禅が分からなければブルーハーツを聞け!―「正法眼蔵」と道元の旅
禅との出逢い
私の実家は曹洞宗である。しかし私個人は母方の実家の浄土真宗の影響を強く受けた。没後の阿弥陀如来による極楽往生を信じる浄土思想と、生きている今、坐禅によって悟りを開く禅。「正信偈」をあげる真宗と、釈迦如来を本尊とし「般若心経」をあげる禅。同じ日本の佛教といえどもその内容は全く違う。
ちなみにGoogleで “Japanese Buddhism”の画像検索をすると、なぜか鎌倉大佛の姿がでてくる。高徳院阿弥陀如来像というのが正式だが、「阿弥陀如来」でありながら「坐禅」しているこの像が、英語のネイティブスピーカーたちにとって「日本佛教」の典型的イメージらしい。つまり海外では日本佛教=坐禅という図式が浮かぶようなのだ。
ちなみに私は小学一年生のころから年に数回ずつ坐禅をしていた。とはいえ別に実家でさせられていたわけではない。生まれ育った現島根県雲南市の木次(きすき)という町では、曹洞宗寺院と浄土宗寺院、そして真宗寺院が合同で月に二回「佛教日曜学校」を開いていたため、宗派を超えた佛教教育を受ける機会に恵まれたのだ。その一環としてしびれる脚をさすりながら坐禅をし、幼い声をはりあげて「般若心経」をあげていたのである。そういう意味では真宗の影響を受けつつも幼いころから禅にも触れてきたと言えよう。
吉備―桃太郎VS鬼という構造
禅にゆかりある地というと、まずは京都、次に鎌倉を思い浮かべることだろうが、それに次ぐ地というと、どこを思い浮かべられるだろうか。私の場合、日本各地を歩き回って出た結果が、「吉備」すなわち岡山県だった。ここでピンとくる方はかなり禅に詳しい方か、岡山県民だろうが、今回の旅は日本における禅に関して非常に重要な場、吉備から歩いてみたい。
「吉備」というと、古代においては朝廷の配下で山陰山陽、そして瀬戸内海航路の要衝をおさえた王国というイメージが強い。JR岡山駅を降りると出迎えてくれるのがイヌ、サル、キジを従えた桃太郎の像であるが、彼に歴史上の名称があったとすれば「吉備津彦命」、つまりあえて現代語訳するなら「ミスター吉備」である。
彼に関する伝承の地も吉備のいたるところで見られる。例えば弥生時代最大の墳丘墓とされる倉敷市の楯築(たてつき)遺跡などは、頂上に石碑のような巨石が並んでいるが、これは吉備津彦がたてこもった際に楯として使われたものと言われる。
そして例の「鬼」がたてこもったのは、ここから北西は総社市の山上にのこる圧巻なほどの巨石群で構築された「鬼ノ城」とされる。ここでは「鬼」の名は温羅(うら)といい、悪いことをするどころか、たたら製鉄などの技術を吉備の地に伝えた渡来人ということになっている。つまり、桃太郎の鬼退治伝説とは、朝廷から送られてきた吉備津彦が、現地で勢力を広げてきた渡来人、温羅を服従させるという話になっているのだ。
いわば、全国的に名高い桃太郎は勢力の強化と安定を図る「体制派」である一方で、反体制的な「鬼」とされても愚直なまでに吉備の発展に尽くした温羅のことを吉備の人々は忘れてはいないようなのだ。そしてこの「桃太郎」VS「鬼」というシンボル対立の構造は、その後の禅の発展にも影響を与えたといえそうだ。
吉備津神社と栄西
吉備津彦命を祭る神社が岡山市郊外に鎮座する「吉備津神社」である。国宝の社殿や360mにも及ぶ回廊を誇るこの神社は備中の一宮として知られてきた。1141年にこの神社の権禰宜(ごんねぎ)の子として、現吉備中央町の賀陽(かや)あたりで生まれたとされるのが、後の栄西禅師である。「かや」という地名からして、彼も先祖をたどれば「伽耶(かや)=加羅」からの渡来系なのだろう。少年時代の彼は比叡山で得度し、入宋(にっそう)して日本に臨済宗の禅を持ち帰り、京都の建仁寺を拠点として禅を広めていくことになった。
古代においては、朝廷に対してうまく立ち回った吉備津彦的な政治的センスを彼は身に着けていたように思える。そしてそれは後に京都や鎌倉において、将軍や執権、皇室などの庇護のもとで臨済宗が勢力を拡大するとともに、この国の精神文化を担っていくことになった理由でもある。やはりなにごとも先立つものはカネと権力なのだ。そのことはおいおい見ていくとして、日本の禅は、まさにこの吉備津神社の権禰宜の子がもたらした。これが日本の禅を考えるうえで、私が吉備を重要視する大きな理由である。
雪舟のふるさと、総社
一人で六点の作品が国宝指定されている日本唯一の人物がいる。明に学んで「四季山水図巻」「秋冬山水図」など、本格的な水墨画を日本に伝えた雪舟である。後に「天橋立図」のように日本の風景までをも水墨画で描いた彼は、画僧としてのイメージが強いとはいえ、原則的には禅僧である。
15世紀に現総社市で生まれ、地元の名刹宝福寺で修行した際、絵画ばかりに熱中し、参禅を怠った罰として柱に縛りつけられたが、涙を墨に、足の指を筆に、そして床を半紙代わりにネズミの絵を描いたところ、和尚さんが本物のネズミがいると勘違いしたという逸話を残している。現在も境内にはその時の様子が石像で再現されている。涙でネズミを描いたというこのトリックアート(?)のような逸話は彼の才能を誇張した話に過ぎないにしても、彼の才能が幼いころから発揮されていたことがうかがえる。
後に彼は京都五山で天龍寺に次ぐ第二位の相国寺で修行し、そこで禅とともに水墨画を身に着け、当時山陰山陽で最大の勢力を誇っていた山口の大内氏の支援を受け、明で絵を学んだ。当時、明朝で最も有名な日本人としてその名をはせた雪舟だが、権力者の支持を受けてきた相国寺で学んだり、将軍よりも権力を握っていた山口の大内に頼ったりする点など、単なるアーティストではなく、アーティストとしての活動のパトロンを探す術にもたけていたようだ。
ただ、坐禅だけが禅ではない。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、つまり一日二十四時間、目の前のことにしっかりと取り組むことが禅なのなら、彼のように絵をかくことも禅の一環だったに違いない。そしてこの発想は水墨画という禅画と、それを三次元化させた禅庭という形式で日本文化を豊かなものにしてきた。雪舟の庭は、山口市の常栄寺や、島根県益田市萬福寺・医王寺など、各地に点在する。
雪舟にとって水墨画とは庭の設計図ではなかったかと思うほど、二次元の水墨画と三次元の禅庭を自由に行き来し、禅文化をつくっていった雪舟もまた、吉備人だったのだ。
良寛の修行した円通寺
良寛さんというと子どもたちと手まりをしていたと思ったら、かくれんぼをしたまま一晩中隠れ続けたり、床下から筍が生えてきたので床板をはずしただけでなく、軒先に穴をあけようと思って火をつけたら、屋根全体に火が回ってしまったりなどという癒し系の「ボケ役」で知られる。18世紀半ばに越後出雲崎で生まれ育った良寛さんだが、実は厳格な曹洞宗の禅僧として22歳から34歳までの十数年にわたり備中の名刹、円通寺で修行していた。
この寺での修行は厳しかったことで知られ、彼は母親の死に目にも会えなかった。また、単に坐禅するだけでなく、「一日作(な)さざれば一日くらはず」という禅寺の原則のとおり、作務を非常に重要視していた。彼の周りの雲水たちは、将来親の「家業」としての寺を継ぐ者が多く、彼のように庄屋の子で参禅する者は極めて少数派だったらしい。
隣接地は円通寺公園となっているが、山道を登ると突然巨岩が視野に飛び込んできて驚く。「枯山水」などという技巧を凝らしたものではなく、自然の巨岩をふんだんに利用したそのスケールの大きさは、もし鎌倉あたりにあったなら一番の名園とうたわれていたかもしれない。この岩の上で若き日の良寛さんも修行に励んでいたに違いない。
災難からの逃れ方
ここを離れた後の彼は諸国行脚した後に越後に戻った。そして国上山(くがみやま)の五合庵で、和歌や書に親しみ、地域の人々とつかず離れずの関係を保ちながらの人生は、処世術に長けた「臨済宗的」とはいえず、修行中心の「曹洞宗的」と言えるのかもしれない。そしてそれは温暖な吉備で修行したとはいえ吉備人ではなく、日本海の荒波と風雪にさらされてきた越後人ならではの生き方だったのかもしれない。
晩年、越後で大地震があった折り、安否を問うてきた知人への返信が名言となっている。「災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候 死ぬ時節には 死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法にて候」
災難から逃れようとせず、自らが災難とぶつかり、災難と一体化せよ、というのだ。実はこれは日本における最高の哲学書としばしばいわれる道元禅師の「正法眼蔵」にある「時節因縁」という言葉そのままである。
栄西の同時代人の法然は吉備の北部、美作で渡来系秦氏の子孫である母のもとで生まれ、比叡山で修行したのちに浄土宗を開いた。そして道元と同時代人の親鸞も、師のあとを継いで死後の極楽往生を説いた。それに対して道元は、死後よりも目の前の人生を精一杯生き抜くことを説いたのだ。それから五百年後の江戸時代に生きた良寛はそれを忠実に守り、実践していた。そんな良寛を育てたのも吉備の地だったのだ。
ドブネズミにこそ佛性がある!
