見出し画像

天守を知らない二千年

「日本百名城」最古の城郭とは?
 日本人にとって「お城」とは「天守」であるということは言うまでもない。しかし16世紀後半に突如として「天守」が誕生する前に、この国には二千年近い「天守を知らない城郭」が存在し続けていた。今回はその「天守を知らない二千年」の城郭を歩いてみたい。
 日本城郭協会という公益財団法人がある。早熟(?)だった私は中学生にしてこの協会の会員だった。その後、ここが世の中に知られるようになったのはおそらく2007年に「日本百名城」のスタンプラリーを始めてからではなかろうか。権威嫌いの私は「百名城」等といわれてもそれを素直に信じて城郭巡りをする気にはならない。しかしやはり彼らも専門家集団である。この百か所をめぐるうちに、天守だけではない日本の様々な城郭の姿が浮き彫りにされてくることは確かである。私は偶然百名城と、それに続いて2017年に定められた「続百名城」の八割近く、そしてそれ以外の「無名」な城を歩いてきたが、それを通して「日本人にとって城郭とは何か」を数十年考えてきたような気がする。
 百名城リストが発表されたときはどの城郭が選ばれているか隅々チェックしたのは言うまでもないが、山陰の田舎の城が好きだった「坊主頭」は、そのとき三十代半ば。すでに百以上の城郭を巡っていたと思うが、その時気になっていたのは、百名城のうち最も古い「城郭」がどこかということだった。そしてそれは佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」だった。思わず膝を打った。
 弥生時代の遺跡が城郭?そう、その通りなのだ。それを百名城最古の城郭として認定している城郭協会はホンモノであると、傲慢にも心の中で太鼓判を押した。

吉野ヶ里と「城郭の本質」
 吉野ヶ里遺跡の発見という世紀の大ニュースを聞いたのは1989年、高校生の時だったが、そのころは特に関心を持たなかった。「城郭」には興味はあったが、弥生時代の遺跡は城郭とはみなせず、さほどの興味を抱かなかったからだ。結局初めてここを訪れたのは、2001年にここが吉野ヶ里歴史公園としてオープンしてから何年もたってからだった。
  ここは地図を見ると「筑紫二郎」筑後川から十キロもない。もしかしたら筑後川を外濠がわりにしていたのかもしれない。あるいは弥生時代ならばすぐ近くまで泥沼のような有明海が押し寄せていたかもしれない。筑後平野名物のクリークをいくつも越えながら駐車場についた。受付で入場券を買い求め、中に入ったが、瞬間にここを「城郭」と認識していなかった自分自身の無知を恥じた。城郭マニア失格である。ここは城郭だ。いや、ここが城郭の原点だ。そう確信した。そもそも日本の城郭の本質は天守ではない。それは地形を利用し、防御を強化しつつ権力を誇示することであると考える。だとするならば、それらはすべて紀元前五世紀、すなわち信長が安土城天守を築く二千年前に築かれ始めたこの「城郭」に合致するではないか。

「来る者拒む」吉野ヶ里
 この城郭は丘陵の南北二つの郭に分かれるが、おそらく紀元前三世紀にこの南側に環濠集落が形成され、紀元前一世紀にそれをさらに囲む外環濠が完成したようだ。ここを城郭として見る理由は多々あるが、まずはこの環濠である。平底の壕もあれば、後に「薬研堀(やげんぼり)」と呼ばれるV字型の壕もある。さらには壕の各所に「逆茂木(さかもぎ)」という、先をとがらせた杭のようなものを壕にたくさん埋め込んでいる。確か松本城の水掘りの底には似たようなものがあったはずだ。古代の息吹を感じさせるとばかり思っていたこの弥生の遺跡が、実は「攻めてみるなら攻めてみろ」と言わんばかりの「ファイティングポーズをとっているではないか。
 歩きながら完全に戦国の城郭としてここを見ている自分に気づいた。私はこのバリケードに「拒まれている」。ただ、それは悪いことではない。そうでないと城郭ではないからだ。来たかいがあった。拒まれて喜ぶのは城郭マニアにありがちなマゾヒズム的リアクションかもしれない。ただ、「いやよいやよも好きのうち」とばかりに、わざわざそのようなところに喜んでいくのは見方を変えればサディズムかもしれない。しかしここも最盛期には千人以上もの住民が住んでいた城郭だ。それを最初に守るのはこの壕であり、杭である。「来る者は拒まず」では七百年ももたないだろう。
 壕を越えて門を越えようとする。その門の上には鳥の彫刻がついている。「あ、솟대(ソッテ)!」という朝鮮語が口をついてでてきた。朝鮮半島では村の入口に鳥の木彫りを飾り魔除けにするが、それとそっくりだ。よく考えると佐賀県から玄界灘を越えればすぐに朝鮮半島である。影響を受けていないはずはない。ちなみに鳥は天と地の間のメッセンジャーであるとされるが、同時に東アジアの稲作民族の間では鳥を神の使者とみなすといわれる。そういえば奈良の唐子・鍵遺跡では鳥の羽を思わせる衣装を身に着け、くちばし、爪などを着ける「鳥人」のマネキンを見たことがある。さらに、「古事記」によれば神武天皇を熊野から大和盆地に案内したのも八咫烏(やたがらす)という三本脚のカラスだった。鳥を守護神と思う考えはむしろ自然なのだろう。
 そこから城内に入ろうとして、思わず苦笑した。これは門を越えた敵を十字砲火でハチの巣にする「桝形虎口(ますがたこぐち)」の原型に他ならない。あまりにも「そのまま」なので、後世の城郭の影響を受けすぎているのではないかと思えてきた。熊本城、大坂城、江戸城等、名だたる城郭のどこにでもある形だ。しかし考古学的な発掘をもとに再現しているはずなので、後の人々がこの遺跡の在り方をさらにパワーアップさせたのだろう。

吉野ヶ里の「永田町」?
 いよいよ南内郭に入っていく。そこは高さ12mほどの物見櫓のほかに、王の住まい、さらに集会の館がある。いわば首相官邸と国会議事堂のある永田町ではないかと思いながら歩くと、さらに兵士の詰所まである。思わず永田町でいつも私を不審者扱いしてチェックする警官を思い出し、にやにやしてしまう。古代の吉野ヶ里と現代の東京が意識の上でシンクロしつつ交差するのがおかしい。
 ちなみにここはBC五世紀からAD三世紀まで七百年以上続いたという。平安末期から幕末まで七百年以上続いていた城郭がどれだけあるだろうか。東北の南部氏や九州の島津氏はそれぐらい一族が続いたかもしれないが、同じ城を拠点としているわけでもない。単純比較はできないが、単一の場所で城郭としての機能を果たし続けた最長記録はここなのかもしれない
 そして何より気になるのが物見櫓である。私はこれを「天守」として見ているのに気付いている。たが「天守」は南内郭だけで四棟もある。近世の「常識」では櫓は複数がるが、その中で最も構想で、かつ本丸にあるものを「天守」と呼ぶのだとするならば、この四棟のうちどれが「本命」なのかがわからなくなる。もしかしたらすべてが「櫓」なのかもしれない。にしても立派である。12mというのは建築基準法で12m以上の木造建築を作るのが難しいからこの高さになったのだろうが、それでも現存天守のうち最も低い備中松山城の11mより高く、丸岡城の12.5mより若干低い。近世においてもこの高さがあれば「天守」の仲間入りといえよう。
 そして出雲人の私がこれらの「天守」をみて連想していたのは、かつて48mあったという幻の出雲大社本殿である。折れそうなほど細長い脚の上に鎮座する出雲大社本殿の復元模型を何度も見たが、ここでは目算7mほどの長足の上に5mほどの建物を載せたこれらの建物にそっくりだからだ。
 
「権力なき女」の下にいる男
 次に北内郭に進む。ここは「まつりごとの場」として、最も大きな主祭殿がある。おそらくここが本当の「天守」なのだろうと確信した。ここの二階では「王」や「閣僚(?)」らしき人々がまつりごと、すなわち議会を開いているが、三階に上がるとシャーマンらしき女性が祖霊の神託を受けている。卑弥呼をイメージしたものに違いない。そういえば外には彼女らが身を清めるための「斎堂」もあった。心身を清めたシャーマンが神託を受け、それを階下の男たちに伝え、それがこの「クニ」の政策となる。
 私は江戸城本丸を思い出していた。本丸に入ると「表」とよばれる官僚の区域、「中奥」とよばれる将軍の執務室の奥に、将軍や医師以外は原則男子禁制の「大奥」が横に広がるこの構図を縦にすれば、三階に女、二階、一階に男というこの主祭殿にならないだろうか。権力を持たされない女に権威を与え、神と通じさせる。これが昔からこの国でやってきたまつりごとなのかもしれない。
 ちなみにここの高床住居は最高司祭者のためのものというが、二階以上の階層に常時居住したのは信長が最初だときいたことがある。もしそうならば、信長も二千年前のシャーマンに「先祖返り」したかったのかもしれない。

