを意識することではないのか。いや、極論すれば曼荼羅は見て理解するものというより、それを心に描きながら宇宙のメカニズムをイメージするためのものだろう。そしてそれは理屈ではなく、山を歩きつつ自然循環の中に自分も「生かされている」ことに気づいたときに、自分も宇宙の一部であると実感できるに違いない。

奥之院
 金剛峯寺を離れて奥之院に向かった。ここは約2㎞にわたって実に20万基もの墓碑が並ぶ、まさに死者の世界だ。あちこちに五輪石塔が目立つ。これは外国にはない日本独自のものらしく、方形の最下段は大地を、その上の水滴のように丸みを帯びた白い部分は水を、その上の三角にとがった上層部の屋根は火を、その上の半月型は風を、そして最上段は空を、すなわち仏教でいう五つの要素を表しているという。そんな石塔が林立する雪の中、しずしずと杉木立の間の墓地を歩いていく。足元が冷たい。織田信長と明智光秀、武田信玄と上杉謙信、九州の島津氏が建立した文禄慶長の役の際の「高麗陣敵味方戦死者供養塔」など、ここでは敵も味方もみな同じ空間に葬られる。
 それどころか「しろあり 安らかに眠れ」という白アリ駆除会社による供養塔すらあるではないか。これぞ「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」、すなわち人間だけでなく花も木も山も川も、いや雑草やウジ虫やゴキブリ、白アリなどの虫けらですらそれなりの命を大切にして生きている尊い存在なのであり、春夏秋冬、朝昼晩とうつろい変わる自然の瞬間瞬間が、それはそれで真実であるという「諸法実相」なる概念を打ち立てた空海のライバル、最澄の教えを思い起こした。
 その後、弘法大師御廟についた。歴史の教科書的には空海は835年に没したが、空海自身は「吾れ永く山に帰らん。」と残して「山に帰った」とされる。そこでここでは毎日弘法大師空海に食事をささげるというが、帰る場所が山だったということは、おそらく曼荼羅というのは絵画だけに示されるのではなく、雨が降り、木が生え、木の葉も枝も幹も土にかえっていく宇宙の循環そのものを言ったのではなかろうか。彼も山川草木の循環をじっと見つめてきた人だったからだ
 般若心経を唱えて雪のしずくしたたる奥之院を、再び駐車場に戻っていった。

古神道に受け止められ、根を下ろした密教
 それにしても高野山の自然を歩くと、「山川草木悉有仏性」の意味が身に染みる。風にそよぎ枝から落ちる雪、静かに流れていたが凍ってしまった小川、そして全体を覆う真っ白な世界——これらすべてが曼荼羅の一部なのだ。遣唐使船の半分が沈没する時代、空海が唐から命がけで持ち帰ったものは、生と死、自然と人間、精神と物質のすべてが対立もせずに一つに溶け合う境地の存在だったのかもしれない。天竺より伝わった密教の奥義を、師の恵果和上はお迎えの来る直前のわずか半年という短期間で、海の向こうから来たこの若い知性に伝えきってから入滅した。しかし本質的な哲学よりも即物的にして現実的思考のほうが性分に合う漢民族は、急速に密教を失った。ちなみに密教がインドで起こったのは7世紀半ばのこと。そのわずか150年後には空海によって日本に伝えられた。このスピード感は当時としては異例であるが、それが形は変えても残っているのは日本だけであることに着目したい
 この思想は聖地高野山だけでなく日本のありとあらゆる山に根を下ろしたことは奇跡ではない。それはたまたま「性分に合う」からに他ならないからだ。天竺から唐に伝わったが、すでに廃れつつあった密教の火を絶やさず、日本という地で受け止めたのはなにか。それこそ生きとし生けるすべてのもの、白アリにさえもいのちの輝きを見出す古神道だったと私は考える。そしてそれらの融合を求めてこれから熊野に向かいたい。
 改めて雪道を恐る恐る下る。雪道は登りより下りのほうがはるかに難しい。それは密教の在り方にも似ている。例えば禅宗ならば山頂を目指して自力で努力する姿勢があるべき態度だろう。しかし密教では大日如来と一体になったことからスタートするので、いわばスタート地点は山頂であり、そこから再び俗世に戻ることが目的とされるからだ
 諸仏や神々に守られたおかげでようやく下山できたようだ。この「俗世」がこれからの自分の戦うフィールドである。

熊野へー出雲の気になる場所
 熊野は、陰国(こもりく)とも言われる。山陰生まれの私にとって「陰」国という響きは親近感を抱くと同時に、妙なライバル意識も芽生えさせる。その他「黄泉の国」等とも呼ばれるが、それこそ出雲の専売特許だと言いたくなる。そう、「出雲ナショナリスト」の私のような人間にとって、熊野という土地は気になってたまらない場所なのだ。
 そもそも出雲人にとって熊野大社といえば松江市にある出雲國一宮であり、出雲大社よりも高い社格をもっているのは常識である。「古事記」にあるとおり、黄泉の国の入り口は松江市東部の黄泉平坂(よもつひらさか)であり、イザナミが葬られたのは出雲の国ざかいにある広島県比婆山である。しかも弁慶といえば出雲市平田の鰐淵寺(がくえんじ)や安来市の清水寺などで活躍していたのではなかったのか?
 19歳のとき、2月に熊野を初めて訪れた。クラブの合宿である。当時住んでいた大阪と京都の中間に位置する枚方から、数時間かけて白浜にたどり着いたのだが、寒さが厳しく、吐く息も白い枚方に比べ、白浜の空気は驚くほど温かく、海沿いの千畳敷ではジャケットを脱ぎ、日向ぼっこを楽しむことができた。その穏やかな気候は、黒潮の恩恵にほかならない。その時の私には熊野=白浜だった。そのイメージは暖かく開放的なとこだった。

「合わせ鏡」
  その数か月後、今度は荷物を自転車に括り付けて紀伊半島を一周した。その時から今に至るまで、熊野を歩くたびに出雲の合わせ鏡を見させられているようでなんとも妙な気がしてくる。似たような地名があまりにも多いのだ。日ノ御碕(ひのみさき)灯台をみると島根半島西端の「日御碕灯台」のほうが立派だと思い、本州最南端の潮岬には出雲のスクナヒコナが常世へと旅立ったところに潮御崎神社があったり、ゴトビキ岩という磐座の立派さをみると飯南町の「琴引(ことびき)山」も真っ青だと驚き、なによりも潮岬の東に「出雲郵便局」を見かけたときには驚愕した。一体どこまで合わせ鏡なのだと。
 熊野について数冊本を読むにつれ、そこは常世の国がこの世と交差する神秘的な地であるということが分かってきた。紀伊半島を走る国道42号線は「死に」を連想させる番号を持つが、熊野のうっそうと生い茂る木々が倒れても再生するように、死は再生と共にあるという考えがここにはある。しかしそれもこれもみな「出雲的」に聞こえてならない。島根県民にとって最も気にライバル県は鳥取県だろう。しかし黒潮あらう年中暖かい土地でありながら熊野ほどそっくりな土地はない。とても他所とは思えないのだ。

もう一つの「裏日本」へ
 山陰人は日本海側を「裏日本」とし、山陽や太平洋側を「表日本」とみなしがちだ。しかし熊野は太平洋側でありながら「裏日本」ではなかろうか。その後も42号線を走るときにはいつもそんなことを考えている。ついでにこの縁起の悪そうな番号に対しても、「いや、弓ヶ浜半島の境線には水木しげる先生にちなんで『0(霊)番乗り場』があるぞ」としょうもないことで対抗したりする。そう、この対抗心はほぼ鳥取県民に対するものに等しい。
 それにしても熊野は遠い。高速道路を使っても名古屋からも大阪からも3時間は見ておかねばなるまい。この地を34回も訪れた後白河上皇がまとめた「今様(いまよう)」、つまり流行歌の歌集「梁塵秘抄」には熊野参詣の道が詠まれているが、その中に
「熊野へ参るには 紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し 広大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も遠からず 」
という今様が残されている。そんな陸の孤島でもある熊野を走りながら、この国の神々とほとけたちに触れたいと思う。