昭和四十年代生まれの私は、ブルーハーツ(ブルハ)世代である。特に私の高校時代の1987年から90年はブルハの全盛期だった。ブラウン管のなかを跳ね回り、シャウトしまくるブルハの躍動感。そしてバブルの時代でありながら心にぽっかりと穴の開いた若者たちの心を時には突き動かし、時には心にひりひりと、またはやさしく染みていった。そのボーカルにして多くの作詞・作曲を手掛けた甲本ヒロトも岡山市で生まれ育った吉備人である。
そして思春期に彼らの音楽を聴いて泣きながら育った我々の世代が、難解この上ないとされる道元の「正法眼蔵」を読むと、意外に分かってくることがある。彼は道元禅師の抽象的表現を、現代の若者言葉に「翻訳」しているからだ。
例えば道元禅師は釈迦牟尼の言葉を解釈していう。「一切衆生悉有佛性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)」。一般的には「一切衆生 悉有佛性」と区切り、「生きているすべてのものに等しく佛性がある」と理解される。ただ、禅師は「一切衆生=悉有=佛性」と訳し、「悉有」とは全宇宙のことと説いた。つまり、「我々一人ひとりが宇宙そのもの、佛性そのものなのだ」と言うのである。一方、ブルハには
「ドブネズミみたいに美しくなりたい 写真には写らない美しさがあるから」(「リンダリンダ」)という歌がある。これは「ドブネズミだって佛性を備えている」と解釈できそうだが、道元禅師の本意は、「ドブネズミは宇宙そのもの、佛性そのもの」というのが釈迦牟尼の教えであり、それを継承するのが禅だというのだ。私には釈迦牟尼が、または道元がヒロトの口を借りて「ドブネズミ=一切衆生」、「写真には写らない美しさ=悉有=佛性」と言わせているように思えてくる。
あなたが生きている今日はどんなに意味があるだろう!
また、禅師の教えの「典座教訓」にこのようなものがある。宋に留学中の禅師は典座(てんぞ)という食事係の老僧が暑い中帽子もかぶらず食事の用意をするのを見て、「ご高齢なのだから、暑さが収まってから準備するか、若者にやらせればよいのでは?」と進言した。すると老僧は「他は吾にあらず。更にいずれの時をか待たん。(人にやらせたらわしの修行にはならん。それに暑さが収まるって、いつのことになるんだ?やるなら今しかない。)」と答えた。そういわれた禅師は、一般的に大切とされる将来のある時よりも、どのような状況であれ目の前のことに真剣に取り組むことの大切さを痛感したという。
ちなみにブルハ的解釈でいうと、ヒロト(ボーカル)の盟友マーシーの作詞・作曲になるが、「TRAIN-TRAIN」という曲にはこのような一節がある。
「世界中にさだめられた どんな記念日なんかより
あなたが生きている今日は どんなにすばらしいだろう
世界中に建てられてる どんな記念碑なんかより
あなたが生きている今日は どんなに意味があるだろう」
たとえ明日が○○記念日だったとしても、○○何周年よりも、自分がここにいる今日のこの瞬間こそ、なによりも意味がある、ということを、まるで釈迦牟尼や道元禅師の「いたこ」となって歌い、飛び跳ねさせ、熱狂の渦にまきこんだブルーハーツのヒロトも、メジャーデビュー当時は堂々と岡山弁を話す吉備人だった。平安末期の栄西禅師から室町時代の雪舟、江戸時代の良寛、そして20世紀末のヒロトまで、「隔世遺伝的」に禅僧を輩出してきた吉備が、京都、鎌倉に次ぐ禅の都というのが誇張でないことがご理解いただけたろうか。
曹源寺のアメリカの禅僧
ところで岡山市内には曹源寺という知る人ぞ知る禅寺があるが、そこで修行する人はほとんど欧米人であった。「ガイジンが坐禅?どうせ興味本位だろう」などと考えるなかれ。そこで出会ったアメリカの禅僧は、「十二月初旬には蠟八(ろうはつ)をやった」といっていた。これは十二月八日に釈尊が悟りを開いたことにあやかって、一週間不眠不休で坐禅をし続ける荒行である。ここは素晴らしい庭や建造物もあるが、京都や鎌倉と異なり観光地ではない。修行の場だ。そして世界から参禅者を引き寄せる魅力がこの地にはある。吉備を皮切りに、「正法眼蔵」をブルハに翻訳してもらいつつ、旅を続けていきたい。
比叡山延暦寺から建仁寺へ
日本の禅の都といえば京都をおいてほかにない。ただ俗に「禅宗」と呼ばれる臨済宗、曹洞宗、黄檗宗のうち、「宗祖」に相当する人物が京都出身なのは曹洞宗の道元のみである。その意味で、道元はまさに京都の禅の第一世代といえよう。
彼の父は内大臣の久我(こが)氏、母は関白藤原基房の娘とされる。佛教に「血筋」などは最も似つかわしくない概念だが、この俗世間の尺度でいうなら道元ほど「血筋のよい」宗祖はいない。とはいえ幼くして両親を亡くし、世に無常を感じたのか佛門に入るべく13歳で比叡山延暦寺の門をたたき、14歳で得度をした。延暦寺は東塔(とうどう)、西塔(さいどう)、横川(よかわ)の三つの地区に分かれるが、そのうちふもとから最も近い横川の元三大師堂付近に「承陽大師之塔」という石碑がある。これが道元得度の記念碑である。
比叡山延暦寺というと、天台宗の総本山として知られるが、実は浄土宗を開いた法然、その跡をついだ親鸞、さらに後の曹洞禅を広める道元もここで修行して巣立っていった。その意味で比叡山延暦寺は様々な個性を持つ鎌倉新佛教発祥の地でもあったのだ。
しかしここで一、二年修行するうち、求めているものはここにはないことに道元少年は気づいた。そしてある時山を下り、栄西禅師によって建立された建仁寺を訪れ、当時の「現代思想」ともいえる禅に出会い、彼は衝撃を受けた。延暦寺ではありえないほどの厳しい修行に、彼は突き動かされ、ついに数年後、比叡山に別れを告げ、禅に打ち込むことになったのだ。彼が栄西の直接の弟子かどうかは定かではないが、少なくとも栄西の弟子、妙全に学んだという意味で孫弟子とはいえるだろう。
「修証一等」-汽車だから走る。悟っているから修行する。
23歳の時に師の妙全とともに入宋することになるが、彼には「禅の本場で修行する」などという曖昧な目的ではなく、より具体的な目的があった。それは比叡山時代から教えられてきた「本来本法性、 天然自性身」、すなわち「人間には佛性が備わっているので、そのままでいても悟っているのである。」という教えが真理ならば、なぜ人は修行をしなければならないか、という疑問の答を見つけるためである。
その謎が解明するときが来た。彼はそれを「修証一等(しゅしょういっとう)」、すなわち「修行=さとり」という公式にまとめている。修行の結果、悟るのではない。だれでもすでに悟った状態にある。しかしだからといって修行をやめてしまったら、元の木阿弥で迷ってしまう。だから修行することがすなわち悟っていることの証明だというのだ。
たとえば私は「通訳案内士」を養成してきて、合格者を何百人と輩出してきたが、合格後も語学や日本文化、日本社会、観光方面等の勉強を意識的に継続する人は半分もいないという事実に気づいている。合格したらそれで終わり、という人が大半なのだ。そこまででなくとも「とりあえず一休み」のつもりで学びを怠ったままいつまでも再開をしないまま何年も経ってしまう人も少なくない。しかし本当の通訳案内士はみな知っている。勉強して合格したから通訳案内士なのではない。通訳案内士だから合格、不合格など関係なくひたすらに学び続けるのである。これが道元禅師のいう「修証一等」なのだろう。そこで我らがブルーハーツはこう叫ぶ。
だから僕は歌うんだよ 精いっぱいでかい声で
TRAIN-TRAIN走って行け TRAIN-TRAINどこまでも (「TRAIN TRAIN」)
汽車は走ることで自分が汽車であることを証明できる。同じように人間はそもそも悟っているので、どこまでも修行によって自分の悟りを証明しなければならないのだ。
建仁寺
悟ったとはいえ、一切が「空」、すなわち目に見える事象には実態がないということを悟った道元は、「空手還郷」という言葉そのまま、何も持たずに帰朝し、学び舎の建仁寺に入った。しかし栄西は比叡山延暦寺からすると「分家」にすぎない建仁寺が、そのルーツたる天台密教を捨てて純粋な禅を展開することを快く思わないこともまた知っていた。そこで禅+天台宗+密教の道場という看板を掲げることで、禅を広める隠れ蓑にしたのだ。権力者に対する配慮を忘れない臨済禅らしい。とはいえ、権力者に近づくことそのものが目的ではなく、権力者を利用しつつ禅を広めていくという戦略でもあったろう。
大伽藍に多くの巨大な建造物が建ち並ぶ現在の建仁寺に栄西や道元の跡を求めてもお門違いかもしれない。というのもここに往時の建造物は全くなく、桃山時代や江戸時代、そして近代建築がほとんどだからだ。とはいえ禅というのは建物そのものではなく、修行する空間が残されているほうが、意味があるというべきだろう。こちらでも参禅が体験でき、観光客に交じって参禅を求める世界中の老若男女が集まっている。
なれあいは好きじゃないから―深草で執筆しはじめた「正法眼蔵」
そこに戻ってきた道元は、宋で会得した純粋な禅のみを、古巣の建仁寺でも広げたいと思った。しかし比叡山延暦寺を敵に回すことの無謀さを悟ったためか、京都東山の四条、五条の間に位置する、つまり「都心」に位置するこの禅の中心から、当時の感覚でいえば「郊外」ともいえる洛南深草に安養院という庵を造り、出家、在家に関わらず禅を教えた。