「分りやすさ」というサービスのし過ぎ?
 このように、ここでは想像以上に「城郭散歩」が楽しめた。しかしいくつか問題も感じる。まずは私が戦国から近世の城郭を基準にここを歩いているだろうことだ。そしてもっと大きな問題がある。七百年の間「城郭」であったこの吉野ヶ里だが、平成に復元されたのは弥生時代後期をモデルにしているという。おそらく二世紀から三世紀あたりだろうか。それはそれでいいのだが、約三十センチほど盛り土をした上に推定復元の建造物を並べたこの城郭に、どのような価値があるのかはっきりわからないのだ
 これまで歩いてきた城郭の中で、私が食指を動かす気にならなかったのが、「模擬天守」と呼ばれる、写真もオリジナルの設計図もないまま「なんとなく乗りで」築いた、時には天守があったという証拠すらない「天守風建造物」である。例えば岐阜城天守や大坂城天守などがそれに当たるだろう。それらと吉野ヶ里は五十歩百歩ではないだろうか。むしろここは「弥生城郭テーマパーク」として、これまでの学術の成果を楽しむ場として見るべきなのだろうか
 同じ県内に佐賀城がある。ここは明治初期に佐賀の乱で江藤新平らがたてこもったところでもあるが、平成期に本丸御殿が復元された。しかしそこは例えば障壁画などはなく殺風景である。内部の写真がないからそうしたという。「分らんことは分からん!」とでもぶっきらぼうに言われているような、爽快さを私はこの城に、そして復元した佐賀の人々に感じる。人を楽しませようとかいうサービス精神ではなく、愚直なまでに信念に忠実なのが佐賀県、特に佐賀市あたりの「県民性」なのだとしたら、果たして吉野ヶ里は「分りやすさ」という」サービスのし過ぎではないかとすら思えてくるのだ。とはいえここまでやらないと「弥生時代がどんな時代だったのか」という具体的なイメージは一般人には伝わるまい。どちらに転んでも痛しかゆしである。そしてそれはこれから始まる天守を知らない二千年の旅にずっとついて回る。
 弥生時代の城郭を興奮したり頭を抱えたりしながら歩いた後、駐車場を出てしばらく行くと再び筑後川に出た。なるほど、ここは外濠だったのだろう。それにしても一般的には日本の城郭はその内側に民を入れず、外に置くとするが、この日本列島初の城郭は中国や欧州のように内に民をいれる城郭都市だったことに改めて気づいた。
 続いて、ここに村がなくなったとされるころから四百年ほどして、ここから至近の「半城郭都市」ができた。この興味深い町、太宰府市と大野城市を訪れてみたい。

「半城郭都市」大宰府
 吉野ヶ里から筑紫平野を北上して四十キロほどで大宰府の政庁跡である。古代、ここは「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれ、現在でいえば外務省と防衛省、経産省に相当する官庁がおかれただけでなく、九州全体を統括する「九州庁?」までおかれた。663年に白村江の戦で百済とともに「負け組」となった倭国が恐れたのが、唐・新羅連合軍による九州侵攻である。そこで「第二の首都」を守るため急遽造営されたのが水城(みずき)であり、実際に侵攻が行われたときの籠城先として、大宰府を見守る山の上に大野城だった。
 大宰府は城郭か。一般的にはそうは思われていないが、水城と大野城をまわるとここは「半城郭都市」であることを実感した。もちろんこのような言葉は一般的ではないのだが、水城跡の北東にある水城館という資料館の上にある「水城跡展望台」から眺めると、真っすぐな堤防が横切っているのが確認できる。高速道路によって分断されているが、かつては高さ9m、幅80mの土塁が1,2㎞続いて大宰府を博多湾から侵入してくるはずの外敵から守るという点では、明らかに城郭都市である。この土塁の北側には幅約60m、深さ4mもの外濠を掘り、南の内壕からここに向かって「木樋(もくひ)」なるパイプで水を通していた。こうした築城技術は主に亡命百済人によるものという。
 近くによって歩くと、残念ながら城郭というより土手にしか見えないのだが、吉野ヶ里が城郭としての機能を失って数百年後に、ここまで「大陸的」な、言い換えるなら「グローバルな」城郭ができたことを歩きながら確認できるのはやはり心動かされる。

 水城ー長城という巨龍のしっぽの先?
  水城から大宰府背後、「四王子山」をとぐろのようにめぐる大野城に向かう。途中見た駅の名が「都府楼駅」だった。「都府楼」とは実に大陸的な響きだ。そういえばかつて政庁があったあたりには「都督府古址」という石碑が建てられていた。「都督府」とはかつて唐では辺境の駐屯地に置かれた行政機関である。全体的にこの町が大陸風を帯びているのは、やはりこのような地名をさらっと残しているからかもしれない。そしてその大陸風を感じさせる街づくりはやはり町全体を城壁で覆うことである。
 案内の方の車で大宰府全体が見渡せる岩屋城跡に着いた。ここは戦国時代に薩摩の島津が豊後の大友方の部将、高橋氏との戦闘があった場所だが、ここから見ると大陸渡来の四角い大宰府都府楼の跡地や、先ほどの水城跡が真っすぐに平野部を走っているのが見える。ここから見た水城は大陸をのたうち回る龍のようにイメージされる万里長城が、朝鮮半島を突き抜け、玄界灘をくぐって現れたかのようにも見えてきて面白い。数千キロとも一万キロともいわれる長城という巨龍のしっぽの先のように思えてきたのだ。ちなみに万里長城というとレンガ造りのイメージだが、そうなったのは明の時代からであり、水城の築かれた七世紀当時は土塁か石塁だった。
 大宰府と水城を眺めてからさらに山道を進む。案内の方が車を寄せたところには立派な土塁があった。場所によっては鎌倉外郭線の切通しのようなところもあるが、鎌倉のまちを囲むのが自然の山なのに対し、ここは土を突き固める「版築」という技法を用いた人工の土塁である。なお私が中国で見てきた万里長城は八達嶺(Badaling)や慕田峪(Mutianyu)といったレンガ造りの「写真写りの良い」観光地のものだけだが、実はこうした土塁のほうが圧倒的に多いという。実際、Youtubeで水城のドローン映像を見たが、やはり長城を思わせる。

1300年前の崩れない石垣
 その先しばらく車を走らせると、標高約210mに位置する山中に平均の高さ4m、最高9mの石垣が180mも続く大野城最大の見どころ「百間(ひゃっけん)石垣」が現れた。初めて見たときのそれは正に衝撃だった。この地震大国日本列島で、七世紀の石垣が崩れることなくたち続けているではないか。ここも百済の技術者が設計したものというので ここの南、佐賀県との県境に建てられた基肄(きい)城跡や熊本の鞠智(きくち)城跡などとともに、唐や新羅の攻撃からの防御を目的とした「古代朝鮮式山城」と言われているが、ここまでの規模の石塁が、しかも平地ではなく崖のような高低差のあるところに累々とつながっているのは正に驚愕というほかはない。
 しかも車でざっと回るだけでも増長天礎石群や大石垣など、数多くの建造物のあった跡地が健在である。その総延長は約8,4㎞というが、石垣の様子は、中世の自然石を重ねた野面積みや近世の表面を削った打込ハギなどとは異なり、何とも言えぬ「異国情緒」を漂わせる。逆に言えば当時最先端の技法を使って大宰府の裏山を要塞化し、万一の際には籠城することを考えていたに違いない。
 四角四面の大宰府都府楼にせよ、真っすぐに伸びる水城にせよ、さらにその裏山を巡る大野城の土塁や石塁にせよ、共通して言えるのはこの「大陸風異国情緒」である。ここでもシルクロードから朝鮮半島、玄界灘経由でつながって大野城の山頂でくるりとその尾を巻く巨龍のイメージが強烈に感じる。九州は畿内から見れば西の果てだが、大陸から見れば東の海に浮かぶ小島でもあるのだ。

この国の最大の「長城」は東シナ海と日本海
 帰りにもう一度、車を道路沿いに寄せてもらい、四角い都府楼と細長く進む水城の姿をこの目に焼き付けた。ここは完全な城郭都市ではない。博多湾から来る敵には堅固な要塞かもしれないが、仮に敵が有明海を通って筑紫平野に上陸した際には、極めてぜい弱だ。私が最初にここを「半城郭都市」としたのはそのような理由からだ。とはいえ七世紀の倭国の国力をもってすれば上出来なのかもしれない。なにせこの国の最大の「長城」は東シナ海と日本海なのだから。
 ひとつだけ気になるのが、ただでさえわずか1.2㎞しかない貴重な「半里長城」にも満たないのに、その中ほどが1975年に開通した高速道路によって分断されていることだ。九州の大動脈として利用されているのだが、ちょうどこのあたりは「欠堤部」だったという。それにしてもアジアからつながる巨龍のしっぽが、最後の最後で寸断されていそうなのが何とも言えず残念だ。平城宮跡を突き抜ける近鉄や日本橋の上を横切る首都高など、「昭和の遺物」を地下に移す計画があるように、ここも何とかならないだろうか。
 などと脳内で「令和の復元計画」をシミュレーション(趣味レーション?)しながら山を下った。
 さて、次に訪れる城郭は南日本九州から北日本奥州の古代城柵である。 
 
奥羽の歴史の「親分格」ー多賀城
 仙台の東の多賀城市を初めて訪れたのは東日本大震災の半年後、2011年だった。そのころ建造物は何も復元されておらず、城郭マニア、蝦夷マニアでなければ地元民ぐらいしかいかないところだった。しかも津波で二百名近くの人命を失った市内には震災の傷跡がところどころ残っており、観光どころではなかった。
 私はまず隣接地にある宮城県立東北歴史博物館を訪れた。ここは「宮城県立」でありながら「東北」全体の歴史を扱う。普通ならば県外の歴史を扱えば、「県民の税金を無駄遣いするな」と言われそうなものだが、ここのスタンスは違う。「多賀城こそは東北、いや、奥羽の首府である。子分たちの面倒を親分が見るのは当たり前だ」と言わんばかりの太っ腹な態度を感じる。常設展は奥羽の「最初の黄金時代」だった縄文時代の生活展示から始まり、南西日本から稲作が流入する弥生時代で暮らしが一変すること、そしてそれに続く古墳時代を経て古代のコーナーになる。

エミシと朝廷の子孫の「統合失調」
 その後の「城柵とエミシ」という表現が目を引く。「エミシ」であって「蝦夷」すなわち中央から見た野蛮人ではない。この点では博物館が「エミシ」側の立場に立っているように見える。しかしそれと同時に「城柵」という、その「エミシ」の「侵入」を防ごうとする朝廷側の意図を含んだ表現も見え隠れする
 さらに奥州の大地に城柵を築かれ、中央に四角四面の奈良あたりのミニ平城京を思わせる左右対称の多賀城政庁の模型を見た。これは土地の人たちにとって何を意味するのだろうか。自分たちを侵略しに来た者たちが勝手に「文明」の名のもとに築いたのか。あるいは自分たちもこれを築いた者たちの子孫として、はるか一千キロ以上離れた都の文明をもたらした「光」なのか。
 極めつけが、一定時間になるとそこに燃え盛る炎を意味する赤い光を当てて、一方の先祖エミシの反乱によって燃やされる多賀城を見せられることだ。ここにいたって私は両者に引き裂かれて「統合失調症」にでもならざるを得ないこの土地の人々のことを思うしかなかった。

