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トランスウィドウからみたトランスジェンダー⑥ 誰のための社会運動か

暴力の被害者の多数が女性である一方で、女性が性別変更の簡易化によって恩恵をうけたことはない。私たちは心が女性と主張する男性たちにトイレや更衣室、お風呂、DVシェルター、レズビアンバーなどの女性スペースを提供し続けてきたが、その結果、ここ数年で女性スペース自体が存続の危機に陥っている。社会は女性にだけ寛容になるように仕向け、男性スペースや男性による支配が及ぶ場所は絶対的に隔離され、守られている。

女性の定義や女性に関する言葉も同じ経緯を辿っている。トランスジェンダー問題が話題になり始めてから、一度でも「男性とはなにか」と議論されたことはあっただろうか?議論の的はいつだって「女性とはなにか」で、トランス男性が「前立腺がない人」「精巣のない人」「授乳しない人」「妊娠しない人」などと呼ばれたことはない。トランス男性の数がトランス女性の半数だからといって、こうも男性の定義が一切話題にならないのは不自然すぎる。トランスジェンダリズムは女性という性別を「生理」「授乳」「妊娠」などの生殖ワードと結びつけ、あたかもそれらが女性たちの存在の主体であるように印象付けているが、それは社会の主役・主語が男性であるから起こる現象であって、女性はまだObjectとして観察される対象であるという残念な事実を強調している。

トランスジェンダリズムは女性たちの共感力と寛容さにつけ込んでいると思う。最近の研究によると、女性は男性より「認知的共感性」に優れているという。認知性共感性とは相手の表情から感情を読み取ったり、話を聞いてその人がどういった気持ちだったかを理解することを指し、同情とはまた別物らしい。昔から女性から相談されたときは悩み自体を解決しようとするのではなく、悩みに共感したほうがいいというが、データ的にあながち間違っていないかもしれない。

私は子供の頃から「金スマ」や「人生波乱万丈」などの人生紹介番組が好きで、トランスジェンダータレントの回に紹介されるエピソードといえば、両親に女になりたいと伝えたら家を追い出された、包丁をもった父親に追いかけまわされた、外国で性転換手術を受けたら傷口が開いて自分でホチキスで止めた、など、それはそれはドラマチックだったことを今でも覚えている。子供ながらに、自分が望む性別と現実が違ったら大変だろうなとよく空想したものだ。

今思えば、それも一種のプロパガンダだったと思う。トランスジェンダーがどれほど苦労しているかをドラマにすれば、世間には同情が生まれる。特に共感力の高い女性は「こんなに大変な思いをしたから、女性スペースに入れて欲しい」と言われたらノーと言えないだろう。

一方で、世間が「女性の要素」と考える妊娠や出産、生理がメディアで扱われるときはリアリティどころかむしろ美化されている。もちろん、つらいだけ、痛いだけなど悲観的になる必要は全くないが、実際にそれらのイベントに直面した人以外が現状をあまり知らないことは問題ではないだろうか。

たとえば私は10代の頃、妊娠は初期のころ悪阻がちょっとあって、出産は産むときだけ痛いけど、あとは回復するだけだと思っていた。だが、生理やセックスを経験し、婦人科系の悩みが出てきてから、子宮があることはこんなにつらいとなぜ誰も教えてくれなかったのだろうと自分の知識不足を恨んだし、その結果自分の生理の異常に気づくのも遅れた。私自身に妊娠出産経験はないが、SNSでより多くの女性たちが経験談を投稿するようになると、妊娠中の悪阻で死にかけたり、出産時の陰部切開が2年近く治らなかった話など、今まで語られなかった「女性だけの痛み」を知る機会が増えた。

そして、女性だけしか関係のない痛みを日本社会がどれだけ軽視し、女性たちに我慢を強いているのかも徐々に理解していった。女性たちは語らなかったのではなく、語る機会すら得られていなかったのだと。しかし、その少ない機会もスポンサーがつくような主要メディアではなく、あくまで個人によるものに留まっている。

トランスジェンダリズム支持者たちはトランスジェンダーたちはこれだけ苦労をして、化学的去勢や去勢手術を経たのだから、女性として扱われて当然と主張するが、生物として女性であるゆえの苦痛・苦悩は社会の関心を集めないように細工されている。この歪みに、私は強烈な違和感を覚える。女性のリアリティに関しては「みんなそう」「自己責任」「男性だって」と目を瞑るくせに、誰が女性でそうではないとあーだこーだ議論している世間がただただグロテスクだと感じる。

トランス女性より女性のほうが苦労をしていると言いたいわけではない。苦労や苦悩は比べられるものではないし、私は誰かの悩みに対して、他の誰かの悩みを持ち出してあなたのは大したことない的な発想スラップが大嫌いだ。ただ、女性が直面する問題を過小評価する一方で、女性とは何かを決めようとするその矛盾に疑問を抱く。

思想は恐ろしいものだとつくづく思う。一度信じてしまえば、過去を振り返ること自体が悪行のように感じる。私は大学でフェミニズムを学習した際に、皆女性のためと志は一致していても、本当に色んな考え方があるものだと感心した。生物学的事実を無視して男女平等を実現しようとするラディカルな考えだったり、LGBTQ+に寛容であるべきとか、フェミニズムといっても一口には語れず、必ず他の多くの政治的要素が絡んでくる。

何をもってフェミニストと呼ぶか、私には分からない。条件づけたり、定義づけるものでもないと思う。しかし、トランスウィドウたちの証言が徐々に日の目を浴びるようになってきた今、彼女たちの多くが元配偶者のトランスジェンダーによる暴力と支配を経験しているという現状を知ったら、フェミニストたちはどう考えるのか興味がある。

それでもトランスジェンダリズムを包括したフェミニズムは女性のためになるのか?社会的マイノリティである女性のための社会運動が、いつしかトランスジェンダーのための思想になっていないか?そんな風に議論ができるような世の中に早くなってほしいと思うし、トランスウィドウの存在をより多くのひとに知ってもらえるように個人として発信し続けたい。