現在京阪本線墨染駅付近の住宅街に欣浄寺(ごんじょうじ)という寺院があるが、そのあたりで禅を広めたという。現在は鉄筋コンクリート造りの本堂に江戸時代の丈六(5メートル弱)の座像が迎えてくれるとはいえ、建仁寺とは比べることのできぬほどの質素さである。権力者を利用し、うまく立ち回った臨済宗と、「インディーズ」でもよいので修行の道を歩む曹洞宗の違いなのかもしれない。臨済宗のもつ「世間知」を「なれあい」と見たのかもしれない。こうした道元禅師の心境を、ブルハはこう歌っている。
「なれあいは好きじゃないから 誤解されてもしょうがない」(「終わらない歌))彼のライフワークである「正法眼蔵」の執筆は、ここから始まった。そもそも「正法眼蔵」とはどんな意味か。「正法(しょうぼう)」とは釈迦牟尼の正しい教え、真理である。しかしそれを理解するには深い洞察力に基づく「智慧」が必要である。その智慧の蔵のことを「眼蔵」と名付けたのである。
いつまでたっても変わらない そんなものは「今」だけ―「現成公案」
そしてこの地ではその序章「現成(げんじょう)公案」という在家修行者向けの文章を書き残している。「現成」とは目の前に存在するものが宇宙の全て、という意味である。
ちなみに我々の多くは時間と言うのは過去から現在、現在から未来に流れると考える。例えば今が夏なら、最近まで春だったのが、今、夏になり、そしてこれから秋になると考える。しかし道元禅師はまず「無」から秋が生まれ、それが今、「夏」として我々の前に現れ、ついさっきまで「春」だと思っていた者は遠い過去になっていると考えるのだ。さらに、その「春」も「無」に帰っていく。時間というのはこうして永遠に過ぎていくだけで、目の前にあるのはいつも「今」だけなのだ。
ブルハはこう叫ぶ。
永遠なのか本当か 時の流れは続くのか
いつまでたっても変わらない そんなものあるだろうか (「情熱の薔薇」)
道元禅師はいつまでたっても変わらない永遠の時の流れは未来から過去に来る「今」だけという。しかしだからといって決して人生の「傍観者」としてぼーっと過ごしていてよいということを言っているのではない。「現成」、つまり今の目の前にあるものに真剣に取り組めというのだ。
人生は夢なんかじゃない 僕たちははっきりと生きてるんだ(夢中説無)
さらに道元は「夢中説夢(むちゅうせつむ)」という言葉を残している。一般的には「夢の中で夢のようなことをいう」というようにネガティブにとられがちだが、彼は夢であっても目の前にあればそれに向かって真剣勝負で取り組め、と解釈する。そしてブルハもこう歌っている。
「幻なんかじゃない 人生は夢なんかじゃない 僕たちははっきりと生きてるんだ」
(「夕暮れ」)
ところで延暦寺出身の僧が天台宗を無視して禅のみを教えたことは比叡山の反発を生み、僧兵の妨害、または破却に遭い、つてをたどって向かったのが、越前の山奥の波多野氏であった。
永平寺へ
曹洞宗の大本山、永平寺は道元禅師が開いたことになっているが、正しくは道元禅師が開いたのは今の永平寺よりもさらに奥まったところにあった大佛寺である。ついでに言うならば古式ゆかしくみえる現在の永平寺も、勅使門が江戸時代の建築であることを除くと、その他のほとんどが明治以降に建てられた「近代建築」である。とはいえ、ここの価値は建物にあるのではなく、今なお全世界から参禅する人々を寄せ付ける引力そのものであることはいうまでもない。禅に傾倒したスティーブ・ジョブズも、ここに来て坐ることを念願としたまま果たせなかったという。
そもそもなぜ京都から遠い越前の山奥に拠点を移したのか。京都・深草の拠点を比叡山から攻撃され、在家の弟子、波多野義重の本領がここだったからだというのが一般的な理由であろうが、その他に「入宋求法(にっそうぐほう)」の際の師、寧波天童寺の如浄(にょじょう)禅師から授かった次の言葉の影響があったことだろう。
「城邑聚落(じょうゆうしゅうらく)に住すること莫(なか)れ。国王大臣に近づくこと莫れ。只、深山幽谷に居して、一箇半箇を接得し、吾宗をして断絶に至らしめること勿れ。(都会の塵にそまるな。権力者には近づくな。少数精鋭でいいので山奥で修行し、曹洞禅の灯を絶やさぬように。)」
現に、道元は48歳の時に鎌倉に下り、半年ほど時の執権北条時頼に禅を教えていたこともある。禅に関心が高く、後には蘭渓道隆を招いて建長寺を開き、自らも出家することになる時頼であるなら、その気になれば道元も鎌倉で寺を開くこともできたかもしれない。実際にそのオファーもあった。しかし師である如浄の言葉が引っかかったからか、彼は越前に帰っていった。そして次のような言葉(漢文)を残している。
「今日帰山 雲喜気 愛山之愛 甚於初」(今日永平寺に戻ったが、雲も山も美しい。こんなに良いところだったとは離れて初めて気づいた。)
雪の永平寺
私が初めて永平寺を訪れたのは雪のちらつく師走のある日であった。天を衝くほどの太い杉林が雪化粧をしていた。一部の観光地化された京都の禅寺とは一線を引くかのように、孤高を保つ永平寺の姿は厳かですらあった。山の斜面をひな壇状にならし、これにそって七堂伽藍がみな回廊で連結されているが、壁も廊下もきれいに磨かれ、つやを放っている。
入口に拝観のルールが明記されている。心身を整え、左側通行を守ること。飲酒後の参拝はひかえること。雲水に話しかけたり、写真を撮ったりしないこと。携帯電話はマナーモードにするかオフにしておくこと、などである。ここは道元禅師が修行の場として選ばれた場であり、観光気分で来られては困るという寺院側の意志が伝わってくる。
佛殿には本尊として釈迦如来が安置されているが、よく見ると両側に過去を表す阿弥陀如来と未来を表す弥勒菩薩も置かれており、三尊像となっている。実は曹洞宗は阿弥陀如来のみを拝む「一神教的」な浄土真宗とは異なり、佛像に対するこだわりは少ない。何かの縁があって佛像がその寺にあるわけだから、それを無下に排斥するようなことはしないのだ。寺によっては釈迦如来以外の諸佛が祭られていることもある。
冬の永平寺の冷たく張り詰めた空気を鼻孔に感じながら、道元禅師が求めていたものに気づいた。黒潮あらう冬でも温暖な鎌倉の気候に比べると、日本海の向こうからやってくる雪に覆われるここの空気はいかにも厳しい。しかしその厳しさこそ禅師の求めていたものだったのだろう。
はちきれそうだ とび出しそうだ 生きているのが素晴らしすぎる
禅師の辞世の歌として知られているのが次のものである。
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり
宋の禅を日本の風土に根付かせようと模索していた禅師は、春夏秋冬それぞれの自然そのものに佛性を見いだした。そしてこの歌では春の花、夏のほととぎす、秋の月まではそのまま楽しめる自然ではあるが、越前の山奥に降り積もる冬の雪までをもいとおしく思うのも、そこに佛性を見出したからだろう。冬の雪の下にも確実に春を待つ生命の息吹が今か今かと待ちかねているからか。ブルハならこの雪の下の生命力をこのように歌う。
「はちきれそうだ とび出しそうだ 生きているのが素晴らしすぎる」(「キスしてほしい」)
寒いからといって忌み嫌わず、自然をそのまま受け入れて愛でるという心の持ちようこそ彼の求める禅の精神だったのだろう。
ところで京都や鎌倉の臨済宗の禅寺にはつきものの庭園が永平寺には見当たらない。自然そのものの中に身を置くから、人工的な庭園をあえて作らなかったのか、それとも「只管打坐(何はともあれ坐禅!)」という道元禅師の教えにより、庭を造るという発想が曹洞宗にはなかったのかは定かではないが、日本の中世の庭園文化を担ったのは、道元禅師の遷化(せんげ=亡くなること)から二十年ほどしてからこの世に生を受けた夢窓疎石をはじめとする臨済宗の「石立て僧」と呼ばれる「禅僧兼庭師」が現れてからである。
そこで旅の後半は、禅の精神を三次元で表現するようになった室町時代の京都を歩いてみたい。
西芳寺(苔寺)-あの世の穢土と浄土
日本各地に点在する禅宗庭園のほとんどは栄西を宗祖とする臨済宗のもので、道元を宗祖とする曹洞宗のものは少数派である。しかし道元が釈迦牟尼の教えを忠実に伝えるべく著した「正法眼蔵」の言葉を立体的に体現した庭園は、曹洞宗、臨済宗関係なく造られている。これら禅宗庭園の第一号といえるものが、庭園史の革命児、夢窓疎石による京都の西芳寺だ。
道元が遷化(せんげ)してから二十年ほどして伊勢国に生まれた彼は、甲斐で育ち、佛門をくぐり、後に建仁寺で修行した。後に鎌倉の建長寺や円覚寺でも修行をしたのち、諸国行脚を始めた。そして鎌倉幕府滅亡直前の1325年、後醍醐天皇に請われて南禅寺の住持となった。権力者とのつながりも大切にする僧であったことが分かる。
その後、南北朝時代となり、天皇が崩御した1339年、西芳寺の住持となったのが夢窓疎石だった。彼がここに来るはるか以前、この一帯には古墳があったというが、奈良時代に行基が寺院を建てたのが西芳寺のルーツとされる。京都盆地でも西側に位置するこの一帯は、まさに「西方極楽浄土」を思わせる地だったのかもしれない。後に今の境内の高地は「穢土寺」、低地は「西方寺」と呼ばれていたのを一つにしたのが夢窓疎石の時代だったらしい。それを継承してか、ここの庭園は上下二段構成となっている。
オーバーツーリズム対策発祥の地(?)