大和と大陸との間ー「多賀城碑」
 外に出て至近距離の多賀城跡に向かう。そこは勇壮な石垣や壕などが残っているわけではないが、あちこちで既視感を感じる。例えば政庁の疎石をみると即座に大宰府政庁に並ぶ疎石を思い出した。そして多賀城碑を見れば群馬県の多胡碑を想起させる。現在、覆堂のなかに保存されているが、それを最初に提唱したのは徳川光圀だったという。いずれも興味深いのだが、しかしいずれもいわゆる「城郭的」な文化財ではなく、自分のなかの「盛り上がり」には欠けた。
 しかし多賀城碑に刻まれた内容には、城郭とは別の意味で興味深さを感じる。例えば「京(=平城京)まで千五百里、靺鞨(大陸)まで三千里」とある。もちろん概算であろうが、ここが大和と大陸との間であるとの認識をわざわざ刻むメンタリティが気になった。さらにこれを建設したのは「按察使(あぜち)兼鎮守将軍」の大野朝臣東人だと自己アピールしているが、「按察使」とは唐における地方官ではないか。日本は唐に対しては「東夷」であったことは周知の事実だが、周りに更なる「夷」である「蝦夷」をおくことによって、相対的にランクアップしたような気になったのだろう。この空間が唐文明をそのまま移植したようなのもそうした理由だろう。
 ちなみにこの石碑は江戸時代には「つぼのいしぶみ」と呼ばれ、芭蕉もおくのほそ道の旅の途中で立ち寄っているほど、江戸や上方の文人の間にも知られていたという。それが明治時代になると一転して「偽作」とみなされたが、一世紀以上の論争の結果やはりホンモノであると証明され、2024年に国宝に指定された。

古代城柵に向き合う東北人
 同じ年にそこから目と鼻の先の位置にあった南門も再建された。なかなかに平城京を思わせる丹青の建築である。できたばかりなのに朱塗りの柱の各所に亀裂が生じているが、それは当時の技術を再現すると、自然にそうなるとのこと。昭和だったら「サービス精神旺盛」といおうか、最先端の技術でひび割れなどしないようにしていただろう。我々のメンタリティも半世紀で大きく変わったものだ。
 そして2025年に宮城県は10年から20年かけて政庁全体を復元するという。東西も南北もそれぞれ約860mもあるこのエリアを復元したら、正に圧巻だろう。周りは築地塀で屋根がふかれていたというし、また時代により建造物の配置が換わるとはいえ、共通して言えるのは左右対称だったという。南門から北側の正殿に向かってまっすぐの緩やかな坂道を上るとその左右にあるのは「異国風」の建物だったはずだ。ここが平城宮のミニチュアであるとすると、それは地元に根付く「文化」ではない。普遍性を帯びた「文明」とみるべきであろう。この東北の歴史ある町に突如そうした「唐風文明」が出現するのは、たとえるならば現在市内にある巨大なショッピングモールなどが現れるような感じなのかもしれない。
 改めて考えると、東北における古代城柵というのは実は地元の人々との関係が微妙である。というのも、先述した通り、自分を「討伐」された蝦夷として位置づけるのか、それとも蝦夷を「討伐」して国家建設した朝廷の子孫であると位置づけるかによって、この政庁復元に対する盛り上がり方が全く異なってくるはずだからだ。まだなにも復元されていないころにここを歩くと、近所の人たちが犬の散歩に来る程度の「公園」というべき場所であった。市民、県民、東北人といった各層でのアイデンティティにかかわらない「呑気さ」がそこにはあった。しかし今は平城京のミニチュアのような門が建てられている。これをどうとるべきか。仲間と記念写真を撮って終わり、というわけにはゆかないだろう。ここは単なる学術的成果を見せるため、または観光資源として復元されるわけではない。今頃ようやくこれに向き合おうとしている人々が、これを子孫にどう伝えるか、引き続き注視したい。

志波(しわ)城ーNYタイムズが無視した奥州の「嘉峪関」?
 803年から811年まで8年間だけ栄えた奥州の名城がある。平安初期に桓武天皇の名を受けてエミシの領袖アテルイを「征討」にきた「征夷」大将軍、坂上田村麻呂によってアテルイ降伏後に築かれた城柵、志波城だ。平成に復元された外郭南門は掘立柱である。そしてその東西に広がる築地塀には威圧された。これを見ながら思ったのが、万里の長城の最西端にある「嘉峪関」である。漢民族からして「辺境」のボーダーに築いた嘉峪関は、そこから西は漢民族の土地であることを声高に主張しているが、ここも田村麻呂が蝦夷に対して「これ以上は南下するな」というメッセージを視覚的に見せるために、エミシたちが見たこともない最先端の大陸の技術をもって四角い城を築いたのだろう。なにせその規模は東西、南北ともに約840mほどで多賀城規模であるだけでなく、その周りを928m四方の土塁で固めているのだ。
 櫓門を超えると街路樹がまっすぐ通っている。幅約18mのこの通りの向こうが官衙(かんが)と呼ばれる役所を再現した資料館である。そして竪穴住居の柱がいくつか見える。このような住居が1200から2000棟もあったという。外郭内に住民を入れて守るという発想は吉野ヶ里にみられる弥生時代そのものだ。九州でみた弥生時代の様式がここ奥州の地に見られるのが不思議ですらある。
 それにしてもだだっ広い平原だ。盛岡市は北上盆地の北に位置するが、それにしてもこれだけの規模の都市公園は滅多にお目にかかれない。規模だけでいえば平城宮を思い出す。ちなみにニューヨークタイムズで「2023年に行くべき52の場所」の第二位として選ばれた盛岡市だが、この圧倒的な規模の城郭は全く評価されていない。

アテルイとアヌシキ
 ところでエミシといえども一枚板ではなかった。そこを狙ったのが坂上田村麻呂である。彼はエミシの力が一つにならないように「離間工作」を行ったのだ。十万の軍を率いたとされる坂上田村麻呂が胆沢の領袖アテルイを攻撃しながら、志波の領袖アヌシキが朝廷に服属することを田村麻呂に申し出るようにしむけたのだ。幼いころから父に従って奥州の空気を知っていた田村麻呂はエミシの風習を強制的に変えさせたりせず、軍事鎮圧と文化政策を使い分けていたことが功を奏したのかもしれない。
 また、田村麻呂は常にエミシを敵視ばかりするのではなく、見込みがあれば文字を教えて役人に登用したり、何かあればエミシを饗応接待したりもしていた。これも漢民族の王朝が安全保障のために北方諸民族に漢民族の文化を強制せず、しかし興味を示すものには伝え、内部に取り込み、何かあれば接待したり土産を持たせたりしたやり方とそっくりである。一方的な軍事攻略ではなく、このような「文化・文明の力関係」を利用できたのは、それだけの力の差があったからだろう。その後蝦夷の力は弱体化の一途をたどるが、11世紀に大きな異変が起こった。場所は岩手県内の南の地、平泉である。

平安京を「相対的な都」として見る平泉
 アテルイらの朝廷軍に対する抵抗は結局鎮圧された。しかし彼らに近づき、彼らの何よりも得意なものを身につけた一群がいた。関東の源氏の子孫、八幡太郎義家である。彼がエミシから学んだものは馬を乗りこなして矢を射る騎射術だった。ここに坂東武者の「お家芸」流鏑馬が生まれた。ちなみに「八幡太郎」という通称は、河内生まれの彼が元服した場所が、北河内と山城の境界にある石清水八幡宮だったことによる。11世紀の奥羽の争乱において畿内出身者として最も大きな影響を与えたであろう彼は、前九年・後三年の役を通して奥州藤原氏の事実上の「後見人」となっていった。
 現在の平泉を歩くと、京風文化をところどころに感じるが、ここは平安時代初期に朝廷が築いた唐風のグローバルな文明としての「城郭都市」ではない。都市計画という面でいえばむしろ鎌倉時代の鎌倉や、あるいは後の世の小田原のような、地形を十分に生かした城郭都市といえよう。
 この平泉を奥州の「首都」として定めた奥州藤原氏初代藤原清衡はおそらく同時代の「非奥州」たる「南日本」からの自由を求めていたのではないか。なまじっか白河の関で「南日本」とつながっているため、エミシは彼らの政治状況に振り回され続け、「陸奥守」に搾取されてきた。ちなみに源義家は清衡にとり、前九年の役で自分の父親を鋸引きで殺した怨み骨髄に入る敵である。しかしそれでも後三年の役の際には親の敵と組まねばならぬほど奥州の自由独立を求めたのだろう。ただそれでも後三年の役の後、義家は味方してくれた清衡方の女子供まで惨殺している。
 ちなみに清衡はもともと出羽の清原氏であり、それは朝廷に恭順の意を示した「俘囚」と呼ばれる家柄である。正直なところ、これは「名誉白人」以外の何物でもない。ただ出羽から見れば海の向こうは大陸である。京都を絶対的な基準として見るべき義理はない。「辺境」に住む者の特権として、複数の王朝や国家を相対的にみることがあげられる。それは京都を周辺国にいくつかある首都の一つ、とみるようなものである。現在で例えるなら、東北が北京、ソウル、ピョンヤンなどと東京を同じ感覚で見るようなものだろう。同じように義家も朝廷の命を軽視し、坂東で思うままにふるまっていたことを考えると、二人とも朝廷から見れば似たり寄ったりの「蝦夷」に見えたに違いない。後三年の役で清衡と義家が手を結んだのはいわば呉越同舟のようなものであろう。
 