藤白王子ー熊野の入り口

 和歌山市方面から南下する場合、どこからが熊野なのか気になるところだ。一般的には田辺当たりからが「口熊野」、すなわち熊野の入口ということになるらしいが、それは「紀州人の見方」で、1,000年以上前からここを訪れてきた外部の人々から見ると、歌枕ともなっている和歌の浦をのぞむ藤白坂当たりではないかと思っている。その理由はまず、このあたりから「熊野古道らしい」薄暗い道が始まるからだ。しかもここには藤白王子があった。「王子」とは熊野詣における「一里塚」的役割を兼ねた札所のような聖地である。いわば神仏宿る聖地と「道の駅」がセットになったようなものといえようか。各王子では般若心経を読み、幣(ぬさ)を奉っていたが、中でも九十九王子のうち俗に「五体王子」とよばれる最重要拠点五か所のうち、もっとも京都に近いところも藤白王子だ。そこに藤白坂を熊野の入口と見たい理由がある。
 ここには特に素晴らしい建築があるわけでもないが、藤白神社境内の有間皇子神社という素朴なお社は「生と死」の境を象徴する場所として紹介しておきたい。有間皇子は孝徳天皇の皇子でありながら、蘇我赤兄の陰謀により斉明天皇・中大兄皇子への謀反の罪を着せられ、牟婁(むろ)温湯、すなわち白浜温泉で湯あみしていた斉明天皇・中大兄皇子のもとに送られ、この地で絞首刑とされた。藤白坂と白浜温泉には彼の絶唱の歌碑がある。
「家にあれば 笥(け)に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」
 私はこの「万葉集」に載っている歌を高校で学んだとき、ピクニックのように外で食べるのだから葉っぱに食べ物をもって風流なことだと思っていたのだが、草を枕にして野宿するような旅というのは、自ら望んでではなく捕らわれの身で粗末なものしか食べさせてもらえなかったのではと思うようになった。そこでおもむろにバッグにしのばせていたササの葉に包んだ「早ずし」というバッテラを出してほおばった。県都和歌山市で前日食した「中華そば(和歌山ラーメン)」の店においてあったものだ。なぜだか和歌山ではしめさばの「早ずし」がつきものである。それをこんな場所でかみしめると口の中に何とも言えぬ酸っぱさが広がった。
 この地をもって熊野の入口としたいのは、「陰国への草枕の旅」の入口として皇子が殺され、まつられたところでもあるからだ。そしてここだけではなく熊野詣の道中では、歴史的な事件や人物が数多く絡み合い、その一つ一つが訪れる者の心に刻み込まれる。それらは単なる通過点ではなく、「魂の旅路」を深める場でもあると思うのだ。


平清盛と熊野

 熊野各地には源平合戦にまつわる数々の逸話が息づいている。その中でも、印南(いなみ)町にある切目王子(神社)は特別な場所だ。1159年、平清盛が年末年始を過ごす「年籠り」の熊野詣でに訪れた際、平治の乱の勃発を知ったのがこの地だったからだ。この乱をさかのぼること3年の保元の乱の際には、後白河天皇のために清盛とともに戦った源義朝だったが、こんどはその後白河を内裏に幽閉されたというクーデター事件である。次は自分がやられると思った清盛が、わずかの手勢で京都に戻って源義朝らの軍勢と矛を交えても結果はわかっている。
 そんなときに丸腰の彼の背中を押したのは五十領の鎧兜に弓矢を隠し持っていた家臣と、神聖なる七領の鎧兜を差し出した熊野別当の湛快であった。「別当」とは熊野三山を統括する機関であり、役職である。清盛勢は左の袖に熊野大社のご神木である梛(なぎ)の葉をつけ、京都に舞い戻ると、意外にも義朝らはクーデター後の暫定政権樹立プランがしっかりしなかったため、「反乱軍」としてこれを鎮圧した。源義朝は首をはねられ、長男の頼朝は伊豆へ流され、義経は鞍馬寺などに預けられたのはこの後のことである。

那智大社の清盛と後白河上皇
 その後、後白河法皇にしたがって清盛が熊野御幸を果たした。ことに清盛は那智大社の如意輪観音を篤く信仰していた。とはいえ、それだけでなくどうやら清盛は後白河と熊野別当が結託するのを案じていたためそれを監視する目的もあり、またあわよくば熊野別当の娘を平家に嫁がせ、紀伊半島における平家の勢力をより強固なものにしようとしていたこともありえるだろう。なぜなら当時の紀伊国内においては朝廷に任命された紀ノ川流域の国司などよりも熊野別当のほうがはるかに勢力をもっていたからだ。結果、清盛の異母弟にして熊野育ちといわれる平薩摩守忠度(ただのり)は、湛快の娘をめとることとなった。ただ1181年に清盛が亡くなり、湛快の子、湛増が熊野別当を継ぐにあたるころ、熊野にもターニングポイントが訪れた。源平合戦の幕が切って落とされたのだ。
 1184年に源氏勢が大挙して京都を占領すると、多くの平家の公達(きんだち)らが都を離れた。歌人として名をはせていた薩摩守忠度も都落ちしたが、その前に師事していた歌人、藤原俊成のもとを訪れ、和歌を百首ほど師に託した。俊成は後に、その中にあった
「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」
という一句を後に「詠み人知らず」として「千載集」に選んだ。「朝敵」「逆賊」にされた平氏の名を勅撰和歌集に連ねるわけにもいかなかったからだ。ちなみに同時代の源氏にはこのような歌人はいなかった。京都と坂東ではそれだけ文化の厚みが違ったのだろう。しかし貴族文化が権力をも支配していた平安時代は武力が権力を支配する時代にとってかわられることとなった。貴族文化の時代の終焉を象徴するのが薩摩守忠度の都落ちの物語ではなかろうか。

武蔵坊弁慶と田辺 
 田辺は武蔵坊弁慶のふるさととされる。駅前には彼の銅像があり、弁慶が産湯をつかったという今熊野権現を祭る闘鶏神社境内にも、僧兵姿の彼と衣冠束帯の貴族然とした父親湛増の銅像が参拝客を迎えてくれる。父親が熊野別当湛増である弁慶は、事実上熊野のプリンスともいえる身分だったのだ。湛増の父、湛快の代は平家方だったっ熊野別当だが、都での平家の急速な崩壊を見るや、熊野を源平のどちらにつかせるかを闘鶏によって神意を問うことにした。  結果は源氏のシンボルカラーである白色の鶏が勝ったため、1185年に二百艘、二千人を率いて現田辺市役所前の扇が浜から出発した熊野水軍は、源氏の主力として屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで平家方を滅亡させた。複雑怪奇なリアス海岸を自由自在に行き来できるのは、子どものころから舟をこいできた熊野の民による熊野水軍に限る。それが源氏方につくことの意味は極めて大きい。ある意味平氏を滅ぼすファクターとなったのが熊野水軍だったといえよう。
 なお、熊野名物に「めはりずし」があり、道の駅などで購入してはほおばっていた。すしとは言っても大きなおにぎりを塩漬けした高菜でつつんだ携行食品だ。農作業のお百姓さんが作業の合間に目を見張るほど大きな口を開けて食べたともいわれるが、熊野水軍の「見張り」が勤務中に食したから「みはりずし」→「めはりずし」となったともいう。
 いずれにせよ、熊野別当の息子、武蔵坊弁慶が、源氏の御曹司義経の従者として生死を共にするのは、そのような背景があったからだ。とはいえ弁慶伝説は講談的なネタがちりばめられすぎており、史実かどうかはわからないことも付け加えておこう。なにせ山陰では出雲出身ということになっており関連する史跡も点在するくらいだから。