この寺は、京都の名刹としては珍しく、通常は門を閉じており、往復はがきで予約した人しか入れない。というのも1960年代から70年代にかけて、多数の修学旅行生などに踏み荒らされたことがあったからで、苔を守るための苦渋の決断だったのだろう。1977年以来、往復はがきのみ、そして海外の観光客でも返信用封筒を入れて送った人のみ参拝できるというシステムを作った。当時からすでにオーバーツーリズム対策をしていたのだ。
往復はがきによる予約をしただけで庭が拝観できるのではない。漢字が分からない訪日客でも、ここではまず筆で写経をしなければならない。寺にとって庭とは本質ではない。本質は教えにあり、それにふれる手段として写経があるのだろう。写経を終えてようやく天下の名園にお目見えできる。意図してかいなかは定かではないが、このような「じらされ方」は否が応でも庭に対する期待を高めてくれる。
私がこの寺を初めて訪れたのは、夏の終わりの雨の日だった。写経を終えた方丈から出ると、下りのなだらかな石段があらわれた。石段を一歩一歩下りるほどに、視野のすべてが水の滴る新緑と苔により、緑色の薄もやに包みこまれているような錯覚を覚えた。実はこの石段は夢窓疎石一流のトリックで、方丈のあった場所を「この世」とすると、石段を下りてからの世界は「あの世」であることを無言のうちに伝えるための装置なのだ。
極楽浄土とはコンセプトのことなる庭
今でこそ「苔寺」として知られている西芳寺だが、夢窓疎石の時代、この庭はそれほど苔に覆われていたわけではなく、下段は池泉回遊式庭園、上段の一部は枯山水となっていた。が、彼の死後、百年以上経って勃発した応仁の乱でこの寺も荒れはてた。そして一段落ついてから庭をみると、庭全体にいい具合に緑のベルベットのような苔で覆われており、そのままの状態を楽しむことになったという。つまり「苔寺」というのは偶然の産物だったのだ。その後、水害で庭が水没したこともあったが、復興するときは苔庭に戻し、現在に至る。
鎌倉時代後期に生まれ育った夢窓疎石にとって、庭のスタイルとしてあったのは平等院鳳凰堂のような池の向こうに極楽浄土を投影させる浄土式庭園だったに違いない。その名残か、石段を下ったところにある池泉回遊式庭園は、元「西方寺」である。西方=西方極楽浄土を意味する。彼のユニークなのは、ここを歩くことで極楽浄土に往生するような体験をするのではなく、生の世界と死の世界について深く考えるためにこの庭を逍遥することを目的としたのだ。
平安時代、飢餓になるたびに食うや食わずの人々は生きるためにぶざまなこともしなければならなかったろう。そして死が訪れても墓も作られず野ざらしになっても顧みられなかった人々がたくさんいたに違いない。
「生きているっていうことは カッコわるいかもしれない
死んでしまうということは とってもみじめなものだろう」(「チェインギャング」)
ブルハのバラードの中のこの言葉は、生死に直面しても、いかんともしがたい平安時代の人々の心の叫びそのものだ。そのような時代背景をもつ平安時代の浄土式庭園が、辛い浮世からの逃避的側面があったのに対し、南北朝時代の夢窓疎石が目指した庭は、生を尊び、死を忌むのではなく、生死とはなにか、それを乗り越えるにはどうすればいいのか、という根本的なことに取り組みつつ、歩いて修行をする場だったのだ。
神様にワイロを贈り 天国へのパスポートを ねだるなんて本気なのか?
死後、我々はどこに行くのか、というのはみなが気になってしょうがないことだろう。だから釈迦牟尼の教えが正しく伝わらなくなるために天変地異に襲われるという「末法思想」の広まった平安時代後期には、人々は死の恐怖に恐れおののいた。だから没後に阿弥陀佛が極楽に往生させてくれる「浄土思想」が人々の心をつかんだのだ。生きているのはどんなにつらくても、死後の明るい世界を信じることで今を耐え忍ぼうという気持ちはよくわかる。
特に貴族たちは、死後の極楽浄土を三次元の世界につくり、楽しむことに余念がなかった。宇治の平等院鳳凰堂や、それを模した平泉の中尊寺や毛越寺(もうつうじ)に無量光院、時代は下るが鹿苑寺舎利殿(金閣)などもその例だ。西方極楽浄土に憧れた彼らは地上にこのようなものを作ることで、極楽に近づこうとしていたのだろう。しかし彼らの足元には、「極楽建設」に駆り出されても決して救われることのない民衆たちの怨嗟(えんさ)の声が響いていたに違いない。
「神様にワイロを贈り 天国へのパスポートを ねだるなんて本気なのか 」(「青空」)
ブルハの歌ったこのような気持ちを、道元禅師も感じていたに違いない。そして彼は末法思想を信じなかった。「正法(釈迦牟尼の正しい教え)」が伝わらないから「末法」になる。だからといって死後の極楽に逃げるな。正しい釈迦牟尼の教えを伝え続けることこそが「末法」対策の根本ではないか。そこで「正法眼蔵」を書きあらわし、坐禅に取り組んだのだ。彼の基本姿勢は、「目の前の課題にきちんと取り組むこと」であった。
いやらしさも汚らしさも むき出しにして走っていく
「正法眼蔵」の中に次の一文がある。
「生死の中に佛あれば生死なし。又云く、生死の中に佛なければ生死にまどはず」(そもそも「生だ、死だ」と迷い悩みつづけるのが人生だと悟ってさえいれば、迷うことはない。また、迷っているくせに悟ったふりなどしなければ、そもそも迷ったりはしない。)
ここでは「生死(しょうじ)」を単に死ぬこと、生きることではなく、「生だ、死だ、といって迷い悩む」と意訳してみた。禅では生と死を対立概念としてとらえず、セットで見ているからだ。そして「佛」を、「生死を悩み苦しむなんて当たり前でしょ」と悟ることしてみた。「生きること、死ぬことを含めてみな迷い、悩むのが人生だということを前提に生きよ」というのだ。
浄土思想の世界がこの世の延長にあの世をみるのだとすると、禅では生死ワンセット。死後の極楽浄土よりも「今、ここですべきことに取り組みこと」を重視する。
薄緑色のベールに囲まれた秋雨したたる西芳寺の園路を歩きながら、ここは生の世界なのか、死の世界なのか考えつつ歩いているうちに、緑のベルベットのような苔の空間の最後の小高い丘にたどりついた。昔「穢土寺」とされていたあたりらしい。夢窓疎石が坐禅したという、上が平らになった岩もある。
丘の上のお堂「指東庵」から左折して出口に向かう人が多い中、右側に向かう人は、もしかしたら庭マニアかもしれない。ここにこそ現存する最古の枯山水の滝組があるからだ。大きな岩がごろごろと音を立ててこちらに向かって転がってくるかのような、見る人を圧倒させる写実性に驚きを隠せない。「生きている!」という実感がわく。ここは「穢土」つまり地獄のはずなのだが、先ほどまでの苔に包まれた「西方極楽浄土」よりも生き生きしているのだ。
ようやく気付いてきた。夢窓疎石も上下二段構成のこの空間を、下段=極楽浄土、上段=地獄穢土などといった単純な対立的解釈で設計したのではなさそうだ。ここでやはり突然ブルハが耳と心に響いてきた。
「ここは天国じゃないんだ かといって地獄でもない
いい奴ばかりじゃないけど 悪い奴ばかりでもない
いやらしさも汚らしさも むき出しにして走っていく」 (「Train-Train」)
地獄であろうが極楽であろうが、そんなものとりあえずおいといて、目の前の今を生きよ、という叫びが、この庭のもつ本質なのだ。
坂を下ると本堂に戻った。ようやく「この世」に戻った心地がした。小一時間ほどの「あの世」への小旅行だったが、この世でもあの世でも関係なく目の前の物事にしっかりと取り組めという夢窓疎石の、道元の、釈迦牟尼の、そしてそれを分かりやすく歌って伝えてくれたブルハのメッセージを抱きつつ、山門を出た。
天龍寺の達磨大師と大乗佛教―運転手さん そのバスに 僕も乗っけてくれないか
日本庭園史上の革命児、夢窓疎石の集大成は、西芳寺か天龍寺かで意見が分かれることだろう。双方とも日本最古の石組みがそのまま残ることで知られる。境内に入るとまず巨大な三角形の庫裏(くり)が出迎えてくれる。そしてその玄関には巨大なついたてがあり、鮮やかなまでに真っ赤な達磨大師が描かれている。「よう来たのう」と言わんばかりだ。庭園マニアでありながら、私がこの至高の名園に来てまず心奪われるのが達磨大師のついたてというのも我ながら意外だ。
ちなみに「ダルマさん」というと起き上がりこぼし、というのは日本だけの常識で、中国では禅宗の開祖という歴史的人物として知られる。なぜこの寺に達磨大師なのかを考える前に、佛教の流れを見ていこう。
釈尊入滅後、教団をまとめた一番弟子の大迦葉(だいかしょう)から数えて二十八代目にあたるのが達磨大師であるが、その間インドではすでに佛教界の分裂が起こっていた。その主流は徹底した修行により、悟りを開くことで解脱すべきだという「上座部佛教」であったが、それに反旗を翻したのが後の中国、朝鮮、日本の佛教となる「大乗佛教」である。
大乗佛教の基本理念は、「一切衆生 悉有佛性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう」、すなわちどんな人にも佛性が備わっているという立場である。そこで教義上の論点が明確になった。上座部佛教のいうように「修行した者だけが解脱できる」というのであれば、衆生は救われないではないか、という点だ。ここでいう「大乗」とは読んで字のごとく「大きな乗り物」である。自ら悟りを開いた者が、まだ無明の中をさまよっている者を救うために、大きな乗り物を運転して救わねばならないというのが「大乗」にこめられた意味なのだ。
「運転手さん そのバスに 僕も乗っけてくれないか 行き先ならどこでもいい」(「青空」)
とブルハは歌うが、この「僕」を救ってくれるバスこそ大乗であり、人々を救うために修行するのが大乗佛教なのだ。
時空を超えた「ダルマ(法)」のリレー
「自利利他」という禅語がある。自分が解脱して、他者をも幸せにするという意味だが、そのような大乗佛教をインドから中国の嵩山少林寺に伝え、釈尊にならって「面壁九年」、すなわち九年間の坐禅の結果解脱したのが達磨大師である。
ちなみに「ダルマ」とはサンスクリット語で「法」、すなわち釈尊の説いた大宇宙のメカニズムをいう。そしてそれらは次の三つに分かれる。
・永遠に続くものなどないという「諸行無常」
・この世の出来事は全てお互い関連性をもって生まれてくるのであって、ぶつ切りになっているのではないという「諸法無我」