城郭にしか思えない中尊寺
 そんな清衡が朝廷から「認められて」、いや、清衡からすればおそらく「認めさせて」奥州の覇者となり、それまで骨肉相争う修羅の場だった奥州に平和をもたらすべく敵味方の関係なく鎮魂目的で建立したのが中尊寺である。この「恩親平等」という考えはその後、元寇での日本・蒙古の霊を弔うために建立した鎌倉円覚寺などにも受け継がれていった。
 何度か参った中尊寺だが、ここは初めて来たときから今までずっと「城郭」だと思っている。駐車場から登る坂道のきついこと、そしてそのうち断崖絶壁の脇を通ること、さらにその断崖の展望台からは北上川の支流、衣川が外濠として使われていたとしか思えないからだ。ちなみに清衡の時代まではこの衣川から北がエミシの国であったといわれ、いわば古代における国境の真南に「中尊寺城」が位置したことになる。
 そしてここを「本城」とするならば「支城」に当たるのが直線距離で500ほど南東に位置する高館(たかだち)であろう。ここは兄頼朝の追討から逃れて平泉を頼ってきた義経がたてこもり、最期を遂げたところとして知られるが、それ以前は藤原氏の居館があった。そもそも「高館」の「館」とは東北において要塞兼居館を意味する。

高館(たかだち)ー義経と、芭蕉と、城郭と
 最近中尊寺からここに向かおうとしたとき、カーナビの指示が間に合わず大周りすることになったが、結局はそのおかげで高館の周囲をじっくりとめぐることができ、ここも奥州一の大河、北上川を外濠とした断崖絶壁上にそびえる難攻不落の地形であることが確認できた。ようやく駐車場に車を停め、十分ほど坂道を上ると、受付である。閉門時間ぎりぎりで滑り込んで入場券を購入し、さらに石段を上りきったところで視界が開けた。さきほど大周りしていた道が真下にあり、その向こうは北上川が滔々と流れる。一般的にここを訪れる人が求めるのは奥州藤原氏や義経、弁慶などの歴史ロマンでなければ、藤原氏滅亡の五百年後にこの地を訪れた芭蕉の「おくのほそ道」が好きな文学ファンなのではないか。なんといっても中学生すらみな覚えさせられる「夏草や兵どもが夢の跡」の詠まれた場所なのだ。
 私はというと、義経の霊を弔う義経堂や、芭蕉の句碑にも当然惹かれるが、それ以上に興味があるのはやはり城郭としてのこの地だった。ちなみに公式HPをみてもパンフレットを見ても、ここを城郭として紹介する記述はほとんどない。ただこの細長い地形がいかに要塞として優秀だったかは一目瞭然である。

「夏草や 兵どもが 夢の跡」
 なお、ここの句碑にも彫ってある芭蕉の名文をそのまま引用したい。
三代の栄耀(えいよう)一睡の中(うち)にして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。まづ高館に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。
泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷(えぞ)を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠うち敷きて、時の移るまで泪を落としはべりぬ。
夏草や 兵どもが 夢の跡
卯(う)の花に 兼房(かねふさ)見ゆる 白毛(しらが)かな   曾良」
 当時から見て五百年前のドラマが目の前で起こっていたことに対する胸の高まりを感じさせる。特にこの場面は高館から北上川が「南部」、つまり南部氏の治める盛岡あたりから流れる北上川の雄大さをたたえているのは今も変わらずである。なお、衣川が「和泉が城」を巡っているというが、それは高館からは見えない。また、「衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐ」という場合の「南部口」も、方角を表すのではなく南部氏の治める盛岡、つまりここからみると北側である。つまり衣川(衣が関)がエミシとのボーダーであったことを表している

文学よりも城郭にひかれる私
 さらに「城郭」にこだわる私が気になるのは、やはり「大門」がどこかである。毛越寺か中尊寺かと思わないでもないが、一里≒3.9㎞だともっと遠くにあるはずだ。城門に相当するとこなのだろうか。そのようなことを考えながら改めてこの句碑に彫られた文字を朗々と詠ずると、やはり「義臣すぐつてこの城にこもり」の部分で、「やはり芭蕉もここを城と認識していたのか」と思わないではいられない。そう、どう見ても城郭なのだ。そして極めつけが『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』という唐の詩人、杜甫の「國破山河在 城春草木深」をアレンジした文章である。
 ここで一つ確認したいことがある。中国語の「城」とは城郭都市のことであるが、芭蕉にとっての「城」はこの砦のことを指すだろうということだ。現に、彼がかぶっていた笠を敷いて泪したのはおそらくここなのだから。中国と日本では「城」という文字を見ても、意味が大きく異なるのが面白い。とはいえ、大宰府周辺では同時代の唐文化の影響が極めて強いのに比べると、この高館に同時代の中国(宋)の影響を感じることはほぼない。あれほどグローバルな文化を誇った平泉にしては意外過ぎることだ。
 奥州が古代から中世に移り変わるときの象徴的な城塞を満喫した後は、今一度、九州を目指し、中世九州最大、いや、日本史上最長の城壁を目指そうと思う。

玄界灘の「五里長城」ー元寇防塁と博多のまち
 博多に行くのはなぜか年末が多い。これまで何度かに分けて福岡市内の城郭を歩いたことがある。とはいえ今の福岡市の基礎を作った福岡城以上に興奮しながらも頭をひねる「城郭」といえば、歴史の教科書でおなじみの元寇防塁である。平泉を廃墟にして成立した鎌倉幕府が倒れる間接的要因となった文永・弘安の役の間に築かれたこの玄界灘の「五里長城」を「歩きつないで」みた。
 実は福岡市は日本の政令指定都市の中で唯一米軍以外の外国の攻撃を直接受けた場所であり、今もそのときの防衛の跡がそこかしこに残っている。博多駅から直線距離で1.5㎞のところに位置する博多小学校では、なんと地下に防塁の跡があり、制限付きだが見学できる。ターミナル駅の目と鼻の先がすでに防衛拠点だったのだ。
 また、博多の商人から崇拝されてきた筥崎宮(はこざきぐう)の扁額には元寇を鎮めるための「敵国降伏」という亀山上皇の言葉がしたためられているだけでなく、境内にも蒙古軍船が碇として使った岩がおかれており、その後ろには防塁も復元されている。二度の元寇の際は、ここも最前線の基地として九州各地からはせ参じた御家人たちの鎧の音が鳴り響いたことだろう。
 さらに福岡城跡のすぐ南にある赤坂公園などは1274年の文永の役の激戦地であり、10月20日に上陸した元軍と鎌倉武士たちの血みどろの戦いがあったはずだ。そこで肥後からはせ参じた菊池勢の猛攻に敗れた元軍は、西新(にしじん)の南の小高い祖原(そはら)公園に逃げ、ここを一時占拠するが、元軍が占拠したくなるのが理解できるほど見晴らしがよく、逆に攻めようとすれば登りにくかったろうことが推測できる。家族連れや犬の散歩に来ている人が多い中、「元寇麁原(そはら)戦跡」という記念碑が「あの日」のことを忘れるなと言わんばかりに座っている。そして展望台から北を見ると、今は百道(ももち)の福岡タワーが見えるが、あのあたりに元軍の軍船が900艘近く浮かんでいたはずだ。
 そしてここに陣取った元軍もその日のうちに百道の海岸に向かって撤退している。こうした内容は庇護の御家人竹崎季長(すえなが)が幕府に提出した「蒙古襲来絵詞」に記録されている。ちなみに元軍はここに来るまでに壱岐や対馬、松浦などに上陸し、無辜の住民たちを虐殺し、生きているものも手に穴をあけて縄でつないだりするなど極悪非道な扱いをしてきた。その様子は筥崎宮近くの箱崎公園に隣接する広場の日蓮上人像の台座にレリーフとして残されているのだが、そんな元軍を追い返したのが九州各地の御家人連合軍だったのだ。

「戦わせられた」高麗人
 その二年後の1276年、幕府は報復措置として高麗出兵を計画した。元軍に軍船を提供するだけでなく、元軍の先鋒として働いたものの中に、実質上「元」の支配下にあった高麗人が多かったからだ。なお、高麗が提供させられた平底船は揺れがひどく、初冬の玄界灘の荒波で多くの元軍の兵が致命的な船酔いに苦しめられた。上陸わずか一日で撤退した理由も、瀕死の状態で戦わされたからだともいえる。また得意の騎馬戦も、環境の変化に極めて敏感な馬が、本来のパフォーマンスを全く発揮できなかったであろうことも理由の一つである。加えて高麗人は「やらされている感」が強く、まったく士気が上がらなかったことも挙げられるだろう。
 結局幕府による高麗出兵は実現しなかったが、同時に幕府は九州各地の御家人に命じて石築地(いしついじ)を海岸線にそって造営させた。その総延長は福岡市だけでも20㎞に達する。大野城と水城を合わせても10㎞に満たないので、いかに幕府軍が真剣に取り組んだかが見て取れる。

途切れ途切れの防塁
  西新駅から北西に向かうと西南学院大学である。そこにも防塁があるというので行ってみた。近くにはなんと「防塁」というネーミングをそのまま使ったマンションすらある。福岡市民の中にいまいちこの防塁を誇る雰囲気を感じられず、城郭マニアとしてもやもやしていただけに、不思議な期待が高まる。はたして防塁はキャンパスの建造物で四方に囲まれた「中庭」のようなところに「押し込まれて」いた。石塁と苔むした土塁である。これが元軍を防いだあの名高い防塁なのか?しかも短い。わずか20mだ。これでは文字通り「箱入り息子」ではないか。ただ戦国時代の野面積みにも見える小ぶりな石の積み方などは興味深かった。
 いや、しかし私の見たかったのは、感じたかったのはこれではない。そこでスマホで再検索すると、体育館の南にもう一か所あるというので行ってみた。そこは地表から1mほど掘り下げたところに石塁が隠れていた。先ほどのキャンパス内のものよりは周りに壁がないだけよかった。長さも倍近くはありそうだ。しかしやはりまだ何か違う。私は海から攻めてきた元軍を防ぐ、つまり砂浜に並ぶ石塁が見たかったのだ。しかし防塁はあまりに途切れ途切れで、その形を成さないのだ。
 道路沿いに小さな新しい石の祠を見た。「元寇神社」とある。鎌倉武士の鎮魂のために昔から建てられていたというが、1960年に新たに元軍の兵士の御霊も祭ることになったという。なるほど、侵略者にさせられ、異国で無念の最期を遂げると祟りとなって不吉なことをもたらすという心情はよくわかる。太宰府天満宮に菅原道真を祭るのも同じ思いからだろう。