補陀洛山寺と平維盛
 ところで平氏と熊野ということでは、もう一人忘れられない人物がいる。平清盛の孫、維盛(これもり)は、1180年の富士川の合戦で水鳥の飛び立つ音におびえて京都に逃げ帰り、木曽義仲の軍勢にも無様な負け方をし、屋島の戦いでは妻子に会いたくて戦線離脱したといわれる軟弱ぶりである。その後、高野山に登って出家したが、出家すれば命が助かると見込んでなのかもしれない。
 そして出家後に目指したのが熊野である。熊野三山を巡礼してから南海に向かって舟をこぎだしつつ補陀洛渡海をしたのだ。では「補陀洛」とはなにか。それはサンスクリット語で「ポータラカ」と発音されるものの漢字表記で、南の海の向こうにあるとされる観音浄土である。補陀洛信仰は、仏教の「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」、つまり自らの命を惜しまず、より大きな目的のために身を捧げる行為と深く結びついた信仰で、特に熊野においては、観音浄土である補陀洛へ赴き、そこで自らの魂の救済を得ると同時に、この世の人々の救済にも貢献するという願いが込められている。
 私たちは勝浦の補陀洛寺を目指した。ここは補陀洛信仰の中心地として知られており、当時の渡海の舟を再現したレプリカがおかれているからだ。小舟の中心に大型の棺桶があり、その四方には朱塗りの方には朱塗りの小型鳥居がおかれている「神仏習合」スタイルだが、維盛を含む僧侶たちはこのようなものに乗って熊野灘の海原へと漕ぎ出し、浄土を目指したのだろう。そうした僧は約千年間に二十五名いたとされる。この行為には肉体の滅びを超えた魂の救済を信じる精神性も感じられるが、いずれにせよこの場も生と死の境界であることに気づく。
 この寺から北西5㎞ほどの山では那智の滝の水が崖を落ちる。そしてその水が熊野灘に流れる境界に補陀洛寺はあった。思うに滝の水というのは生物を包む羊水であり、熊野灘の潮は修行僧たちが流される先でもある。と思えば別の意味でここは生と死の境界ではないか。ここに源氏と平氏の根本的な死生観があるように思える。源氏はつらい現世をよりよく生きようという現世肯定主義で、死ぬにしても名を残すことで後世から評価されるのを誉とみるのに対し、平氏にはつらい現世を離れてあの世で浄土を求めるという厭世観も感じ、なによりも来世肯定主義なのだ。
 ちなみに維盛一行は紀伊半島逃避行中にしおさばの腹を割って塩を詰め、ササで巻いて携行していた。それをほどいて食べようとしたらちょうど発酵していてうまいしめさばになっていた。それが藤白王子で食した早ずし(なれずし)の起源という。
 なお補陀洛山寺の境内にはその時に「記紀」に出てくる神武天皇軍に立ち向かった女酋長、ニシキトベらを祭る熊野三所大神社もある。むかしはこの辺りまで「丹敷浦(にしきうら)」という砂浜だったと考えられているが、神代には激戦地だったことは想像に難くない。熊野の地を巡ると、こうした歴史の片鱗が至る所に見つかる。壮大な歴史ドラマの裏舞台となった紀伊半島。その複雑な地形や文化が、いかにして歴史を形作り、また人々の心を動かしたことを実感せずにはいられない。


熊野三山と神々

 さて、いよいよ世界遺産として知られとして「紀伊山地の霊場と参詣道」の中心である熊野三山、すなわち熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社を回っていこうと思う。各社の祭神は以下のとおりだ。

  • 本宮大社:A家津御子(けつみこの)大神(=Bスサノオ=C阿弥陀仏)

  • 速玉大社:A速玉大神(=Bイザナギ=C薬師如来)

  • 那智大社:A夫須美/牟須美(ふすみ/むすび)神(=Bイザナミ=C観世音菩薩)

 これらの神仏のうち、Aは土着の神としての呼称、Bは記紀に出てくる神としての呼称、Cは「本地垂迹説」による、来日以前の本来の仏としての存在である。つまり日本の神々はインドの仏教の神仏がこの国に降臨したのだが、いきなりインド風だといぶかしく思われるだろうから日本の神々の姿に「コスプレ」して現れたという仏教側による「説(?)」である。このように少なくとも熊野の神々はこれら三層になっており、どの呼び名が正しいというわけでもない。そもそも神の名前や属性がどうであれ、多くの日本人にとって重要なのは、思わず手を合わせねばならなくなるようなオーラやエネルギーそのものであろう。そのような「場のもつエネルギーや空気」に共鳴することで心が動かされるのだ。
 それにしても熊野は山また山である。そして平野面積は小さく、山の裾野はすぐに太平洋だ。「出雲國風土記」で出雲で植林をしたというイソタケルが「木」の種を撒いた土地なので「木の国」→「紀国」として知られるようになったという。紀伊半島の降水量の多さから豊かな森林に恵まれている。中でも大台ケ原に至っては年間降水量が約5000mm、東京の実に3倍以上だ。この自然の恵みこそが熊野を作り上げた。
 本来は本宮大社→速玉大社→那智大社の順に参ることになっているようだが、城郭マニアの私は「三の丸→二の丸→本丸」の順に行きたいので、それよりもなによりもルート上のことも考え、「三の丸」那智大社から参ることにしよう。

那智大滝と青岸渡寺
 おそらく縄文人も水神かなにかとして信仰していたはずの、落差133メートルの那智大滝。見あげる者を圧倒する存在感である。水しぶきが顔を濡らす。「古事記」によると、神武天皇が那智の海岸「丹敷浦(にしきうら)」に上陸する際に山に滝が落ちているのを発見したという。一方で実在したとしたら四世紀ごろ、仁徳天皇の時代に漂流してきた天竺僧、裸形上人が発見したともいわれる。前者には皇国史観的なナショナリズムを感じる一方、後者は「裸形」という名に興味惹かれる。「所有」という妄想を絶つためだろうか、なにも身に着けず裸でこの大滝にうたれていたに違いない。しかし百済から仏教が公式に伝えられるのが6世紀前半とすると、それよりさらに古い時代にここに仏教が伝わったのだろうか。
 滝から丘の上に登ると青岸渡寺本堂である。実は幕末までここは如意輪堂とよばれ、「青岸渡寺」と呼ばれるようになったのは明治からである。秀吉が再建したという本堂で役小角(えんのおづぬ)の像を拝した。大和葛城で生を受け、大峰、吉野、熊野の山々を歩きながら修行し、吉野は金峯山(きんぷせん)で蔵王権現が目の前に現れ、七世紀に修験道を開いたという話は先に記した。ただこれらをみな彼一人でやるにはあまりにも超人的なため、山を歩いて修行する多くの人々を総称して役小角のイメージを作り上げたのかもしれない。
 そして彼は僧侶や神官とは異なり、国家からは疎んじられた。その存在が胡散臭かったからかもしれない。現に彼の像を見ると、何者なのか分からぬ不気味さがある。「人を惑わす」アウトローとされたのもよくわかる。ちなみに実は父親は出雲族ということになっており、やはり「陰」をたたえた裏の存在と言えよう。