・この二つの道理に心から気づけば心安らかになるという「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」
ちなみに曹洞宗の正式な数珠には輪が通っているが、それも「ダルマ」と呼ぶ。さらにいうならばインドの国旗の中央にある糸車のような輪を「法輪」と呼び、これもダルマを表す。
「ダルマさん」というと、なにやら縁起の良い、親しみのわく存在ではあるが、天龍寺で我々を出迎えてくれる達磨大師が釈尊の教えを中国に伝えたのは西暦520年。そしてその約650年後に栄西が入宋するまで、その法灯が消えなかったため、禅は日本に伝わり、これまで精神文化となってきたのだ。
インドから中国経由で日本まで数万キロの距離と2500年の時空を超えて行われた「ダルマ」というメカニズムのリレーの結果が、「達磨大師」の姿を借りて今目の前にあるというこの幸いはたとえようがない。そのありがたさをかみしめつつ、いよいよ庭を眺めてみよう。
怨親平等―それぞれの痛みを抱いたまま 僕等必死でわかりあおうとしてた
この庭は夢窓疎石が後醍醐天皇の菩提を弔うため、時の将軍にして後醍醐天皇を南朝吉野に追いやった足利尊氏に何度も願い出て完成させたものだ。世俗的な関係はともかく、ダルマ(真理のメカニズム)のもとでは夢窓疎石にとって後醍醐天皇も足利尊氏も禅を教えた弟子である。弟子同士の争いほど、師として情けないものはない。師の教えが伝わっていないことの証明だからだ。そして南北朝時代を通して京都は焦土と化しており、飢えや疾病、戦死などにより町中が死屍累々だった。
怨みつらみを越えてその霊を弔うという智慧に関して、道元はこのようにつづっている。
「しかあれば、 怨親ひとしく利すべし、 自他おなじく利するなり。もしこのこゝろをうれば、草木風水にも利行のおのれづから不退不転なる道理、まさに利行せらるゝなり。(敵味方区別せず与えよ。自分と他人の区別をつけずに与えるのだ。そこまでの境地に立てれば草も木も、風も水も、我々人間をいちいち区別せずに、いつまでも与えてくれていることに気づくだろう。草でも木でも、喜んで与え続けているではないか。)」
つまりここでも「自利利他」の発想が見られる。大乗佛教、特に禅では、個人の幸せを祈ることはない。世界全体が幸せであってこそ、巡り巡って自分も幸せになるという「諸法無我」のメカニズムがそこに通っているからだ。
それにしても足利尊氏と後醍醐天皇は、あの世で互いを分かり合おうとしていたのだろうか。また、「自利利他」の道理が分かっているのだろうか。ブルハならこう歌うだろう。
それぞれの痛みを抱いたまま 僕等必死でわかりあおうとしてた 歯軋りをしながら (「TOO MUCH PAIN」)
竜門の鯉魚石―僕等は負けるために 生まれてきたわけじゃない
方丈の庭に対面する。広い。方丈は東に位置する。そしてみなが凝視するのが眼下の曹源池の向こう、すなわち西側だ。浄土式庭園ならば向こうに極楽浄土を建設するだろうが、ここは禅寺なので、池の向こうに見えるのは龍門石という石組みである。昔黄河の龍門という滝を鯉が登れば龍になるという伝説があった。無名のものが有名になるチャンスの場を「○○の登竜門」というが、その語源となった龍門を岩であらわしたのがここなのだ。
とはいえ近寄ることはできず、数十メートルむこうの石組みを凝視しているうちに、お目当ての石が見つかった。「鯉魚(りぎょ)石」である。激流に逆らって、全身の力を振り絞って登ろうとする鯉をイメージして、垂直な流れに多少逆らうように角度を変えた石がそれである。これを見つけるたびに元気づけられる。禅寺の庭というと、静的な美しさをイメージするかもしれないが、この龍門と鯉魚石は極めて動的だ。またしてもブルハの歌が響いてくる。
「打ちのめされる前に 僕等打ちのめしてやろう 未来は僕等の手の中!! 」
(「未来は僕等の手の中」)
とてつもなく大きな目の前の滝に必死で挑戦していくその姿は、枯れた老僧の姿ではない。
「僕等は泣くために 生まれてきたわけじゃないよ
僕等は負けるために 生まれてきたわけじゃないよ」 (「未来は僕等の手の中」)
禅は生きている。ここに生きている。数十メートル離れたところからは凝視しなければ分からないほど目立たないが、自分の置かれた環境に不平も言わずぶつかっている。念佛を唱えて来世の極楽往生を祈っている場合ではない。禅は目の前にぶつかるのがすべてなのだ。そしてそれを伝えるために釈尊から大迦葉に、達磨大師に、栄西に、道元に、夢窓疎石に伝えられて、その心がブルハによって「現代語訳」されて私のもとに届いた。これが宇宙の全てがつながっているという「縁起」というものなのだろう。
魚と語学
大海原か大宇宙を表すであろう池には本物の鯉が泳いでいるのが見える。道元禅師は「正法眼蔵」のなかでしばしば次のような魚と水を例に語る。
「うを〔魚〕水をゆくに、ゆけども水のきは〔際〕なく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。(魚は泳げども泳げども海はどこまでも続くが、海から離れない。鳥は飛べども飛べども空はどこまでも続くが、空から離れない。いずれも究極まで行こうとするのではく、その都度必要なだけ進むにすぎない。)」
これを逆に言えば、何事も究極を目指すのではなく、自分の目の前で必要なだけできれば十分という意味らしい。そしてその繰り返しによって究極のレベルまで少しずつ近づくのだ。あの魚だって始めから泳げたわけではなく、水平線の向こうまで泳げるわけではないが、この池では立派に泳げている。
例えば私は語学をずっとやってきたが、生真面目な日本人にありがちなのは「ネイティブ並みにペラペラになるまで話さずに独学する」という人だ。場数を踏まずに完璧になるのは非現実的な高望みなのであり、見切り発車でいいので、今の自分にできるだけのことを必死に取り組んだほうが現実的だ。そのうちレベルが上がっていくだろうということは経験上分かる。
山門を出てから気づいた。これまで何度もここに来ておりながら、天龍寺の本尊がどんなだったか、全く記憶にない。ここだけではない。奈良の名刹と比べると京都の禅寺は佛像の印象が低く、庭のほうが存在感がある。それでいいのだ。京都の禅寺の本尊は庭なのだ。そしてその庭石や水や魚などから生きる意味を教えられたとすれば、釈尊も喜んでおいでだろう。
大徳寺大仙院の舟石
現在、大徳寺に行く観光客の多くが大仙院の枯山水を見ることだろう。庭園史上極めて重要なこの庭は、まるで宋や元の水墨画を3Dプリンターで再現したかのように写実的な庭である。遠くの山々の間から水が流れおち、その水が石橋をくぐってこちらに向かってくる。水の流れは渡り廊下の向こうにも続くが、そこには舟石という、黒電話の受話器を上向きにしたような舟の形をした岩がある。つまり、ここからどこかー悟りの世界か?-に、向かっていくという意味なのだろう。非常にわかりやすい庭だ。
しかし「正法眼蔵」に出てくる「舟」はある象徴的な意味をもっている。
「人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすゝむをしるがごとく、身心を乱想して万法を肯するには、 自心自性常住なるかとあやまる。(例えば船に乗っていて岸辺を見たら、岸が動いているように見える。しかし船べりに視点を移せば、やはり船のほうが進んでいることがわかる。あれこれ頭を使いすぎると、さっきの岸辺なんてもうなくなったのに、まだあるのかと錯覚してしまう。世の中の目に映るものがあっても、その実態はないのだ。)」
改めて舟石を見直すと、確かにリアルな舟の形だが、そこには「舟石」などと人間が勝手に呼んでいるだけで、実際は舟なんかじゃない、という意味が込められているかのような気がしてくる。
元祖ロックンローラー、一休禅師
現在約1600あるという京都の寺院の中でも、反骨の精神をにおわすのが、いくつもの塔頭を従えた大徳寺である。ここは1330年代、建武の親政の際に後醍醐天皇から京都五山の頂点に位置づけられたのも束の間、足利氏が実権を握ると五山からはずされた。大陸への留学を通してグローバル人材が多かった五山は、室町幕府の「外務省」的役割をすることになり、「五山文学」という漢文学なども大いに栄えたが、大徳寺はそこに食い込むことなく、在野の禅を目指すことになったのだ。
その中でもこの寺院を出たり入ったりした禅僧こそ、日本中の子どもにも知られている一休さんである。昭和五十年代に一世を風靡したアニメ「一休さん」をリアルタイムで見ていた私は「とんち少年」としての一休さんを知ることになったわけだが、そのほとんどが創作である。一方日本史の教科書に「一休宗純」として出てくる彼は、ブルハも自らを恥じるほどの「元祖ロックンローラー魂の持ち主」であり、人間的にはるかに面白い。
生まれた所や 皮膚や 目の色で いったいこの僕のなにがわかるというのだろう
南北朝が合一した1392年、足利義満のもとで南北朝が統一され、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に三種の神器が渡された。その2年後、後小松天皇と南朝の女性との間に生まれたのが千菊丸、後の一休と言われる。しかし南朝方の母親を持つということでこの「御落胤(ごらくいん)」は北朝方から命を狙われるという数奇な少年時代を送った。そこである意味「親に恵まれなかった」この少年は、六歳にして出家し、命の安全が比較的確保されるであろう安国寺に入ることになった。「周健」という名をもらった彼はそこで漢詩を学び、並みならぬ才能を発揮した。
しかし彼の周りは「俗物」が多く、みな自分の血筋や家柄を自慢したり嘆いたりする者ばかりだった。血筋から言えば、一休ほどの「高貴なお方」はいまい。なにせ世が世ならば皇太子、または天皇だったのだから。しかしそのような「出世の道具としての禅」は願い下げだ。そんなもので自分の価値を決められたくはなかった。ブルハは歌う。
「生まれた所や 皮膚や 目の色で いったいこの僕のなにがわかるというのだろう」 (「青空」)
そしてもっと純粋な禅を追求すべく、十七歳の彼は寺を出て、乞食同然の僧、謙翁宗為の弟子となって禅に打ち込んだ。「宗純」の「宗」は師の一字をもらったものだ。
さらに二十一歳の時、師匠が遷化すると、ショックで自殺まで考えるが、立ち直ってやってきたのがこの大徳寺だった。
印可状など紙きれ同然-このまま僕は汗をかいて生きよう!