防塁がなかったら…
 気を取り直して西に進む。次なる目標は西区の生(いき)の松原である。駐車場に車を停めると、その名の通り延々と松並木が続いている。木々はみな内陸のほうになびいている。玄界灘の北風を受け続けてきたからだろう。やはり暮れの潮風は冷たい。が、博多では感じにくかった潮の香りが強まり、悪い感じはしない。全身に吹きすさぶ風を受けながら海に向かうと、ついに玄界灘と石塁が現れた。私が見たかったのはこれだった。肥後の御家人が造営したというここの防塁は長さ2,5㎞あり、石組みが復元されているのはその一割ほどだろうか。「蒙古襲来絵詞」に出てくる名場面の防塁とほぼ同じ形である。竹崎季長(すえなが)もここで戦っていたのだ
 荒れる玄界灘を見ながら想像した。ここは1281年の弘安の役の激戦地である。ちなみにその時の元軍は高麗人や南宋人を含む十数万人から数十万ともいわれる、当時世界最大規模の軍団であり、日本占領を前提に九州あたりで開墾して自活すべく鍬や鋤のような農具まで持ち込んでいたことが分かっている。元軍は博多湾各地に分散して襲うのではなく、ここに集中攻撃を仕掛けた。逆に言えば九州の武士団は各地に分散しないでここで集中的に敵をたたくことができた。結局あれほどの大軍をもってしても、あのグローバル軍団はここに上陸できなかったのだ。逆にこの防塁がなかったらどうなっていただろうか。九州は元軍に占領されていてもおかしくはない。

 私は目の前の城壁や、今は公園となっている激戦地を「歩きつなぎ」ながら、沖縄戦のことを思っていた。この海に浮かぶ元軍の船は、読谷村座喜味(ざきみ)城から見えたであろう海を埋め尽くす米軍の軍艦に思えてならない。両軍が血みどろになって殺しあった祖原公園や赤坂公園は、日米両軍の兵士が発狂しながら戦いあった那覇のシュガーローフといわれたところを思い起こす。そしてなによりも、沖縄にはこの防塁のように民を、国土を守るための城壁がほぼなかった。20世紀において手掘りの防空壕では間に合うわけもない。いや、むしろ天然の防空壕に避難していた民間人を軍が追い出し、従わない者はスパイ扱いされ処刑されたぐらいだ。

福岡市のシンボルは?
 そのように考えると、日本の運命を変えた城壁、それが玄界灘の防塁だと私は信じている。当然それなりの資料館があるはずだと思って調べたところ、最初に訪れた箱崎公園隣接地に元寇史料館がある。例の日蓮の銅像があるところだ。しかしここは某宗教団体が運営しているところであり、公共の資料館とは異なる。さらに市民から注目されていないからか、知名度が低い。そのためか見学者は事前に予約しなければ開けてもらえず、私はまだ見学できていない。
 公立の歴史博物館としては福岡市博物館がある。1990年にできて2026年から数年間リニューアルのため閉館するというが、ここの常設展の目玉は元寇ではなく「漢委奴国王」の金印である。また、元寇以上にその前後において博多が、福岡が、いかに海外との貿易で繁栄したかという点に主眼が置かれている。なるほど、時系列でみると確かにその通りだ。
 それにしてもグルメを除き福岡市というのはいまいち「シンボル」や「ヘリテージ」が見えてこない。少なくとも大阪城や名古屋城や熊本城がそれらの都市の顔であるのとは異なり、福岡城多門櫓が町のシンボルではないことは明らかだ。道頓堀がみんながピンとくる大阪のシンボルであるのと比べ、キャナルシティが福岡のそれかといわれると微妙だ。九州人以外は認識できないのではないか。そしてそれ以上に認識が低いのは、この防塁であろう

福岡市民にとって元寇とはなんだったのか
 なぜこのような世界史的レベルで見ても価値のあるものを持ちながら、それが町のシンボルたりえないか考えてみた。まずは見栄え、つまり写真写りである。これが万里の長城のように大地をのたうち回ればよいのだが、地味に、とぎれとぎれ横たわるだけである。また、すくっと立っているものはシンボルになりやすいが、横長の建造物はなかなか認識されづらい。見栄えのほかにも「神風」伝説があまりにも浸透しており、この防塁で守り抜いているうちに元軍の船内の衛生が悪化し、病人が続出したところに季節外れの台風が上陸したのがとどめを刺したという流れが理解されていないことがあげられる。元寇が神風というナショナリズムによって吹き飛ばされたという認識のほうが普遍化したら、防塁の重要性といわれてもぴんと来なくなったからではないか。
 そして元寇は日本史上の「国難」として記憶されているが、福岡市博物館の常設展示に見られるように、その舞台となったこの地、特に博多の人々にとっては宋の商人が大挙して押し寄せ、仏教文化や各主産物をもたらした時代と、再び各国の商人がこの町に定住すると同時に、日明貿易の一大拠点として栄えるに至る間のつかの間の不遇の時代に過ぎないからではないか。いや、博多商人は明の時代を待たなくとも、元寇騒動が落ち着くと半世紀もしないうちに夢想疎石の天龍寺船による貿易の中心として繁栄し、元の商人と交易をしているほどの商人気質なのだ。

「町を知っているネズミ」としての博多
 元寇について考えるにあたり、元の本質は軍事ではないことにも留意する必要があるだろう。モンゴル帝国は現代でいえばグローバルビジネス帝国である。彼らは陸と海をつないで流通システムを整備した。そしてその共通通貨としてフビライ・ハンは世界初のグローバルな紙幣で取引するようにしたのだ。これは今でいえば世界どこでもカード決済ができるようにしたようなものではないか。そしてその経済圏の最東端にあったのが博多である。文永の役のおりには元軍の侵攻を受けつつも、まだ完全に元の軍門にくだっていなかった南宋に対して軍船を作るための木材や、火薬にするための硫黄を輸出していたのは博多商人である。そのことはほぼ知られていない。
 客観的にみれば当時の鎌倉幕府のほうこそ軍事政権である。元から何度も親書を受け取ったが、交渉の余地もなくこれを無視し続けた。グローバル社会への恐れと無知があったのではないか。「田舎のネズミと町のネズミ」というイソップ寓話を思い出した。吉野ヶ里遺跡の時代も大宰府の時代も元寇の時代もずっと玄界灘や東シナ海をとおして海外という「町」とつながっていた博多の人々は、「町のネズミ」ではなくとも「町を知っているネズミ」ではある。それに対して鎌倉幕府は「町」を危険なものとしてしか認識しない「田舎のネズミ」である。田舎のネズミは元寇を国難ととらえ、民族主義的に反応するのに対し、「町を知っているネズミ」はどちらの立場も分かる。福岡市民が防塁という世界レベルの遺産をもちながらぴんときていないのは、ナショナリズムもほどほどにしておかないと、利益損失につながることを知っているからかもしれない

城は分断する。橋はつなぐ。
 城郭マニアとしてみると「福岡市民よ、もっと防塁を!」と叫びたいのだが、民俗学マニアでもある私は、九州という日本と外国の架け橋として生きてきた人々のもつ価値観も大切にしたい。「架け橋」と書いて我ながら膝を打った。城壁は内と外を分断する。しかし架け橋は分断された内と外をつなぎなおす。鎌倉の価値観が分断してでも民を守ることならば、それをつなぎなおし、繁栄することに価値を見出すのがこの土地の人々の在り方ではなかろうか
 ちなみに防塁に使われた石の多くが福岡城に転用されていると聞いて、こちらも興味深かった。城壁のリサイクルである。そして崩された石と石の隙間から新たな海外からの風が吹き、この町を活性化しているようにも思えてきた。
 
千早赤阪村立郷土資料館
 ここまでの「天守を知らない二千年」の旅は九州と東北ばかりで、畿内を全く歩いていない。よって中世の畿内で特筆すべき城郭を二か所歩いてみたい。桜のころ、堺駅前でレンタカーを借り、南に向かったことがある。場所は大阪府南端の千早赤阪村である。山の東は奈良県、南は和歌山県に接しているこの村は、学生時代は大阪に住んでいた私だが、「心理的距離」の遠さを感じた。しかし近づくにつれ、ふるさと奥出雲の山道を歩いているような感じもしてきて、「心理的距離」とやらのいい加減さを実感した。
 まずは時折目にする山桜のなか、村立郷土資料館に向かった。ウグイスの声を耳にしながら館内に入ろうとしたら敷地内に「道の駅」があるので寄ってみた。「道の駅」とはいっても田舎の食料品店のようなところで地元素材のおにぎりやパンなどが並ぶ。なにやらほほえましく、手作りの蒸しパンを買ってみた。素朴でうまい。その後でいよいよ郷土資料館に入ろうとすると、資料館の壁には安っぽいつくりの鎧兜がヒト型に着せられて雨ざらしのまま立てかけられている。すぐにピンときた。正成は数万から数十万ともいわれる鎌倉幕府軍に囲まれたとき、敵に見えるところに鎧兜を置き、兵が守っているように見せかけて逃げたという伝説があるが、それを再現しているのだろう。
 館内に入ると、地方の町村にありがちな、「おらが村」の生んだヒーロー「楠公(なんこう)」を顕彰する施設ではあるのだが、その他の村の民俗資料も少なくない。城郭マニアとして注目したものとして千早城や赤阪城を推定復元したジオラマもあった。ただ手作り感満載であり、精度を求めるものとは言えまい。しかし何やらほほえましい。先ほどの道の駅や、蒸しパンのように、ここでは資料館までアットホームだ。皮肉ではなく、ただ懐かしかった。
 外に出る。また入館時にみた張りぼての鎧兜がこちらをからかうかのように「見送って」くれた。車に乗ろうとすると、「楠公誕生地」という記念碑が建てられているのを見た。しかし本当にここが正成の生まれた場所かどうかは謎である。先祖は橘諸兄(たちばなのもろえ)ということにしているが、あまりにも謎だらけで伝説中の伝説の人物と思っておこう。また、ここを彼の誕生地としてこの記念碑を建てたのは大久保利通である。天皇中心の中央集権国家を作るのに必要なお手本となる人物を、「忠君愛国の士」として美化するには、氏素性のよくわかっていない正成のような人物が最適だったのかもしれない。そして車は山道を赤阪城に向かっていった。