神仏分離令と神社合祀令
 この寺社も御多分に漏れず、近代にはいると政府の宗教政策で二転、三転されられた。明治初年の神仏分離令で寺院が廃止されただけでなく、「どっちつかず」の修験道も否定された。災難はそれだけでは終わらない。明治末期の1906年、西園寺公望内閣における内務大臣・原敬は神社合祀を指示した。これは無数にあった神社を一町村一か所程度にまとめ、それ以外の神社の境内は今でいう「地域振興目的」に利活用するというものだ。それを特に忠実に実行したのは、他でもない、熊野を含む和歌山県と三重県で、その結果和歌山と三重県に至っては実に神社の数が三分の一にまで激減した。
 大きな神社の本殿周囲に小さな祠を見たことがあるだろうが、それらの多くがその時に土地を奪われ、申し訳程度に「引っ越し」させられた名残かもしれない。ただ五千円を納めれば逃れることもできたのだが、当時の五千円は大金であり、払える神社はごく少数だった。その後は境内だった鎮守の森もご神木も切り倒すことで「利活用」された。明治初年の廃仏毀釈で寺院は壊滅的な被害を受けたが、明治末年の神社合祀令では神社までが同じ道をたどることとなったのだ。

「知の巨人」、鬼才南方熊楠
 これに猛然と反対したのは熊野の生んだ博物学者、南方熊楠だった。東大に進学せずに米英の大学を経由して大英博物館の研究員として十数か国語をマスターし、古今東西の書物を渉猟してはネイチャー誌に論文を何十本も掲載し続けた知の巨人である。その他奇人変人ぶりでも知られる彼だが、那智の森を歩いて粘菌を採集していたこの民間の天才学者は、生物でありながら細胞構造を持たず、動物でも植物でもなく、「活きていても活きていない状態」にある「粘菌」という存在の研究に没頭したのだ。空海が曼荼羅に宇宙を見たように、熊楠も粘菌に宇宙を見たに違いない。そして「死と生をあわせもつ」粘菌が空間になると、それがそのまま死者の世界であり、生まれ変わる場でもある熊野になるのではなかろうか。
 そのようなけた外れの視点を持つ彼には「森は生き物である」という生物学の常識を無視し、それを経済的、政治的利益のために伐採することの愚かしさに立ち向かわずにはいられなかったのだ。素人が無秩序に森林破壊を始めると生態系が破壊される。それだけではない。降水量が日本一多い熊野においては、それは土壌の流失を引き起こしたのだ。ただ当時はそのような因果関係に気づく大衆は少なく、地元紙で政策を批判する程度だった。

南方熊楠+柳田國男のタッグマッチ
 孤軍奮闘の中、1911年当時「遠野物語」の出版で世に知られていた柳田国男との文通を通してこの窮状を訴えた。それを受けて13年には柳田が田辺を訪問し、泥酔状態の熊楠と対面している。彼は大酒呑みで、豪傑のくせに学者肌の人物には緊張するからかもしれない。ただ後に昭和天皇がこの地を訪れたときには生物学の進講をしているので、必ずしもそうではないのかもしれない。さて、柳田は熊楠との文通の内容を「南方二書」と題して自費出版し、東大の学者をはじめ関係者に配布した。帝国議会でこれを取り扱わせ、森林保護に動かしたのだ。この神社の後背地だけでなく、熊野全体の大自然、特に田辺から本宮大社までの中辺路(なかへち)の自然もこうして守られた。この二人の巨人のタッグマッチのおかげで「紀伊半島の霊場と参詣道」として21世紀に世界遺産として登録されたことは言うまでもない。
 ところで青岸渡寺でもっとも写真映えする風景というと、三重塔越しの那智の大滝だろう。それは仏教と神道の融合などというレベル以上に、滝の水が太平洋に流れ、蒸発して熊野の植物を潤し、それを食べる昆虫や鳥獣だけでなく、人間をも育ててきたことが想像できる場だ。熊楠はこのあたりで年中裸になって生き物を追い求めていた。おそらく彼は単に面倒だから年中裸だったようだが、もしかしたら南方は天竺から流れ着いた裸形上人の生まれ変わりなのかもしれない。あるいはその豪傑ぶりから、武蔵坊弁慶があの世から蹴とばされてこの世に送りこまれたものなのかもしれない、などという妄想を楽しんでみる。
 彼の住んでいた旧居は田辺市に残り、記念館も白浜に建てられており、21世紀の我々の訪問を待っている。とはいえ本人はあの世でもシャイなはずだから一糸まとわぬ吞んだくれの霊体として、じっと我々を見つめているだけだろうが。


速玉大社ーナギとヤタガラス

 新宮は「奥熊野」最大の港湾都市である。江戸時代は城下町として、あるいは杉の集積地として栄えた。一方でここは熊野の「二の丸」速玉大社の門前町でもある。「熊野三山」のなかでは唯一市街地に位置するこの大社だが、これといった「熊野らしいアイコン」、例えば本宮大社の中州にそびえる大鳥居や那智大社の大滝に並ぶものはない。ただ、ご神木の樹齢千年といわれる梛(なぎ)の木にはオーラを感じる。平清盛が平治の乱の勃発を熊野の地で聞いたとき、梛の葉を鎧に着けて京都に向かい、神々の加護とともに源義朝の軍を破ったのは先ほど述べた。
 これに関して付け加えるとすれば、熊野でシンボル的存在の鳥というとヤタガラスである。そして速玉大社のシンボルマークは梛の葉を口にくわえた三本足のカラスである。私が熊野人だったら非常に複雑な気持ちだろう。なぜなら後の神武天皇の上空を飛んで紀伊山地を縦断させ、大和盆地の橿原まで導き、即位に貢献したという「ナビ」の役目をしたヤタガラスは、地元からすると「侵略者」の手引きをしたとはならないのかと気になるからだ。
 ちなみに熊野川をはさんだ対岸、熊野市の楯が崎という断崖絶壁には、神武天皇が上陸したという記念碑がある。「古事記」「日本書紀」によると、神武軍が熊野につくと、そこを治めていた女酋長ニシキトベ(丹敷戸畔)が毒気を使って天皇を失神させたが、目覚めた天皇は剣を与えられて彼女を八つ裂きにし、鎮圧した。彼女が祭られているところが補陀洛山寺の境内だということは先述した。
 それをさかのぼることはるか前に、出雲も高天原に「国譲り」という名で国権を失い、あるいはその後も皇子たるヤマトタケルノミコトによってイズモタケルノミコトはだまし討ちにあい、刺殺されている。そのようないきさつを知っているために、天皇軍のお先棒を担いだともとれるヤタガラスをシンボルとするのに引っかかるのだ。サッカー日本代表のシンボルマークとして無邪気に喜んでいる場合ではない。
 そしてなぜカラスなのか。カラスなどの鳥類に遺体をついばませ、死者の魂を天に帰らせるチベットのような「鳥葬」または風化させる「風葬」の習慣が熊野にあったのだろうか。あるいはカラスの知能が極めて高いことを、古代人、少なくともヤマト勢力の支配を受ける以前の熊野人たちも理解していたからか。疑問は尽きない。