二十五歳のとき大徳寺で師、華叟(かそう)の出した公案に対してつくった歌が、
「有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る一休み 雨ふらばふれ 風ふかば吹け (今という人生は煩悩の世界から、解脱した極楽に戻る途中の一休み中にすぎない。雨が降ろうが風が吹こうが、あわてない、あわてない。一休み、一休み。)」
というものだ。これが師に認められ、この歌から「一休」という名をもらったという。そして二十七歳の時カラスの鳴き声で悟り、師は印可状をあたえた。しかし禅僧としてこの世でやっていくうえで何より大切な印可状を一休は捨ててしまった。禅という無限なものの前では、そのようなものは何の価値もないと思ったからだ。
それだけではない。だれかがそれを保管していたことを後に知った一休は、それを完全に焼却してしまった。さらに、亡くなる直前には、将来万一だれかがこの一休から印可状をもらったなどというデマを流したら、牢獄へぶち込めとまで言っている。権威者の「お墨付き」や「証明書」というのは彼が最も忌み嫌うものだったのだ。
ある時、大徳寺の高僧の三十三回忌を行う際、みな立派な身なりで法要を行ったが、彼一人だけみすぼらしい身なりで、周囲から白い目で見られた。しかし一休禅師は知っていた。その高僧は生前に貧しさにあえぐ庶民の中に入っていき、教えを説いていたたことを。外面だけ立派な今の大徳寺の僧を見てどう思うか。本当の法要とはその精神を継ぐことではないか。
後に彼は堺の町で刀を持って通りを歩いた。僧侶が殺生の道具を持ち歩くことはもちろんタブーである。しかし鞘は立派だが中身は竹光である。つまり、今の坊主は身なりだけは立派で中身はない、ということを堺の町の衆たちに言いたかったのだ。パフォーマンスとそしられようが、民衆の中で汗をかいてぶつかりながら生きていく道を選んだのだ。
「このまま僕は汗をかいて生きよう ああいつまでもこのままさ」(「人にやさしく」)なのだ。
私事で恐縮だが、全国通訳案内士登録証を英語、中国語、韓国語と三種類もっている。楽しみながらもそれなりに苦労して取った資格ではあるが、これらは三年から五年に一度、更新することになっている。しかしこの登録証というものに何の価値があるのかよく分からなくなってきた。一つだけ言えるのは、登録証をもっていても、合格した日から、いや、それ以前の二次面接試験が終了した日から学ぶのをやめる人が過半数であるという事実を知っている私にとって、単なる紙切れの登録証を後生大事にし続けるよりも、そのような存在などきれいさっぱり忘れてしまったほうが、その後の精進に繋がってよいのかもしれないと思えるのだ。そしてあわてず、急がず、一休みしながらでも死ぬまで学び続けることのほうが、はるかに価値があるのではなかろうか。
くだらない世の中だ 大便かけてやろう
空虚な権威に対してかみつくのは、一休禅師の五百年後に現れたブルハも同じだ。彼らもこんな歌を叫んでいる。
「くだらない世の中だ ションベンかけてやろう
打ちのめされる前に 僕等打ちのめしてやろう」(「未来は僕等の手の中」)
しかし大徳寺にいたころの一休禅師はそんなものでは済まない。修行中にみなが臭い臭いと言い出す。気づくと一休が大切な経典の上に自分のションベンどころか大便を乗せて持ってきたのだ。大切な経典に排便し、それを見せびらかした彼にみなが怒った。しかし彼は言う。「無縄自縛(むじょうむばく」、つまりみんなありもしない縄があると思って、それに縛られている。経典だからありがたいのか?糞だから汚いのか?そんな世間が勝手に決めた価値観に縛られず、自分のモノサシで見よ、といいたかったのだ。禅とは糞も経典も実体がないことを悟ることなのだ。
それだけではない。一休は飲酒、肉食、女犯(にょぼん)、男色等、ありとあらゆる戒律を破った「破戒僧」である。しかし魚を釣って殺生をせざるを得ない漁夫と同じように寺の池の鯉を捕まえてその場で食べたり、貧しさのために身を売らねばならない女人と交わったりするなど、彼の破戒の先にあるのは、救われない庶民の暮らしの中に入り、凡夫として生きていくことであった。
彼の生きざまを見ると、「正法眼蔵」等の哲学書を執筆した道元禅師よりも、肉食妻帯して庶民の中で「悪人正機」を説いた浄土真宗開祖、親鸞聖人そっくりに思えてくる。
「叫ばなければやりきれない思いを ああ 大切に捨てないで」(「人にやさしく」)
ブルハも一休禅師も親鸞聖人も、やりきれない思いを大声で叫び続けたのだ。
はみだし者でかまわない
浄土真宗といえば、一休禅師の宗教界における第一の理解者は蓮如だったようだ。こんな逸話が残っている。ある時蓮如の部屋に入って、阿弥陀佛の像を枕に昼寝していたところに蓮如が帰ってきた。蓮如は大声でどなった。「こら!わしの商売道具を粗末に扱うな!」そして二人で目を見合わせて呵々大笑(かかたいしょう)したという。権力者に取り入ることで禅の道を歩むことをおろそかにしがちな臨済宗の五山に対して、道元禅師は越前の山中で只管打坐をし、一休禅師は破戒の限りを尽くすことでその空虚さを暴いたようだ。
実際、一休は禅を捨てた時期もある。1461年、京都は飢餓で8万人以上の人々が餓死し、賀茂川の水が死体で流れなくなったほどだという。それに対し、幕府の一部門である五山は多少の救助活動をしたらしいが、五山の一員ではない大徳寺はなにをしたのか記録が残っていない。ただ庶民目線の一休禅師は大徳寺に絶望し、開山の大燈国師に合わせる顔がないとして禅を捨て、浄土宗の僧になったことから救済に消極的だったことは推測できる。これは他の禅僧たちに対するあてこすりや、パフォーマンスだったのだろうか。
思うに道元禅師も一休禅師も、目指すところは解脱であり、人を救うことである。しかしその方法が、山にこもって著述に没頭する道元禅師と、町なかでタブーと思われる極端なことをやって「ショック療法」を試みる一休禅師とでは、異なりすぎる。ただこのような「はみ出し者」の僧が名僧として愛されていたというのが、庶民の懐の深さなのかもしれない。ブルハの声を思い出す。
「劣等生でじゅうぶんだ はみだし者でかまわない」 (「ロクデナシ」)
禅の世界の劣等生でもいい、はみだし者でもいい、一休禅師は禅を守ることよりも、目の前で苦しむ人々を助ける道を選んだのだ。
誰かのルールはいらない
1467年、将軍足利義政の後継者争いに端を発し、十年にわたって続いた応仁の乱で、大徳寺も兵火に包まれた。一休禅師は避難先の洛南、現在の京田辺市に酬恩庵を結んで弟子たちと暮らすことになった、盲目の妙齢の美女、森女(しんにょ)に一目ぼれし、七十七歳にして同棲を始めた。さらに老いてますます盛んな絶倫なる精力と詩文能力で、中国の古典と森女との愛欲の生活を露骨なまでに描いた漢詩をこれでもかというほど多く作った。弟子たちを含む周りは「いい年をした坊さんが老いらくの恋か?焼きが回ったのか?」 とあきれ果てた。ブルハの「キスしてほしい」、「超えてしまった境界線」(「あの娘にタッチ」)どころではない。
しかし彼には昔どこのだれがつくったかも分からぬ戒律を守ることより、目の前の女のほうが真実そのものだったのだ。ブルハに歌わせればこんな感じか。
「誰かのルールはいらない 誰かのモラルはいらない
学校もジュクもいらない 真実を握りしめたい」 (「未来は僕等の手の中」)
「誰かのサイズに合わせて 自分を変えることはない
自分を殺すことはない ありのままでいいじゃないか」(「ロクデナシ」)
佛になんてなれないよ やはり生きてる方がいい
応仁の乱が終息に向かいつつあった1474年、勅命で一休禅師が大徳寺の住持に任命され、および腰ではあったが引き受けた。しかしその実態は、大徳寺には住まず、盲目の「河原乞食」森女と酬恩庵に住みながら住持をするという「リモートワーク」であった。いろいろあったが二十代から八十代まで六十年もつかず離れずの関係を保ってきた「腐れ縁」のこの寺が廃墟となっているのを見るに見かねて、自分が住持となれば堺の豪商からの寄進があることを知っており「名義貸し」したつもりなのかもしれない。
八十八歳のときマラリアが再発した。亡くなる前には、弟子たちの前で「死にとうない」とつぶやいたという。ちなみに悪性腫瘍を患っていたらしい道元禅師の遺偈(辞世の漢詩)は「咦、渾身無覓活落黄泉(ああ、あの世に行っても自分のことはさておき、人を救う修行をせねば)」である。それに対して一休禅師の「素直さ」は、高僧らしくなく、驚くばかりだ。「聖者になんてなれないよ だけど生きてる方がいい」(「TRAIN TRAIN」)のようである。
しかし最期は坐禅したまま果てた。途中で禅僧であることを捨てたこともあったが、最期はいかにも禅僧らしい。庭園マニアであっても、私は大徳寺大仙院や他の塔頭の庭園以上にこの反骨のロックンローラー、一休禅師のほうが気になり、おもわず心の中の禅師と対話してしまう。「また来ます」というと、「またなんてない。今を生きろ!」と言われそうだから挨拶もせずにそそくさと門を出ていくのが常である。
東福寺の緑のカエデーフィルターをかけて現実を無視するな!