赤阪城へ
 1331年、山城の笠置山で後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して蜂起した際、逃げ延びてきた後醍醐天皇の子、護良(もりよし/もりなが)親王を擁してこの城に立てこもり、北条方と戦ったのが正成である。一か月の籠城の後、親王と正成は逃げ延びた。その場所は現在千早赤阪中学校とそれに隣接する棚田になっている。城郭を求めてここまで来たが、「なんだ、棚田か」とは思えないほど、ここの棚田は「戦略的」に見えた。ここの地形はたとえて言えば、落ち葉を拾う竹製の箕(み)のようなものである。箕の広い口から入って上に登ろうとしてもそう簡単には登れまい。また、退却しようとしても後ろからは見方がどんどん登ってきて混乱を生じさせる。つまり地形を使って巧みに相手を自滅させることができるのだ。
 さらに塀をよじ登ろうとする幕府軍には山の木を切って投下したり、熱湯だけでなく煮えたぎった糞尿まで浴びさせたりしたという。万一敵が塀によじ登ったとしてもその塀自体がひもで支えられているだけでわざと落ちるようにしていたという。ここで時間を稼いで上赤阪城や千早城に逃げた。つまりこの下赤阪城は幕府の大軍に足止めを食らわせ、時間稼ぎをすることによって後醍醐天皇が流された隠岐から帰還し、形勢が変わって倒幕運動が活発化するのを待つために建てられた、いわば「捨て石」としての城だったのだ
 しかし北条方はとにかくこれを落とすことに全力を注いだ。一方で味方の兵力をこれ以上減らさない工夫も必要だ。相手はどのような策を練ってくるか分からぬ型破りな智将、楠木正成だ。そこで兵糧攻めを選んだ。このような山では食料は乏しいということを見抜いていたからだ。しかし正成はこれまでに戦死した敵味方の死体を集め、火葬し、その煙を敵に見せると同時にこの深い山を逃げ落ちていった。北条方は数十あったその焼死体を楠一族ということにして、首実検もしないで関東に戻った。しかし思う。そこまで北条方は愚劣だったのか。「太平記」はあまりに誇張しすぎではないか。
 ただ史実や城郭のことは差し置いても、ここは素晴らしい棚田の風景である。このような環境で学べる中学生がうらやましいと思いつつ、駐車場に戻った。
 
千早城へ
 赤阪城を去り、千早城に向かった。これも山道をうねうねと登り、金剛山の駐車場に車を停めた。こんなところにモンベルの店舗がある。不思議に思いつつハイキングコースを登っていったら、意外にも老若男女のハイキング客が少なくなく、驚いた。なるほど、モンベルができるほどのハイキングのメッカだったのだ。
 急な坂道を登っていく。私はハイキング目的ではなく、城郭巡り目的なので、本格的ないでたちでストックを両手に登る人々に比べると楽なコースだが、やはり時に息が苦しい。とはいえ春の息吹が聞こえてきそうな山中を歩くのは心が躍る。二、三十分ほど歩いただろうか、ようやく平地が姿を現した。ここが三の丸だという。片側が四の丸、もう片方が二の丸である。「四の丸」などというのは初めて聞いた。「四」は「死」を連想させるので、他の城郭では「北の丸」などという方角の名をつけるのが一般的だからだ。
 行ってみると、いずれも何の変哲もない、掘削された狭い平地だ。昭和のころに建てられたであろう茶屋らしき建物の廃墟が残っている。ここから三の丸、二の丸、本丸と、ほぼ一直線に少しずつ高くなりながら連なっている。ところどころに例の鎧兜の張りぼて人形がある。ここでも正成はこうした「張りぼて侍」を敵に見えるところにおいて敵が近づいたところで上から巨石を転がして敵を倒した。幕府軍は数万とも数十万ともいわれるが、地形を見ると同時に数十万は無理である。いや、このような山村では数万も無理ではないか。
 仮に数万いたとして、その軍勢の中にいたのが関東の新田義貞である。しかし幕府軍の無能さに嫌気がさしたのか、いや本当は自分の子分たちを殺されたくないという思いからだったのだろうが、ただそれでは顔が立たないので「太平記」によると「敵方」の護良親王に討幕の令旨(りょうじ)を得て離脱したことになっている。そして関東に戻った彼は後に後醍醐天皇が隠岐から戻ると兵をあげ、最後の執権北条高時を鎌倉で自害させた。

そしてできた「忠臣」楠木正成伝説
 「本丸」とされるところには1332年に建てられたという千早神社があり、戦を司る八幡神のほか、楠木正成・正行(まさつら)親子も祭られている。実は本当の「本丸」はここの裏手の休憩所のあるところあたりだというが、そこに行くまでの道は「整備された獣道」という感じで手すりもないため、枯葉に足を滑らせると奈落の底に落ちそうなほどだ。
 おそらくこの辺りも幕府軍に囲まれたうえで橋を架けられ、兵を送られそうになったに違いない。ただし手柄を焦った幕府軍は我先に橋を渡ろうとしたために狭い橋から落ちたり、正成軍が水鉄砲に灯油を仕込んで吹きかけ、橋を焼いたりしたため幕府方の自殺行為になったという。そのうち周辺の討幕軍が立ち上がり、幕府軍に食料がいきわたらないようになっていたころ、後醍醐天皇が隠岐を脱出した。そして討幕の綸旨を受けた幕府軍の参加者たちも我先に帰途に就き、千早城攻略は失敗に終わった。残ったのは百倍の敵を追い返した「忠臣」楠木正成という伝説である。

「ゲリラ」と「ブリコラージュ」
 鎌倉時代から南北朝時代に移行する中世において最も有名な戦いが行われたこの山城を下りながら二つの外来語が思い浮かんできた。「ゲリラ」と「ブリコラージュ」である。楠木正成の戦い方はおよそ「鎌倉武士」の戦い方らしくない。「やあやあ我こそは!」からはじめ、正々堂々と戦う「武芸」または「試合」のような型にはまったものではない。「美しくなければ戦ではない」とでも言わんばかりの正攻法のみをもってよしとする、硬直したものではない。そこには「勝ってなんぼ」という戦場のリアリティがある。勝たなければ意味がないのだ。さらには「時間稼ぎ」を戦略とする正成と、「合戦による恩賞」のためにはせ参じた幕府軍では、戦う土俵が本質的に異なる。つまり「正規軍VSゲリラ」では、何をもって勝ちとし、何をもって負けとするかが決まっていないのだ。それは米軍がベトコンやテロ組織に勝てない、いや、何をもって勝ったとするか分からないことにも似ている。正規軍のほうが泥沼化してしまいがちなのだ。
 そしてゲリラ戦を支えたのが「ブリコラージュ」、すなわちありあわせのものでなんとかやってしまうという発想である。ありあわせの鎧兜でカムフラージュする。糞尿まで武器に使う。さらに味方の死体すら焼いて自分の身代わりとして逃げる。そこには武士たるもの、云々という理想論もなければ、刀と槍で正々堂々と戦うなどという発想自体そもそもない。
 千早城や赤阪城は、純粋に中世城郭として興味深いのはもちろんのこと、こうした「戦い方」を変えるほうが、城郭を強化することよりも大切であるというコペルニクス的発想の転換である。どうやら城郭マニアは難攻不落であることをよしとする癖があるが、城など道具に過ぎないので捨ててもよいという正成の発想は城郭マニアの私にとっても「目から鱗が落ちる」思いがする。
 
首里城と琉球のグスク 
 本土で南北朝時代に突入した14世紀、沖縄は「三山時代」と呼ばれ、沖縄本島の北半分(北山)と南四分の一(南山)、そしてそれらに挟まれた四分の一(中山)に分かれて抗争していた。いわば本土より一世紀遅れて源平と奥州の三つに分かれていたともいえるし、本土より一世紀早く戦国時代に突入していたともいえる。戦乱の世に城郭はつきものであるが、ここに本土とは異なる城郭の形態が誕生した。それは「グスク」と呼ばれ、漢字では「城」と表記する。ただし中国語の「城」の意味と日本語の意味が異なるのと同様、「城」と書いても本土と沖縄ではかなり異なるニュアンスを持つ。簡単に言えば本土の「城」は戦国時代には要塞だったのが江戸時代に宮殿化するのだが、沖縄の「グスク」は聖地が要塞化したものといってよいだろう
 そして1429年に三山を統一したのは中山の尚巴志であった。古代朝鮮式山城を除き、一般的に本土の城郭が石塁で覆われるようになったのは、鉄砲伝来以降の16世紀半ばからだが、沖縄ではそれより百年以上早く石塁でめぐらされるようになっていた。ここでは琉球のグスクの「完成形」ともいえる首里城を歩きながら、グスクとはなんなのかを見ていきたいと思う。