黒潮を見渡すゴトビキ岩
 新宮市内においては速玉大社の社殿よりも土地で「ひきがえる」を意味するゴトビキ岩のほうがアイコンとなりうるかもしれない。新宮高校裏の石段をのぼる。不揃いで極めて危険な石段だ。自然石としか思えないような石すらある。ゆっくりと20分ほどかけて登ると、楕円形の巨石が虚空に突き出ているのが見えてきた。熊野は森と水とそして岩によって形成されるが、「岩の熊野」のシンボルはここだろう。
 海の向こうに黒潮をみた。「南紀」の熊野には「紀北」では感じられない解放感が感じられる。そしてこの海の右向こうに四国があり、その向こうには日向や薩摩が、さらには沖縄や台湾、フィリピンがあるのを感じた。さらに左向こうには志摩や東海、房総半島までつながっているのも感じられる。
 それは例えばこの海の向こうから流れ着いてきたのが秦の始皇帝の使いとして不老長寿の薬を求めてやってきた徐福ということになっていることからも感じられる。新宮駅近くには徐福公園という中華風の公園もあり、その地区は「蓬莱」、すなわち大陸から見た薬草あふれる不老長寿の島というユートピアの名前が付けられている。周囲には蓬莱公園、蓬莱保育所、蓬莱グラウンド、そして徐福寿司まである。さらに熊野市波田須(はだす)という地区には徐福の宮もある。「波田須」は「秦氏」、すなわち出身国を表すのだろう。
 さらに那智の滝で修行した天竺出身の裸形上人も、この黒潮に乗ってやってきたに違いない。ここは黒潮の通過点であると同時に、熊野以南、または以西の文化習慣がなお「澱(おり)」のように残る土地のようだ。それを古座川に唯一の別荘を持っていた司馬遼太郎は「得体の知れぬ一種の充実性」と呼んでいる。

伏拝(ふしおがみ)王子と和泉式部
 新宮市から県境の熊野川(新宮川)を北上した。途中、お目当ての「本丸」本宮大社の脇を通り過ぎるが、とりあえず車窓から手を合わせつつさらに北上し、伏拝(ふしおがみ)王子を目指した。ここは田辺から東に進む「中辺路」本宮を参拝する前の大切な王子である。その名の由来となった「伏して拝む」姿勢は、巡礼者が抱く深い畏敬の念を象徴していることをあらわしている。熊野詣の巡礼文化は、熊野比丘尼や「御師(おし)」と呼ばれる存在によって支えられてきた。彼らは全国を巡り、熊野の魅力を広め、参詣者を導く役割を担った。そして「蟻の熊野詣で」という言葉通り、彼女らに連れられてここを訪れた巡礼者でこの王子は込み合っていたことだろう。
 ここまで紀伊山地の森林を歩いてきた旅人は苦労の連続だったろう。特に王侯貴族のような「やんごとなき」ご身分の公卿にとり、例えば歌人藤原定家などは山中の虫に悩まされ、海側を歩いても精進料理ばかりなので魚は食せず、まさに「公卿」だけになお「苦行」だったという。ようやくここに来て大斎原(おおゆのはら)、すなわち深緑色をした熊野川の中州にあったかつての本宮大社が目に入った時の感動と言えば、想像に余りある。今はその跡地と、高さ34mをほこる日本一の大鳥居が見渡せる。
 ここに小さな五輪塔が建てられている。平安時代の歌人で
「あらざらむ この世の外の思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」
の百人一首の歌でも知られる和泉式部も熊野詣に訪れたが、ここにきて月のものが来た。それまでただでさえ女人禁制であった仏教界では特に「血の穢れ」を忌む傾向にあったため、それまでの苦労をおもうと神仏にまみえることができないという絶望感に襲われた。そこでその時の思いを
「晴れやらぬ 身のうき雲のたなびきて 月のさわりとなるぞかなしき」
という歌に託すと、熊野権現が枕元に立ち、
「もろともに 塵にまじはる神なれば 月のさわりもなにかくるしき」
と歌を返した。つまりこれが「浄不浄を嫌わず」という熊野信仰の精神を伝える逸話なのだ。そしてさきの五輪の塔は彼女の供養塔である。

湯の峰温泉つぼ湯へ
 道を引き返して湯の峰温泉に戻った。小川沿いのあちこちから湯けむりが上がっている。不思議なことに熊野にはここ以外にも白浜温泉、勝浦温泉など、名湯ぞろいだが、火山は見られない。実は現在ないだけで、1500万年前にはこの大地のずっと深いところに火山があったといい、そこから漏れ出た貴重な湯がここにも湧き上がっていると推定されている
 現在の温泉街は1903年の大火で町が焼失した後のものだが、今なお川床の岩盤からは92度のお湯がにじみ出る。「世界遺産の湯」という表記を見た。ここは温泉気分を味わうための場所ではなく、湯垢離(ゆごり)をして心身を清めてから熊野権現と結縁、すなわち御目見えするための湯であるため、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産となったのだ。とはいえ世界遺産の構成資産であることよりも、私はここが守ってきた「万人を平等にいやす」価値観と伝統に共鳴する。
 ちなみに「熊野」の音読みは「ゆうや」である。それは「湯屋」に通ずる。「温泉民族」日本人にとって、温泉とは清めの場であり、こもる場であり、再生の場である。そのようなお湯で斎戒沐浴することは、「生死一如」の熊野の本質的価値だろう。
 古い温泉に寺社はつきものだが、湯の峰にある薬王山東光寺の本尊は、湯の花が石化し、高さ2,6mほどになった「天然出現薬師如来」という。その胸からお湯が出たというので「湯胸薬師」と呼ばれ、それが「湯の峰」の語源という。

小栗判官伝説
 この温泉地のもつ本当の価値は、つぼ湯の建物の外壁にも書かれている通りの「小栗判官伝説」にある。都の貴族で七十二人の妻をめとった精力絶倫な小栗判官という男がいた。さらには大蛇の化身と契りを結んだところ、天変地異が起こり常陸へ流されることになった。そこで坂東の絶世の美女、照手姫と駆け落ちしようとしたが、逆に毒を盛られて死んだ。
 閻魔大王の計らいで生き返ったとはいえ、餓鬼の姿に変えられ、目も見えず歩くことすらできなかくなっていた。そこで時衆の僧侶が「一曳き曳けば千僧供養、二曳き曳けば万僧供養」といいながら車を道行く人々にひかせ、小栗判官をリレー形式でこの地に送った。熊野権現のおかげをこうむろうとする道行く人々の善意によって東海道から伊勢路をたどる途中、美濃あたりで遊女に身をやつした照手姫も、変わり果てた夫の姿に気づかぬまま車を引いた。こうして異形の熊野詣の旅人を支えることで功徳があると信じる周囲のおかげでこの地につき、四十九日間この湯につかると完治したという。
 現代的な解釈では彼は「穢れ」そのものとみなされたハンセン病患者と考えられている。そうした人物でも差別なく癒す。それが熊野権現の力であり、精神であった。ただハンセン病患者だと「風評被害」があることを危惧したためか、「小栗判官ハンセン病患者説」は地元ではタブー視されがちともいう。ちなみにハンセン病は飢餓状態で免疫が弱くならないかぎりはほぼ感染しない。貧困を脱した社会では完治しやすいものなのだ。それでありながらハンセン病患者の隔離は法律で1996年まで続いていた。
 また近くには「まかずの稲」なる小さな田んぼがある。これは小栗の髪から落ちた稲が実ったものと言われ、播かないでも稲が育ったからこう呼ばれる。ハンセン病患者という異形の小栗だったが、土地では幸をもたらす「マレビト」として扱われたのが興味深い。なお、南方熊楠はここのコメは婦人病に効くと記録している。どこまでも社会の底辺に置かれた人々に優しい土地なのだ。