十月中旬の秋空の下、東福寺に行ったことがある。東福寺の秋といえば、通天教の周りを覆いつくす真っ赤な紅葉である。試しにGoogleで「東福寺」の写真を検索すると、半分以上が真っ赤な東福寺である。しかし十一月ならともかく、十月中旬は紅葉狩りにはまだ早く一面緑色である。朝早いこともあるが、観光客はほとんどいない。この緑色の空間を見ながら、一か月後の深紅の東福寺を想像して、観光客はこのくらいで、紅葉は真っ赤だったらどんなに良いだろうという考えを起こし、その直後に「しまった」と後悔した。これは道元禅師が禁じていることだったからだ。「正法眼蔵」にはこうある。
「いはゆる拈華といふは、華拈華なり、梅華、春華、雪華、蓮華等なり。(釈尊が弟子たちの前でひねって見せた、三千年に一度しか咲かない優曇華(うどんげ)という花があるが、それだけが特別価値のあるものではなく、梅や蓮華、春や冬に咲く花もみなそれぞれ佛性の表れなのだと気づいた。)つまり、紅葉の時だけに価値があるのではない。一年三百六十五日、その瞬間、その瞬間の大切さに気付けというのだ。緑葉は緑葉で最高、紅葉は紅葉で最高、枯葉は枯葉で最高なのだ。それなのに私は東福寺のカエデは紅葉した時に限る。あと一か月遅ければ、としなくてもよい後悔をしてしまったのだ。
さらにずばり、このような一文も残している。
「はなにも月にも今ひとつの光色おもひかさねず はるはただはるながらの心、あきも又あきながらの美悪にて、のがるべきにあらぬを(花や月をみても、それに別の色のフィルターをかけるものではない。春なら春なりの、秋なら秋なりの美しさ、醜さそのものを受け入れるしかないではないか。)」
道元禅師に叱られた気分である。
それならば今ここで 僕等何かを始めよう
この考え方は特に重要なようで、次のような文でも書かれている。
「たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、 薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり」
(薪を燃やすと灰になるが、だからといって灰が薪に戻ることはあり得ない。それなのに我々は薪がbefore、灰はafterだと勘違いしてはいけない。本当は、薪は薪で自己完結していて、着火前の薪から燃え盛る薪までグラデーションがある。灰も灰で自己完結していて、まだ火のくすぶっている灰から真っ白な灰になるまでグラデーションがある。つまり薪は薪、灰は灰で別物なので、その二つに時間の流れを感じるものではないのだ。これを「前後際断」という。)
つまり、昨日、今日、明日と連続性があるようだが、本当は昨日は昨日、今日は今日、明日は明日なのだ。また道元禅師の哲学は、「今」にも「過去」と「未来」が含まれるという。例えばその日の私は東福寺で一か月後を想像した。その「一か月後」を想像しているのは「今」である。また、学生時代にここに来たこともついでに思い出したとしたら、「過去」を回想しているのも「今」である。未来も過去も、今の想像と回想だから、今に含まれるのだ。
ではこの「前後際断」の話で禅師はなにを言いたいのか。「今しかない。それなら今すべきことに全力投球せよ」、ということである。ブルハもこうシャウトする。
「あまりにも突然 昨日は砕けていく それならば今ここで 僕等何かを始めよう」 (「未来は僕らの手の中」)
それなのに、私は目の前の紅葉を目前に控えた緑葉の美しさには目もくれず、ありもしない一か月後の紅葉の色を勝手に妄想し、フィルターを通して赤く着色していたのだ。つまり目の前の美しさに気づかなかったのだ。今の今を楽しんでいなかったのだ。
方丈庭園―重森三玲の「永遠のモダン」
東福寺方丈庭園は、これまで出てきた京都の禅寺の中世庭園と異なり、日中戦争中の1939年に完成した近代庭園である。そして設計は昭和を代表する造園家、重森三玲である。この紀行文は吉備から始めたが、彼も現吉備中央町の出身である。ということは時代は異なれど栄西禅師の同郷人といえる。吉備中央町の町役場には、彼の設計した庭園が移築されているが、極めてモダンなデザインの中に伝統がしっかり生きている。人は彼の作風を「永遠のモダン」と呼ぶ。
東福寺方丈庭園は、方丈の四方に造られている。東庭には不要となった円形の石柱を七つ配した北斗七星がある。日本庭園では中国や日本の風光明媚な土地を縮景にして再現することはよくあるが、宇宙そのものを庭につくることは極めてまれだ。しかし道元禅師は「一切衆生 悉有佛性」と説いた。この中の「悉有(しつう)」とは大宇宙そのものである。つまり「我々一人ひとりが宇宙そのもの、佛性そのものなのだ」という意味である。私は「北斗七星=宇宙=悉有」という「逆算」をして、この東庭は全宇宙を意味し、それが我々一人ひとりに宿っているというメッセージではないかと理解しているが、深読みだろうか。
南庭―ただ大人たちにほめられるような バカにはなりたくない
次に南庭は、天を衝きそうな青石がにょきにょき突き出ていたり、寝そべっていたり東側が神仙蓬莱様式の島々であり、すなわち中国大陸を表す。そこから西側に進むと、砂紋の向こうに苔と松の島があり、そこが日本で、五つの築山が京都五山を表すということになるという。つまり南庭ではアジアの縮図を見ているのだ。この砂紋を西に向かう小舟を空想し、それに栄西、道元等日本の名僧たちが乗っていたことや、鑑真や蘭渓道隆、無学祖元などが東から西にわたってくるのを空想するのも楽しい。また、船と大海といえば「現成公案」にあるこんなくだりを思い出す。
「たとへば、船にのりて山なき海中にいでゝ四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞(えいらく)のごとし。ただわがまなこのをよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。(例えば船に乗って大海原で周りを見れば、半円の水平線以外には見えないだろう。しかしこの大海原は円形でも四角くもない。見え方は見る者の数だけある。魚であれば海が竜宮城や佛具のように見えるかもしれない。ただ人間の目にはとりあえず丸く見えるだけなのだ。)」
当時の人は、道元禅師でさえ地球が丸いなどという「常識」を持っていなかった。そこで、見る人の目によって同じものが異なって見えることを説いたのだ。つまり、自分にとってそう見えるからといって、それが絶対的真理とは思うな、と言うのである。同じように、私のこの方丈庭園に対する見方も、「私」にそう見えるだけであって、それをご覧になった諸氏にそう見えるとは限らず、また、数ある庭園関連の書籍にそう説明されているからといってそれが「百点満点の見方だ」と思い、そのように見ようとすれば、それは禅ではない。ブルハも
「ただ大人たちにほめられるような バカにはなりたくない」「(少年の詩)」と歌っている。あくまで自分の目で見ようとしなければ、禅ではないからだ。
ちなみに私は自分の通訳案内士養成講座で試験直前には模範解答めいたものを出すには出すが、通常授業では地理も歴史も一般常識もそれぞれテーマを与えて発表してもらっている。正解を探すのではなく、疑問を探求し、発信してシェアするのだ。そうでなければただ試験に合格するだけで思考力が極めて低い「もったいない人材」になるだけだからだ。
西庭から北庭へ
角を曲がった西庭は、1メートル四方ほどの緑の植え込みが、白砂の上に九つ並んでおり、市松模様をなしている。そしてそこからさらに曲がったところが北庭だ。
北庭はコンクリートで30センチほどの正方形がいくつも置かれており、その隙間を緑の苔が覆う。市松模様ではあるが、西側はコンクリートの密度が高く、東に行けば行くほど薄くなる。これは佛教がアジアの西に位置するインドで生まれ、中国・朝鮮経由で東の日本に来るにつれてオリジナルの佛教が薄れていったことを象徴的に著す。すると先ほど西庭でみた大きな市松模様は、地球上に現れる以前の佛教のエッセンスでも意味するのだろうか。
造園当初は戦中戦後という時代性を反映してか、このモダンすぎるデザインに否定的な考えもあった。しかし時がたつにつれてこの「永遠のモダン」さが理解されるようになり、イサム・ノグチら世界的なアーティストも絶賛するほどになった。
ここに来るたびに縁側に座ってこのキュビスムとも異なる正方形のかたまりをじっと見つめてしまう。そして道元禅師の時空観を思い出す。ここに座っていると、市松模様がきちんとそろっているほうが紀元前のインドであり、まばらになりつつあるところが紀元後の中国朝鮮であろう。すると緑の苔の部分が多いところが今の日本なのだろう。そしてずっと奥のほとんど苔だらけのところが将来の地球ということになろうか。そしてその過去、現在、未来という時間の流れを一目で見るだけでなく、日本の京都の東福寺という立ち位置にあって、世界を見ている自分に気づく。
道元禅師は「どこ」という立ち位置を重要視した。なぜなら全ての人が「ここ」という地に足をつけてみなければ空論、虚論で終わるからだ。「ここ」に足を踏ん張って世界を見よ。そして常にその立ち位置を確認せよ。この庭を歩きながら見ると、ある時は「インド」、またあるときは「中国」、ある時は「北斗七星が眺められる地球」、そしてなんといっても「京都の東福寺方丈庭園」というように、「どこから見るか」ということに徹底的にこだわっているのがこの庭であるようだ。
「今、ここから」の庭。これこそ重森三玲が解釈した禅なのだろう。世界を一周し、地球から宇宙を眺めたかのような気がしていたが、実際は方丈をぐるりと一周しただけだった。池庭は自分の目で外の景色を見るが、枯山水のこの庭は外界を見ているようでいつも内面を見つめていることに気づいた。五山ならではの巨大な建造物群を逍遥して、境内を離れた。
龍安寺―日本一「謎」の庭
龍安寺は日本の名園の中で最も「謎」な存在である。まず、だれがいつ作ったのか分かっていない。日本史の教科書には室町文化の庭園の代表として、大徳寺大仙院と並んで出てくるにも関わらず、どうやら江戸時代初期に造園された可能性が高い。また、作庭した人物も分っていない。