首里城ー琉球石灰岩の石塁
 首里の地形は複雑である。平坦な那覇の中心部に比べ、高低差が激しい。首里城はその中でも最も高い丘の上に位置する。昭和のころ、首里城のシンボルといえば守礼門だったが、そこから正殿まではまだ数十メートルの高低差がある。ところで本土の城門は固く閉じられているが、守礼門は鳥居のように自由に出入りでき、本土の城郭のような緊張感が全くない。このような城門は本土の中世・近世城郭では稀だ。それをくぐって上に上がると次の城門だが、それは「歓会門」という、非常にフレンドリーな名前が付けられているが、これは琉球王朝時代に冊封使(さっぽうし)という明朝、清朝からの使者を快く迎えるためのものだという。
 歓会門を過ぎると龍樋(りゅうひ)という泉から清水がこんこんと湧いている。沖縄で湧き水があれば、かなりの確率で琉球石灰岩が雨水を濾過し、底が粘土質の土壌だと水がそれ以上しみこまず、一か所に水滴が集まるのだという。ちなみにここは龍の口から水が出てくるが、その石造りの龍頭は、なんと五百年前のもので、あの沖縄戦の徹底的な破壊も乗り越えたのだという。
 それにしても美しい石塁だ。本土では絶対にお目にかかれぬ琉球石灰岩の白さが南国の空に映える。最高十数メートルの石塁の上が、ところどころ少しばかり宙に飛び出している。本島の土壌の三割を占めるという琉球石灰岩は加工しやすいため、このような造形ができるのだという。全体的に明るい感じがするのは、沖縄本島を琉球石灰岩の石塁の白さのため、また赤い漆塗りと赤瓦のためという物理的なもの以外に、ヒト、モノ、カネ、技術の流れを止めないことによって利益を得る交易国家のもつ、風通しの良い明るさなのかもしれない。

東洋のハブから東洋の鵜と客寄せパンダに
 かつて城内には「万国津梁(しんりょう)の鐘」というものがあった。これはあらゆる国と良好な関係を保ち、東洋のハブになる、というような意味である。その名の通り、琉球王国はアジアのあらゆる国から様々な物事を吸収し、伝えていった。先ほど冊封使を迎えることについて述べたが、琉球王は形式的に明朝や清朝の皇帝に朝貢することで、経済的利益と安全保障を得ていた。それは冊封使を下にも置かずもてなすことで保たれた。ちなみに一度彼らが来れば、約五百人もの一行が半年もの間滞在した。しかしそこまでもてなして交易のうまみをしっていたのだろう。ちなみに琉球でとれる代表的なものと言えば、螺鈿の材料になる夜光貝が高く売れたというが、螺鈿細工に必要な漆はタイやミャンマーから輸入していたという。まさに加工貿易によって国を成り立たせていたのだ。
 しかしそうした繁栄も1609年に薩摩が琉球に侵攻してくることによって終止符を打った。薩摩は琉球を使って明清と交易をさせ、その利益を搾取しだしたのだ。つまり琉球という「鵜」に明清の舶来品という「小魚」を呑み込ませ、吐き出させるという「東亜の鵜飼い」を二世紀半にわたって続けたのが薩摩藩だったのだ。また、琉球が薩摩に連れられて江戸幕府に送った外交使節は主に中華風の服装をさせられていた。これによりまるで薩摩が明清まで支配しているかのように思わせることができるという目論見があったからという。薩摩の琉球に対する態度は、明清に対しては鵜飼いの鵜、江戸幕府に対しては客寄せパンダをつれてこられるだけの力を見せつける「道具」に過ぎなかったのだ。
 一方で明清は「二人の主人」に仕えることを許さない。よって琉球では冊封使がきたらヤマトのものを隠すことを命じられた。楠木正成は百倍の敵に策略をもって戦ったが、琉球人は百倍の「敵」兼「親分」にカモフラージュで戦っていたのだ。そして正成の戦う理由は後醍醐天皇の隠岐脱出までの時間稼ぎだったのに対し、琉球のそれは冊封使が帰るまでの半年の時間稼ぎだ。両者ともゲリラ的なカモフラージュをしているように思える。正成ほどの凄烈さはないとはいえ、琉球も似たような「戦い方」をしているとはいえまいか。

グスクで何よりも大切なところ
 首里城は複雑な地形の上にある割には、それほど難攻不落な様子を見せつけない。それは国の守り方が軍備増強ではないからだ。刀剣で戦うよりも料理とエンターテインメントという戦い方を選んだのだ。城郭というのは一般的に敵の侵入を防ぐためのものだが、中継貿易で栄えたこの国の城郭は、他国の侵入を防ぐ以上に他国とつながりあうことで生きていったとしか思えない。
 ところで平成の始まりに再建され、平成の終わりに焼失し、令和に再再建される巨大な漆器のようなつくりの首里城本殿と、その前面の御庭(うなー)という紅白縞模様の空間は、いかにも中国の影響を強く感じるが、一方で本殿背後の庭園は「日本的」であった。しかしこのグスクで最も大切な空間はそうしたものではない。それは「御嶽(うたき)」と呼ばれる聖地だ。例えば首里城では奉神門前にこんもりと茂る木々、「首里杜御嶽(すいむいうたき)」がその代表である。それだけではない。陰になって奥まったところに木が生えていてお供えがされていたら、かなりの確率で御嶽であろう。その数、城郭内で十か所だ。なにもないところにありがたさがあるのだ
 本土で「城らしい城」といえばみな姫路城や松本城などの天守の写真を思い浮かべるが、本当の意味で「沖縄らしい城」の写真を見せろ言われたら、私なら間違いなく首里城正殿や守礼門ではなく、御嶽の写真を選ぶ。正殿はなくても首里城たりえるが、御嶽がなければそこはグスクですらない。見えなくてもいる「何か」の存在を信じる。そしてそれを守るために、またはそれに守られるためにその場を要塞化する。そうした古神道的な場は、どこかで見たような気がする。そう、吉野ヶ里遺跡のシャーマンの女性が神の声を聴く場である。そしてそれがあの「城郭」ではどこより大切にされてきた。
 さらに言うならば琉球王国にもノロと呼ばれるシャーマンの女性がいて、国王ですらそのお告げには逆らえないこともしばしばだったという。そこまで考えると、「神々に守られ、その神々を守る」という弥生時代の城郭の在り方が最後まで守られていたのが琉球だったのかもしれない。そしてそれは明治時代の「琉球処分」で琉球王国が「琉球藩」に、そして「沖縄県」になるとともに消滅した。しかし今なお、沖縄のおばあたちのなかには、正殿などは無視しても御嶽を拝みに来る人がいるほどだ。

座喜味城の場合
 とはいえ、数百あるというグスクがみな信仰>軍事だったかというとそうでもない。世界遺産の構成資産でもある読谷村の座喜味城などは、軍事面でのパフォーマンスに秀でている。例えば岩盤を利用した丘の上に石垣を積み、大陸渡来のアーチ形の城門やくねくねした郭内で視界を遮り、袋小路に敵を追い込んだりもする。本土では四角い桝形虎口が一般的だが、ここではアメーバのような「ぐにゃぐにゃ虎口」となっており敵が侵入すればハチの巣にされかねない。また石垣をよじ登ろうとする輩に集中砲火を浴びさせられる構造は、五稜郭の星の先端がぐにゃぐにゃに伸びたかのような、「緩い五稜郭」にすらみえてくる。
 このようになったのも、十四世紀に明の沿岸部で築城ラッシュが起こった際、その建築技法がこの島にも伝わったこと、また明朝初期に一時的に博多―寧波航路が南西諸島ルートになったことで明の技術がダイレクトにこの島に伝わったこともあげられよう。しかしここにもやはり御嶽はある。御嶽なくしてグスクではありえないのだ。
 「万国の津梁」、すなわち通商国家として生きることで日本本土を含むアジア中の文化や技術を取り込み、それでいて神々への信仰を要塞と同じくらい重要視するこの島々の城郭を歩いた後は、本土に戻り、東国の山国の「城なき城」を歩いてみたい。

躑躅ヶ崎(つつじがさき)館へ
 甲府盆地の北側、躑躅ヶ崎館を訪れた。一般的には武田神社と呼ばれるここは、中世の城館があったところだが、そもそも「中世城館」とはなにか。鎌倉時代に時衆の開祖、一遍が方々を歩く姿を描いた「一遍上人絵伝」という絵巻物があるが、そのワンシーンで堀に囲まれた平地に簡素な櫓門をしつらえ、内部には板の間と畳の部屋からなる武家造りの建物が見られる絵図がある。極めて小規模な一族のみの防御施設と考えてほぼ間違いないだろうが、「城塞」ほど実戦的ではないが、居住性は高い。そのような中世城館のなかで「百名城」の中では八戸の根城、栃木県の足利氏館、越前の一乗谷館、道後温泉に隣接する湯築城などがあげられるが、その中でもこの躑躅ヶ崎館は実に興味深い。
 「信玄公」の銅像が人々を迎えては見送る甲府駅から車で真北に二キロ余り、扇状地の道を真っすぐ行く。どこかに似ていると思ったら、鎌倉の由比ガ浜あたりから若宮大路を鶴岡八幡宮に向かって北上するような感じかもしれない。距離もほぼ同じだ。街並みもかなり碁盤の目状になっており、その行きつく先が躑躅ヶ崎館である。甲斐の領主、武田信虎がここに居館を造営したのは1519年。その二年後にここで生まれ育ったのが後の武田晴信、後の信玄である。戦国の世の習いとはいえ、父親信虎は大雨や洪水、飢饉に襲われていても甲斐を平定するための戦をやめなかった。そこで悲鳴をあげた部将らとともに、息子は不本意ながらもクーデターを起こし、駿河に赴いた父親をそのまま追放してしまった。晴信21歳の時だった。

神格化される「信玄公」
  車を停めて神社の境内に入ろうとしたら、「信玄ミュージアム」で知られる甲府市武田氏館跡歴史館がある。ちなみに隣接する甲州市に位置する菩提寺の恵林寺には「信玄公宝物館」という類似施設もある。彼のことを「武田信玄」と呼び捨てする甲州の民はまれで、一般的には「信玄公」と呼ばれ、親しまれるが、公的施設である歴史観では「信玄」と銘打ち、菩提寺では「信玄公」と呼びわけるのだと改めて気づいた。彼が今なお神格化されるのは、彼以上に甲斐全体を発展させた人物がいなかったからだろう。
 例えば甲斐盆地西部を東に流れる御勅使(みだい)川の氾濫をおさえるため、信州側から南に流れる釜無川の絶壁となった岩石に向けてもう一本流路を堀って激流をぶつけることでエネルギーを分散させた。さらに「信玄堤」と呼ばれる堤防を築くことで民を洪水から守るとともにコメの生産量をあげた。また、軍用道路「棒道」を張り巡らせ、ヒトやモノや情報の流通に革命を起こした。さらには金山を開発し、甲州金を手に入れた。武田氏館である躑躅ヶ崎が、信玄を祭る「武田神社」として親しまれるのは、そうした「おらが村を豊かにしてくれた殿様」を思う民の気持ちがあってのことだ。