本宮大社と上皇たち
 本宮大社はもともと熊野川の中州、大斎原(おおゆのはら)にあったが、建物のほとんどが1889年の熊野川の洪水で流され、今は残った建物を移築したりして西側の対岸に鎮座する。神社というものはしばしば移動するものと考えるのが妥当かもしれない。また、神が降り立った場所と、神を拝む場所の両方が神社となりえるが、前者が大斎原、後者は現在の社殿で、人々が熊野の神々と結縁を求めていくところなのだろう。私はというと、大鳥居の向こうの、全てが流された後に残る広々とした空間に何かの気配を感じた。それは沖縄のグスクの拝所(うがんじゅ)のように、何かが宿っているのを感じつつ、暮れの日の夕方にしばらくたたずんでいた。
 よく考えるとここが10世紀から13世紀まで合計九十八度催された歴代上皇・法皇らによる「熊野詣」の目的地であった。中でも後白河上皇は三十四度、後鳥羽上皇は二十八度も詣でている。往復一か月の道だ。今様を集めた「梁塵秘抄」には
「熊野へ参らむと思へども、徒歩より参れば道遠し、すぐれて山峻し、馬にて参れば苦行ならず、空より参らむ、羽賜(はねた)べ若王子」
 という今様が残されている。つまり苦労してこそ神仏の功徳が得られるというので、上皇すら徒歩で歩きとおすことが多かったのだ。それはわずか数メートルの富士塚を登って下りれば「富士登山」をしたと同じ功徳が得られる「コスパ」「タイパ」とは正反対の、あくまでも正統的な信仰の在り方だろう。

伊勢と熊野
 なお平安時代中期まで伊勢神宮と熊野大社は密接な関係があり、両社を詣でることも多かったが、熊野大社のトップに比叡山ふもとの園城寺の高僧が任命されると仏教色を帯びるようになり、伊勢は伊勢、熊野は熊野と独立性を持つようになったのだ。その結果伊勢路ルートではなく紀伊路が上皇の公式ルートとなっていった。一方、天皇は伊勢には詣でても熊野には詣でなくなった。ただし困難な熊野詣は戦国時代の16世紀から、上方よりアクセスしやすい伊勢参りにとってかわられる。天皇や一般大衆の崇拝を受けるの伊勢神宮が「オモテ」の神社ならば、「ウラ」の神社はやはり熊野になったのだろう。とはいえ伊勢や熊野、高野山、西国三十三所巡礼などをまとめて周遊する参拝者も少数派ながらいたため、熊野詣の火が途絶えることはなくほそぼそと存続した。
 このように平安末期に上皇や貴族、平氏の公達らを中心に栄えた熊野詣だが、鎌倉時代には一遍上人が一気に大衆化させた。続く室町時代、将軍は伊勢参宮に熱心だったが、将軍家の正室、側室たちは千人規模の熊野詣をするようになる。男は伊勢、女は熊野。やはり熊野はフェミニスティックな土地なのかもしれない。そして江戸時代には「裏街道」を任せられるようになったことから、あらゆる意味で「陰国(こもりく)」でありつづけたのがこの熊野だったのだろう。

「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」
 大鳥居から本宮大社本殿跡の背後に「一遍上人神勅号碑」がある。そういえばはっきりと確認はしづらかったとはいえ、つぼ湯の対岸には一遍上人自ら岩に「南無阿弥陀佛」の六文字を刻んだ「名号石」なるものもあった。伊予道後温泉出身で妻帯者でありながらも三人の女性とともに遊行し、当地に来た僧があった。それが時宗の開祖、一遍である。「時宗」とは正式には「臨命終時宗」、すなわち一瞬一瞬を最後の瞬間と思い、念仏することを広める集団で、彼の存命中はまだ一つの宗派とはなっておらず「時『衆』」とよばれたり、拠点を構えなかったノマド的集団だった。
 もともと熊野は那智大社や補陀洛渡海の影響もあってか、「観音浄土」とされてきた。しかしその後、いつのころからか阿弥陀如来のいる「極楽浄土」であるともみなされた。そこで本宮の本地仏は阿弥陀如来になったのだろう。だから「南無阿弥陀佛」を唱えることに生涯をかけた一遍もこの地に拠点を定めたに違いない。
 そんな彼が滞在中に「南無阿弥陀佛」と書いた札を道行く人に渡し続けていたある日のこと、「私はそんなの信じていないからいらない」と一人の僧侶に言われた。そのことを気に病み参篭していると、熊野権現のお告げがあった。「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配るべし」。つまり阿弥陀仏がすべての者を救うことは決定事項なのであるから、たとえ相手が信じていなくても、「穢れた」身のものであっても「南無阿弥陀佛」のお札を配り続けた。そして大切なのは、「一遍上人絵巻」を見ると、彼の仲間には女性はもちろん、「賤民」と呼ばれたり、ハンセン病患者だったりして、社会から疎外された人々も多くいたということだ。
 女人禁制だった高野山が運営的には男性原理の寺社だとすると、熊野は女性だけでなくあらゆる人々、信じない人々にすら極楽浄土への門戸を開く。そして時宗の遊行上人たちがこの話を全国に広め、小栗判官の話も浄瑠璃や歌舞伎で全国に知れ渡ったこともあってか、のちの世になってもハンセン病患者や被差別部落の人々もこの地を目指した。この世の生き地獄を温泉の湯で癒し、あの世の極楽浄土を祈るためであろう。
 万民を救うために修行する高野山も「聖地」だが、このほとんどの社殿が流されてしまいながらも目に見えぬ何かを宿す大斎原の中洲も、別の意味で万民を救おうとした人々、救われようとした人々が交差するもう一つの「聖地」だったのではないか。そういえば一遍は「捨聖(すてひじり)」すなわち寺も教団も家も持たず、人々とすべてを分かち合い、ただ死ぬ間際に残っていた価値ある仏教書籍も焼いてしまうほど徹底して「本来無一物」を貫いた僧侶だった。裸形上人にしてもそうだが、この地はそんな「無一物」を極める人を引き寄せやすいのか。この大鳥居以外は何もないが全てがあるような大斎原を眺めて、そんなことを思った。
 
熊野の「子宮」、瀞峡
 本宮から北山川を東側にうねうねと分け入りつつ上ると、吉野熊野国立公園随一の渓谷美を誇る瀞峡(どろきょう)の手前に湯ノ口温泉がある。後醍醐天皇の指示で金山開発をした際に湧き出たという温泉地である。江戸時代にはここの金銀が東照宮の金箔にもなったという。ここだけではなくあちこちに金山、銀山、銅山が点在したのが紀伊半島なのだ。神武天皇が瀬戸内海から畿内に上陸するにあたり、なぜ大阪湾ではなく熊野から上陸したことにしたのか。そのカギの一つが鉱山の支配ではなかったか。その証拠に神武天皇軍は女酋長ニシキトベらの「毒気」にあてられ気絶したことは前述したが、その「毒気」とは鉱毒ではなかったのか
 どうやら熊野を歩いているとジブリ映画「もののけ姫」を思い出してしまう。ことにニシキトベでイメージするのが女性やハンセン病患者とみられる人々を動かしてたたら場を運営し、敵が来たら火縄銃や大砲で立ち向かうエボシ御前である。さらに偶然なことかもしれないが、そのたたら場のモデルとなったところは私の生まれ育った奥出雲であり、私の先祖はむらげという、たたら場の長だったらしい。
 そんなことを考えながら翌日瀞峡をみた。日本一の雨量ともろい地質のため、台地が侵食され、屏風のような断崖絶壁がそびえ立つ。その間を広く流れる深緑色の水が瀞八丁である。冬でも青々した照葉樹林が目に染みる。はっとある「古語」が心に浮かんだ。「嬰児(みどりご)」である。赤ちゃんが緑色なわけはない。調べると701年に出された大宝律令で、年齢ごとに色彩で分類した際、三歳未満の赤ちゃんは緑と呼んだことからこう呼ばれていたらしい。
 それはともかく、ここにたまった森の水が熊野川に合流し、本宮大社のあった大斎原の脇を流れてゴトビキ岩の下や速玉大社、徐福公園などの脇を流れて熊野灘に至る。つまりいわば熊野文化の「みどりご」がこもる「子宮」のようなとこではないか。そんなことを考えながら蛇行する川沿いの道と山道を抜けながら、ようやく熊野灘に出た。