そして庭の解釈も様々だ。白い砂の上に置かれた十五個の岩の意味が、「虎の子渡し」といって母虎が数匹の子を順番に川向うに加えて運んでいる様子を表しているという人もあれば、南蛮渡来の「黄金分割」や「遠近法」を応用しているという人もある。また、絶妙な「間(ま)」と「緊張」のバランスを絶賛する人もあれば、1975年にエリザベス二世訪日時に立ち寄ってから「世界の龍安寺」となったその普遍性など、様々な人が様々な解釈をしている。その解釈の多様性こそこの庭の魅力なのかもしれない。
生死即涅槃(しょうじそくねはん)
龍安寺の山門をくぐって境内に入ると、左手に池が見える。応仁の乱の張本人の一人でもあった管領細川勝元がこの寺を建てたころ、龍安寺の庭というとこの鏡容池を中心とした池泉回遊式庭園であった。夏には蓮の花が美しい。
庫裏に入ると、天井が高い。その薄暗い天井に何本もの太い梁が交差し、その上の天窓から光が差している。その左手の南側が例の石庭である。晴れた日なら白い砂に反射した日差しがまぶしい。いつ行っても観光客が多いが、特に欧米人が目立つ。時にはここで坐禅している人(なぜか欧米人男性)を見かけることもある。ここはある意味、世界の禅の、またはより広く「マインドフルネス」のシンボリックな中心なのだろう。
しかし悟りを開くための坐禅ならば、それは違うと道元禅師なら言うだろう。「生死即涅槃」という言葉がある。「生死」とは迷い、「涅槃」とは悟りであるとするならば「迷いは悟り」となるので矛盾するようだが、道元禅師がこの庭のガイドならこう言っていただろう。
「あの白い砂をごらんなさい。あれが悟りの世界じゃ。そしてあの十五個の石。あれが悟ろう悟ろうと迷っている煩悩真っただ中のお前さん方じゃ。でも立ち止まってよく見てみい。みんな悟りの海の中で迷っているだけじゃ。そのことにお気づきなさい。」
道元禅師に言わせれば、悩み、迷うから坐禅をする、その姿こそありがたいのであって、迷いから解脱するための坐禅なのではないのだ。
「雑草」にこだわらないこころ
それにしても完璧なまでに行き届いた石庭だ。むしろ野外インスタレーションアートのようだ。毎朝砂紋をきれいに描き、雑草の一本も見当たらないほど手入れをしている。それも禅の修行なのだろう。
ところで道元禅師は「花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみ(人間は花のことを大切にし、散るのを惜しむが、雑草をみるとすぐに抜いてしまえ!と思うものだ。)」という言葉を残している。悟りを開いたからといって精進し続けないと、心も頭も草ぼうぼう状態、つまり煩悩の世界に戻ってしまうという意味にもとれるが、あえて別の解釈をしてみた。
ここは多くの人が腰を下ろして石を、白砂を凝視し、同時に自分の心と向かい合う場であるが、仮にこの石庭に雑草があちこち生えている状態を想像してみた。そうなると何か心が落ち着かないではなかろうか。それは寺側の管理が悪いのか?道元禅師なら私に言うだろう。「それはお前さんの中に、草一本ない状態がよい状態で、草を「雑草」などという蔑称をつけて排除する分け隔てのこだわりがあるからじゃないのか?そんなものを捨て去るのが禅のこころじゃ。」
「ただの石じゃない!」
ある時、北米の英語を話す女子中高生が、この庭をみて「こんなのただの石じゃない!」とつぶやいたのが耳に入った。彼女の「不見識」を嗤う人もいることだろう。「やはりガイジンには禅はわからん」あるいは「これが分かるにはあと数十年人生経験を積まねば」云々と、したり顔でいう人もあるかもしれない。しかし私にはそれが道元禅師や一休禅師の声に聞こえ、目からうろこが「一枚だけ」落ちた気がした。ちょっとした「心身脱落」である。
ここにいる世界中の観光客は、みな分かったような顔をしてこの庭に感心しているのだが、結局エリザベス女王が来たからとか、世界遺産だからだとか、有名だからだとか、世間の尺度を自分の尺度と勘違いしてきているに過ぎないのではなかろうか。たとえばここが草ぼうぼうで、自由に庭に出入りできて、近所の子どもたちが岩の上に乗っかってはジャンプしていたとしても、ありがたがってここに来ていたのだろうか。あるいは京都だから来ているのであって、岡山県の山の中にあっても来ていたのだろうか。
「こんなのただの石じゃない!いい年した大人が大挙して押し寄せて、ばかみたい。」と率直に思わないのか。「現成する」つまりただそこにあるだけの石に、あまりにもプレミアをつけて感動しようとする人は、結局ただの石のもつ本当のありがたさが分からないに違いない。ちゃんと自分の目で判断しろ!という道元禅師からのメッセージに聞こえてきたのだ。
見てきた物や聞いた事 いままで覚えた全部 でたらめだったら面白い
それにしてもこの庭は「何もない」スペースが目立つ。厳密にいえば何もないのではなく、「無の空間」があるというべきか。禅宗等で毎日あげる「般若心経」はわずか266文字しかないが、そのうち「無」が21回も出てくる。さらにいうなら、「不」が9回、「空」が7回も出てくる。「ないないづくし」だ。「なにもないこと」に気づけ、というメッセージが強いかが分かる。
特に「無眼耳鼻舌身意 無色聲香味触法(見えても聞こえても味がしても何かに触ったと思っても何か感じても、みな錯覚。実態なんてないんだから)」というくだりは、見えるもの、聞くもの、分かったと思ったこと、そんなもの錯覚!と切り捨てていてすっきりするほどだ。ブルハの最も有名なこのフレーズそのままだ。
「見てきた物や聞いた事 いままで覚えた全部 でたらめだったら面白い そんな気持ちわかるでしょう」(「情熱の薔薇」)
吾唯知足―いらないものが多すぎる
方丈の北側には丸いつくばいがある。その中心に正方形の穴が開いており、水が貯めてある。その「■」を中心にとほってある。「知足」とは「われただたるを知る」というよりも、「どんなときでも今あるだけで十分。それが人生の秘訣」という意味である。
道元禅師曰く「触事有余常無不足。有少欲者則有涅槃。(いつでも心に余裕があれば、今あるだけで十分に思える。欲しい欲しいという思いを小さくすれば心もすっきりする。)」また、ブルハはこう歌う。
「いらないものが多すぎる いらないものが多すぎる いらないものが多すぎる」(「爆弾がおっこちるとき」)
爆弾がいらないというだけではなく、無駄なものをそぎ落とせばすっきりする。すっきりすればそこに悟りがあるのだろう。
奈義の龍安寺
旅の終わりに、原点にもどって旅のスタート地の吉備に再び足を運んだ。今度は中国山地の「奈義の龍安寺」として知られる奈義町現代美術館である。秋晴れのもと、田舎町に突如巨大なドラム缶がななめに置かれているようなオブジェが見えてきた。アナーキーな現代アーティスト荒川修作とマドリン・ギンズがつくったこの作品は、螺旋階段を上っていくと目の前に先ほど外から見た巨大なドラム缶の内部が見えてくる。
直径5メートル、奥行き10メートルほどの円筒型の内部は、左右に龍安寺の石庭のレプリカが張り付いており、なぜか奥と頭上にベンチや子供用の鉄棒等のオブジェがある。私は左右の視力が大きく異なるため、思わず平衡感覚を失ったようで、目が、いや、頭がくらくらしてきた。何とも言えぬ不快感と不思議さを十五分ほど体験し、外に出た。何を見せられていたのだろうという思いである。しかし現代アート作品としては不快感と不思議さが残るぐらいのほうが秀作なのだろう。
後になってから思った。あの「石庭」をみながら龍安寺の十五個の石の意味や、「間(ま)」の美学などについて考える人はまずいないだろう。しかしあの空間は龍安寺に勝るとも劣らない禅的空間だ。般若心経の「無眼界乃至無意識界」、つまり目で見て感じるものはもちろん、心で思うことさえ、実態はない、という言葉を思い出した。仮にもう一度あの空間に戻って目をつむっていたら、くらくらすることはなかろうし、何も思わないだろう。「色即是空(目に見えることに実態などない)」なのだから。
道元禅師からの「ラブレター」
ただ、ここにいて見るもの聞くもの感じること、すべてが「空」なのだといわれると、どこかに突き放された孤独感がわいてくる。しかし禅というのは、少なくとも道元禅師の説く禅というのはそんなものではないだろう。禅宗などではお経をあげるとき、最後に「回向文(えこうもん)」なるものをあげる。
「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成佛道(このお経をあげた功徳がみんなに行き渡りますように、そして私もみんなも一緒に佛の道が歩めますように。)」
吉備の産んだロックンローラーなのか禅僧なのか分からない甲本ヒロトもこう祈る。
「ほかの誰にもいえない 本当のこと あなたよ あなたよ しあわせになれ」(「ラブレター」)
ここまで書いて気づいた。「正法眼蔵」とは自分の感情をあらわにできない、シャイで「堅物」な禅僧、道元禅師が後世の我々に書いた「ラブレター」だったのではないか。道元禅師のライフワークは釈尊の教えから出た大乗佛教で人々を迷いから救い、幸せになってもらうことにあったはずだ。だが「心身脱落」などという難しい言葉を使わないと思いを伝えられない禅師の言葉を、だれでもわかる「あなたよ あなたよ しあわせになれ」とあっさり、すっきりと素直に伝えたのがブルハではなかろうか。
分からなければブルハを聞いてみよう!
そして「しあわせ」になる条件として、見聞きするすべてに実態がないことを分かることで、こだわりを捨て、自由になることが必要だ。
「見えない自由がほしくて 見えない銃を撃ちまくる 本当の声を聞かせておくれよ」「(TRAIN TRAIN)」のフレーズを聞くと、一切のこだわりをすてたところにある自由の境地に辿るべく目の前にあるものごとに取り組み合う我々の心の声が、姿が、重なってこないだろうか。
栄西禅師のように坐禅が組めなければブルハを聞いてみよう。道元禅師からのラブレター「正法眼蔵」が理解不能なら、ブルハを聞いてみよう。一休禅師のように狂人になりきれなければブルハを聞いてみよう。良寛さんのように愚人を貫けなければブルハを聞いてみよう。聞いているうちに禅のエッセンスに気づき、目の前のことに必死で取り組むようになるかもしれない。
日本に禅を伝えた栄西から始まり、意図していないだろうが禅のこころを歌い、叫んできたブルハにたどり着いた。吉備から京都に行き、吉備に戻った格好になる。桃太郎でも晴れの国でもフルーツ大国でもない、「隠れた禅の里」吉備の面白さに改めて気づかされた旅だった。高校時代に衝撃を受けた「ブルハ禅」を、これからも歩んでいこうと思う。(了)