大正デモクラシーの時代の「信玄公」
 さて、本格的に館の内部に入ろう。外濠と内濠、そして内部の空堀からなるが、信玄時代はほぼ土塁だったはずだ。そして縄張りは正方形に近く、東西約200m、南北約190mという。信玄時代は東側が大手門だったといい、ここに信玄お得意の「丸馬出し」という、ほぼ正方形の敷地からぴょこんと半円状の突起が出ていた。これは出撃しやすく、守りやすく、城内に侵入されてもここから内部に攻撃を加えて取り返すことも可能だったという。これは座喜味城を中心とする琉球のグスクのアメーバ状の突起だけでなく、ヨーロッパの城郭、ひいては朝鮮の水原華城などにもみられる万国共通の防御兼攻撃拠点だが、日本では信玄の専売特許のように思われている。ただし今はそれがはっきりと確認できないのが残念だ。 
 そこでほとんどの参拝者と同じく、南側の堀に架かる橋を渡り、後世に積まれた石垣の間を通って神社の境内に入る。本丸に相当するところを「主郭」とよび、主殿と毘沙門堂、不動堂などがあったが、現在は武田神社の本殿とその周辺になっている。まずは参拝を済ませてから東西、そして北側の遺構を見ようとおもったが、実はここが神社となったのは意外に新しい。1919年、大正時代に信玄公生誕四百年を記念して神社となったのだという。
 実は近世において城郭内に神社を勧請することは少なくない。陸軍の施設にされたところでは靖国神社の地方版、護国神社を置くのはよくあることだが、そうした官製の神社だけではなく、例えば越後春日山城には上杉謙信を祭る春日山神社が、赤穂城には大石神社、高松玉藻城天守台には初代藩主を祭る玉藻廟など、そこの君主や功労者などを神格化することが多いが、なぜ「大正デモクラシー」の時代に君主をたたえて神格化したのか。琉球のグスクのように、目に見えない何かに守られるという思いとは異なり、「ふるさとのお城」に「おらが村の御殿様」を祭るというのは、明治時代に行き過ぎた江戸時代の幕藩体制否定へのカウンターパンチだったのだろうか。そんなことを考えながら城館の西側を目指す。

風林火山の城郭
 神社のあちらこちらに「風林火山」の旗がなびく。孫子の兵法だが、日本では風林火山といえば信玄公ということになっている。そんな孫子は兵法の極意を「戦わずして勝つ」ことと説いた。いや、彼の人生は合戦の連続だ。しかし時には土木工事によって戦うこともあった。有名なのは金山を掘削する技術を城攻めにも応用したことだ。つまり敵の城の地底にトンネルを掘り、主要な建造物そのものを物理的に沈下させるのだ。さらにその穴を利用して敵陣真っただ中に侵攻することもできる。こうしたことも含めて、「なるべく血を流さずに戦う」ことを考えていたのだ。
 それにしても西側から北側にかけては土塁と空堀が嫌になるほど攻撃的だ。現在は木々に覆われているので林の中を歩いているように思えるが、これらの木々をすべて切り倒したら、むき出しのファイティングポーズを示してくるだろうことは想像に難くない。ちなみに桝形虎口は後世のもので、信玄時代にはなかったようだ。しかしこれはやはり「中世人」信玄の時代のものであり、信長や秀吉、家康といった「近世」には不都合である。そもそもあまりに規模が小さいため、大軍をもってすれば一ひねりだろう。

人は城 人は石垣 人は敵
  「甲陽軍鑑」という軍書には、「人は城 人は石垣 人は敵 情けは味方 仇は敵なり」という信玄の名言が残されている。どんなに立派な城郭を築いたとしても、民の労働力をほしいままに使った結果、民心が離れれば一揆が起こり、敵方に内通するものも出れば、内部崩壊する。だから民をいつくしめという意味だろう。これは君主としての在り方であり、民主主義とは異なる。先ほど参拝した武田神社は民主主義が「危険思想」とされ、「民本主義」ーすなわち天皇を中心にしても、民のための政治を行えという政治思想が広がった時代に造営された。そう考えると大正デモクラシーの時代に「人は城」を唱えた信玄を神格化し、武田神社を造営したのではなかろうか。
 「立派すぎる城をつくらない」ことが、民を守り、国を栄えさせるという思いは、例えば明暦の大火で焼失した江戸城天守をあえて再建せずに江戸の庶民に救援物資を送らせた保科正之の思想にも共通する。そしてそれは国内の貧困問題や福祉問題をよそに、大型イベントや兵器購入に税金を投入する政府に反対する庶民の中に息づいている。
 その夜、ホテル1-2-3甲府・信玄温泉という源泉かけ流しのホテルに宿泊した。信玄は隠し湯を領内各地に開発し、傷ついた兵のみならず庶民の湯治にもつかわせたという。甲府の湯村温泉がその代表だが、ここもその一つかと思ったら、甲府昭和IC沿いの殺風景な郊外のビジネスホテルである。ただ弱アルカリ性の単純泉は素直に体にしみいり、泉質は実によい。温泉=信玄公、領民の健康を促進してこその繁栄という発想で、信玄の名にあやかったのだろう。
 このように五百年後まで甲州の民に愛された信玄の居館だが、死後、息子の勝頼が棟梁となると武田家は衰退していった。そして武田家滅亡の直前、1582年にこの居館から甲州北西部の韮崎(にらさき)に本部を移し、そこを「新府城」とした。

新府城=高館+吉野ヶ里?
 今回の「天守を知らない二千年」の旅は、「初の天守」とされる安土城天守が完成して三年目の1582年に造られ、天守を造営する暇もなく二か月ほどで廃城となった「幻」の新府城で締めくくりたいと思う。西に釜無川、東に塩川に挟まれたこの地は「七里岩台地」と呼ばれ、北の八ヶ岳が山体崩壊を起こして土砂が流れ出たあと、これら二本の河川が浸食してできた台地だ。釜無川のほうから見ると、高さ数十メートルの断崖絶壁で、平泉の高館によく似ている。首都圏の読者に分かりやすく言えば、上野公園東部の西郷さん横の断崖が五倍ぐらいの高さになっていると思ってもらえれば、あながち間違いではないだろう。事実上西側からの攻撃は不可能で、ここまで敵の侵入を拒む地形を、なぜもっと早く選ばなかったのかが不思議ですらある。そして吉野ヶ里で感じたのと同じように「拒まれている」思いがこみ上げ、にんまり笑ってしまった。
 その地形を巧みに利用し、東側には躑躅ヶ崎館では埋められてしまった武田家の専売特許「丸馬出し」と、その周りを三日月堀で固め、周囲には桝形虎口が二つ連なる「両袖桝形虎口」が敵を迎え撃つ。石塁はなくとも極めて実戦的な城郭だ。一方で、使用する武器が同じならここが吉野ヶ里とどちらが堅固か、分からなくもある。両方とも川に挟まれた丘陵地に空堀と虎口を巡らせている。もしかしたら吉野ヶ里のころから二千年、城郭の本質は変わっていないのではないかとも思えてくる。
 なお、一年足らずの突貫工事で鉄壁の守りを固めたこの城に1581年年末に入城した勝頼だが、勢いを得て攻めてきた信長の勢力の前ではひとたまりもなかった。結局82年3月にはできたばかりの新府城に自ら火をかけ、勝頼は逃げ延びたが、頼りにしていた家臣に裏切られて現甲州市の天目山にて4月2日に腹を切った。ちなみに信長が本能寺の変で倒れたのはその二か月後だった。日本初の天守を誇る安土城も、その直後に何者かの仕業で火をつけられ、焼失した。
 
城郭とは「文武のカクテル」
 「天守を知らない二千年」というテーマで様々な「城郭」を歩いてきたことの旅日記を並べなおしてみたが、この一連の旅を通し、「お城」=「天守」という単純なイメージではないことを改めて確認できた。と同時にかなりの城郭に同じパターンを見出すこともできてきた。
 例えば城郭の本質である「自然の地形を利用した防御の強化」という点では、吉野ヶ里、水城・大野城、元寇防塁、千早・赤阪城、座喜味城、そして新府城も共通する。また「権力の誇示」という点でいえば「四角四面の文明国」イメージでエミシを圧倒させ、または中国人に認められることを目的とした多賀城や志波城、大宰府政庁、首里城などが挙げられる。さらにそのような城をつくらないで民を大切にすることで国を守る、躑躅が崎館のようなパターンもある。
 中世が終わりを告げ、近世の幕開けとともに完成した安土城天守以来、「城」=「天守」となっていった。それは「自然の地形を利用した防御の強化」と「権力の誇示」を兼ね備えたものであった。防御の強化は武士的であり、権力の誇示は貴族的である信長がはじめ、秀吉、家康が引き継いだ近世の路線は、どうやらこの「武士的なるもの」と「貴族的なるもの」を融合させた政治体制であり、文化ではなかったか。
 戦後は猫も杓子も天守、櫓や城門などを主にコンクリートで復興していった。粗造と言ってよい建造物も少なくないが、それらはほぼ物見櫓として発達した天守を含めて「防御施設」である。城郭の持つ「武」の面であるといってもよい。それが平成になってからは丹波篠山城や熊本城、名古屋城などで本丸御殿や大書院、または首里城正殿など、「雅な文化」を体現するものが次々と木造で復元された。
 天守が出現する前の二千年、日本人にとって城郭とは「倭国大乱」の弥生時代にルーツを持つ「武」と、唐をルーツにもつ王朝文化の「文」に分かれていた。天守とはその両者を絶妙な配分で掛け合わせた「文武のカクテル」である、といえまいか。「城郭の持つ文武」の配合度合い、そしてそれが表に現れる様々な姿を楽しみながら、これからも城郭を歩き続けていこうと思う。(了)


いいなと思ったら応援しよう!