花の窟(いわや)
 熊野灘沿いの国道42号線のを伊勢志摩に向かって走り、311号線になるや「陰国(こもりく)」の熊野、「裏街道」の熊野、「女」の熊野、「死と生が交わる」熊野の象徴が目の前に現れた。海に面した高さ45mほどの断崖絶壁「花の窟」である。巨岩にしめ縄がぶら下がっているのは「日本書紀」に書かれている通りであり、この光景は千数百年間変わっていないことを意味する。ここがイザナミが葬られた地とされる。その下側には縦長の穴があり、「ほと穴」、すなわち「女陰」と呼ばれている。新宮の空に突き出たゴトビキ岩が男根ならば、ここはみどりごを宿し、生みだす女陰だ。まさにこの世とあの世が交差する場としかいうほかはない。
 ここまで見せられつづけると、「いや、イザナミが死んだのは出雲近くの比婆山では?」などという当初持っていた野暮な「出雲ナショナリズム」など意味がないことを悟った。私はここに至って裏街道を行き続ける熊野を受け入れたわけだ。

「アラカルトのフュージョン」が楽しめる熊野
 紀伊半島を何週か回って歩き回るうち、欧米系の訪日客に聞かれる「日本の宗教は仏教と神道か?」という質問への答えがようやくわかりかけてきた。人のこころは折れやすい。折れたままこころが死ぬこともありえる。しかしそんなとき、日本人の大多数は宗教そのものに頼るわけではない。仮に生きることの喜びを知り、傷ついた心を癒し、病気や老い、死に対する恐れをやわらげ、自分を超越した何かの存在を知るなどというのを宗教の「効能」とするならば、日本人は一つの「宗教」という枠内で解決するのではなく、山水の中に身をゆだね、温泉につかって心身の疲労を癒し、コメの飯をほおばってエネルギーを蓄え、新しい自分に生まれ変わるのではなかろうか。また、死んだら神の審判により天国か地獄に行くなどということを信じるよりも、魂が子孫を見守るという素朴な感覚はもっている。それには「〇〇教」という名称はつけられてはいない。すべてを「セット」にする意味が感じられないからだ。
 一神教型の宗教が「生も死も善も悪もオールインワン」のコース料理になっているのに対し、多神教型の日本人は「生と死と善と悪をアラカルト」で一品一品選び、さらにそれをフュージョンでいただくスタイルなのだ。そして密教も観音信仰も古神道も道教も先祖崇拝もみな「アラカルトのフュージョン」で味わえるのがこの紀伊半島である。いや、ここだけではない。霊山をかかえる国立公園区域はほぼみなそうなのではなかろうか。我々は「オールインワン宗教」よりも「アラカルトフュージョン宗教」がなぜだか性分に合う。そして無意識のうちに選んだものが融けあい、人々を新たな気付きへと導く。
 熊野、そして紀伊半島を歩きつつじわじわと分かってきたのがそのことだったようだ。ただそこに至るまでには日本中を歩いてきて感じたことがベースになった上での気づきであることは言うまでもない。


四国へ

 紀伊半島を回ったら、今度は四国が気になりだした。というのも、まずはかつて律令制度の地方区分では紀伊と同じ「南海道」に属していたこと。次に、讃岐国善通寺は高野山の開祖、弘法大師空海の出身地であり、伊予国道後温泉は熊野大社を大衆化させた遊行上人一遍のふるさとであること。さらに熊野詣と八十八か所霊場という、巡礼の歴史を持っているという点である。この旅では以上三点に絞って簡単に両地域を「歩き比べ」てみたいと思う。

御厨人窟 (みくろど)へ
 四国遍路は阿波鳴門の第一番札所霊山寺(りょうぜんじ)から時計回りに進む。この流れは金剛界曼荼羅の見方に似ていなくもない。金剛界曼荼羅はぜんたいをプッシュホンのように九分割し、「根本会(こんぽんえ)」という中心から「6時」の方向に進み、そこから時計回りに一周して仏の世界を体感するものというが、同じく1400㎞の道のりを時計回りに歩くお遍路さんたちも、それを実感しているのかもしれない。
 札所がほとんどないところが時々あるが、代表的なのが23番札所阿波無量寿院薬王寺から土佐の最御崎寺の約77㎞間である。この最御崎寺の近く、東側に突き出たところが室戸岬だ。「ムロ」トときいてすぐピンときた。この海の東、紀伊水道の向こうは熊野であり、またの名を「牟婁(むろ)」と呼ぶ。関係ないことはなかろう。そして室戸の東岸、国道55号線沿いに御厨人窟 (みくろど)という洞窟がある。ここで二十代の空海は修行していたはずだ。そこから外を見ると、道路の向こうに空と海しか見えない。そこで「空海」という名が生まれたという。
 今は洞窟前に道路がはしっていても、当時はそれすらなかったというが、あの海と空の向こうから明星が飛んできて空海の口に入った。妄想だろう。私はそう思っていた。しかしそれが空海を、この若き天才の宇宙認識を一変させた。「自分は宇宙、宇宙も自分」であることを強烈に悟ったのだ。密教の導入により仏教史を新たに塗り替えた空海は、これによって生まれなおしたのだ。それまで持っていた「常識」はこれで粉々に崩れていったに違いない。

ノマドたちによる宗派の創立
 彼はなぜそれなりの寺院で修行せず、四国の洞窟で修行していたのか。彼ほどの優秀な人材なら官僧になれば一生安泰で国に面倒を見てもらえた時代である。「親方日の丸」で地位も高く庶民からも慕われるであろうことは明らかだ。しかしそんな道を空海は選ばなかった。最澄は途中まで歩いて捨てた。「ノマドたちによる国家的宗派の創立」。これが日本の密教文化の面白いところだ。
 いずれ二人とも遣唐使として修学の機会を与えられた。入唐の目的は明確だ。国費留学僧の最澄は単なる「学説」である奈良仏教を塗り替える天台宗の導入である。一方私費留学僧の空海は仏教全体を覆う密教のいろはは分かったつもりだったが、不明な箇所を極めることだった。しかしそれには軍資金がいる。そこで空海は地元四国の有力者たちから寄進を受けたと思われる。帰国後各所に霊場を建立したのも、雨が少ないふるさとのため、先進国唐の技術を利用してため池を作ったのも、そんな地元に報いるためだろう。ちなみに唐の都長安の降水量は讃岐の半分ほどで、貴重な水をふんだんに使ってものを洗うことはない。大陸帰りの彼にとってはため池だらけの故郷でも、その水の清らかさや青々とした緑に心動かされたに違いない。
 と、ここまで書いて気づいた。紀伊半島も付け根の和歌山市周辺は瀬戸内海側の気候で少雨だが、熊野に行けば日本一の多雨気候である同じように四国でも讃岐は極めて少雨だが、土佐は多雨である。紀伊水道をはさんで近いだけに気候はそっくりである。

岩屋寺へ
 伊予の山中に第45番札所岩屋寺という名刹がある。815年、空海が霊場を求めて歩いていると「法華仙人」なる土佐の女性に出会った。彼女は空海の教えに深く感じ入り、ある山をすべて空海に捧げた。空海は岩山に不動明王を彫りつけたのが岩屋寺のはじまりである。そしてここで
「山高き 谷の朝霧海に似て 松ふく風を波にたとえむ」
と詠み、「海岸山岩屋寺」と命名した。しかし不思議ではないか。現場は標高700mほどの高野山なみの山地であり、最寄りの海岸(瀬戸内海)まで50㎞近くある。潮風も潮騒も感じられない。ちなみに高野山も最寄りの海、紀淡海峡までほぼ同じ距離だ。それなのに「海岸山」とはどうしたことか。また「仙人」なのに女性である点も妙だ。それなら「仙女」ではないのか。しかもなぜ彼女は地元ではなく、山を越えた土佐の出身なのか。
 おそらくこのようなごつごつした男性的な岩だらけの場所だからこそ、正反対の「海」を、「水」を、そして女性的な柔らかさを感じたかったのではなかろうか。これも私はここに「熊野的要素」の強さを感じないわけにはいかない。それは「南国の開放性」「水のように受容的な女性性」そして「奇岩怪石の冷たさ」の融合である。

ノマド一遍
 そんな岩屋寺に1273年ごろ参篭していたのが35歳の一遍である。師走も暮れのころ、駐車場から杉木立の森を歩き、背中に「南無大師遍照金剛」の白衣、「同行二人」の菅笠、金剛杖といういでたちのお遍路さんに合掌しながら、深山幽谷をに二十分ほど歩いていった。直立する岩壁にかかる長い長いはしごを上って、かつて一遍が修行していたであろう岩窟に座ってみた。岩は冷たかった。四国八十八か所霊場では定番の「般若心経」を岩屋で唱えたが、私はこのときは「南無大師遍照金剛」というお遍路さんの唱え方ではなく「南無阿弥陀佛」が口から出てきた。これでいいのかなと思いつつ。一切所有せず、寺さえ持たない「捨聖(すてひじり)」と呼ばれた一遍が唱えたのは「南無阿弥陀佛」だったからだ。
 彼の「一遍」という名は、たとえいっぺん念じるだけでも極楽往生できるという思想に基づく。そして一生を通し「遊行」というノマドライフを貫き、一か所にとどまらず諸国を「遊行」しながら伝えつづけた。その際は三名の女人を従えていただけでなく、入滅前に六十万人分の念仏のお札を託したのも、厳島神社の舞姫だった。熊野でもそうだが、ここにも「女性に優しい」一遍らしさが現れている。
 なお、彼はここで観音菩薩の姿を見たという。それなら「南無観世音菩薩」と唱えるべきだったのか。しかし、さらにフレキシブルなことに、彼は「南無阿弥陀佛」の代わりに「南無妙法蓮華経」でもよいとさえ言っている。一般的に浄土真宗と法華宗は決して交わらないが、彼は浄土教の称名「南無阿弥陀佛」でも法華宗の題目「南無妙法蓮華経」でもよいという。そのような受容性には南方的な開放性を感じる。ちなみにここの本尊は仏像ではなく、人々を圧倒する巨大な岩山そのものという。神仏習合そのものだ。
 しかもこの岩山を空海に捧げた人の名は「法華仙人」すなわち法華経を身につけて空中飛行ができるようになったという人物だったことは先に述べた。そもそも法華経と仙人、すなわち民間道教は関係はない。ただたとえ伝説にせよ、このようなあらゆる要素を排除しないあり方が、この岩屋に、そして四国八十八か所巡りに満ち満ちている。そしてそれは紀伊水道をの向こうの熊野でも続いているのだ。

四国と熊野をつなぐもの
 八十八か所霊場の歴史を紐解くと、僧侶や仙人など、スピリチュアルな人物だけではなく、社会的な差別や偏見が深く絡み合っていたことが見えてくる。例えば四国の一部地域では遍路を「へんど(辺土)」と呼び、この言葉は「乞食」を指す侮蔑的な意味としても広く一般化していた。この背景には、遍路の中に貧困層や病者が多く含まれていたことがある。そこで親が子どもを「言うことを聞かんとへんどに連れて行く」と脅すこともあったという。
 その中にはハンセン病者も多く含まれており、1929年に療養所への強制収容が始まるまでは患者が願をかけながら歩くというのもよく見られた光景だったという。誤解や恐怖心から患者への差別が蔓延していた時代に、一部の「路地」には彼らに無料または実費のみで門戸を開く「善根宿(ぜんこんやど)」というセーフティネットもあった。それはわずかながらとはいえ今も存在する。
 四国南東の御厨人窟と北西の岩屋寺。岩窟、海、女性など疎外された人々とくれば、やはり熊野のエッセンスではないか。ある意味、今の熊野の熊野らしさを作り上げたのは「捨聖(すてひじり)」一遍だったと思っている。

「遊びをせんとや生まれけむ」
 岩屋寺を後にしてから松山に向かった。松山城で合流した旅友とその子どもたちに会った。すると小学生の倅がその子らを連れてなぜか「兵隊ごっこ」をして遊びだした。「俺は上等兵、トヤ君は一等兵、ちいちゃんは二等兵」などといって行軍(?)しては、ほうぼうで敬礼をしている。そのうち二等兵にされていた保育園児の女の子は自分の低い階級が嫌になり、やめるという。そこで倅は「じゃあ、ちいちゃんはこれから一等兵、あ、上等兵でもいい」などと言ってなだめる。全く統制の取れていない下剋上の軍隊だ、と親同士失笑する。親の世代の私ですら「兵隊ごっこ」などしなかったものだが、令和の子どもたちの兵隊ごっこもなかなかに可笑しい。熊野の旅で何度か引用した「梁塵秘抄」で最も有名な今様を思い出した。
「遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」
 人間には「あそび」が必要である。「たはむれ」も必要である。それをしなくても生きてはいけるのだが、それがなくては人生行き詰まりそうだ。そんなことは百も承知だが、今様は謡う。「自分は遊ぶため、戯れるために生まれてきたのだろうか。ただ子どもたちのキャッキャッという遊び声を聞いていると自分まで遊びたくなってきてしまう。」と。

旅が人生、人生があそび
 一遍が一生をかけた「遊行」の「遊」は現代中国語では「游」、つまり「さんずい」で表記する。だから旅行は「旅游」、旅行者は「游客」である。いずれの漢字であろうが、これには「一か所にとどまらない」という意味がこめられている。一方で日本語の「遊び」には仕事もしないで面白おかしく、あるいはだらだらしているような意味もある。
 確かに多くの人にとって旅は仕事ではない。熊野詣をした人たちや四国のお遍路さんたちにとっても旅は仕事ではない。我々通訳案内士にとって旅は仕事だが、遊行上人一遍にとっては仕事、いや人生そのものが一所不在の旅だった。南方熊楠にしても、三十代以降は熊野を離れなかったとはいえ、経済的利益には全くつながらない学問という「たはむれ」に一生をかけた。「導游」という中国語がある。これはガイドを意味する。「あそびを導く」とはなんともおもしろく、それでいて深みのある表現だと、兵隊あそびをする子どもらに今更ながら気づかされた。 


紀伊半島の本質

 山と海が織りなす紀伊半島。ここの「本質」とは何だろうか。その問いを胸に、私は紀伊半島の延長線上にある四国の地を巡った。いや、遊びに游んだ。そこで見えてきたことをランダムに列挙してみよう。
紀伊半島とは山や木や水や岩など、森羅万象に神仏を感じる空気である。
紀伊半島とは人々が母の胎内に帰り、新しい自分になって生まれなおす場である。
紀伊半島とは上皇から被差別民やハンセン病患者まで自分の足で歩き、救いを求める旅を重ねてきた自由と平等を求める意志である。
紀伊半島とは外来のものと本来あった自然が共存し、訪れる者を静かに包み込む力である。 
紀伊半島とは日常生活を離れて「あそび」を求める人々と、人生そのものを「あそび」と覚悟する人々の交差点である。
 紀伊半島を何度か歩いたことで、私は比叡山や高野山のもつ崇高さと哲学性に惹かれ、熊野のもつおおらかな居心地の良さを楽しんだ。そのうちどんなことでも受け止め、受け流せるようになってきたと思う。密教や修験道、山岳信仰、古神道などの懐の広さを実感しつつ、改めて紀伊半島を遊びに游ぼうと思う。(了)

 


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