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大学で学ぶと左に偏りやすい説①

少し前にアメリカ大統領選の投票者の分析が話題になった。民主党候補のカマラ氏に投票したひとは大卒が多く、女性有権者の半数以上、黒人女性だけだと9割以上に支持されていたという。このニュースを見たとき、私は自分の大学時代に受けた授業を思い出した。

私は大学でフェミニズムの基礎を学んだ。その中でも悪い意味で印象に残っている授業がある。あれはアメリカ社会学の授業の一部だったが、講師は白人のアメリカ人女性で、日本人男性との間にできた娘が1人いるシングルマザーだった。普段はアメリカの大学で社会学の講師をしているが、何かの縁で日本の女子大学でも教えることになったらしい。たしかその授業はシラバスの時点で英語でフェミニズムを学べると書いてあったので、私は受講を決めた。

私は初回授業で既に違和感を覚えていた。講師はまず自己紹介から始め、娘や彼氏、その子供がうつっている写真を生徒に見せた。こんな情報いるのかと若干教室がざわついたが、次に彼女は「日本ではあまり見かけないかもしれないけど、これがモダンな家族の形」と言う。そして、日本ではまだ離婚やひとり親、特にシングルマザーに悪いイメージがあると話題を変え、アメリカの統計ではひとり親の子供達は不幸だとは思っていないと語り始めた。

直感的に、彼女は自分に都合の良いデータを持ち出しているのでは?と私は疑った。彼女の主張が社会学と何の関係があるのかとも思ったし、データといってもその出典元が書いていない。昔から権力のある人に反抗的だった私は授業が終わると講師に「ひとり親の子供達が不幸だと思っていない具体的な理由は何ですか」と聞いた。すると彼女はデータに出てるから、と言う。本心では答えになっていないと思いながら、社会学はそういうものなのかと自分を納得させた。

なんだか嫌な予感はしたが、時間割的に英語で取れる授業はこれしかなかったので、まぁ長い目で見たら役に立つ授業かもしれないと思い、履修の予定は変えなかった。授業の2回目以降は徐々にフェミニズムに移行していったが、その講師は「歴史は何の役にも立たないから大嫌い」と言って、フェミニズム史はほんの一部しか扱われなかった。第一波、二波とか、まぁそんなことしか触れられなかった。授業の主なテーマはフェミニズム史ではなく、現代の女性に対する文化的圧力だったり男女の賃金格差など社会的な男女差別だった。

ある日、講師は「ピンク色が好きな人は手を挙げて」と教室に聞いた。何人かが手を挙げて理由を聞かれると「可愛いから」と答えた。そこから女の子にピンクが好きな子が多いのは社会の刷り込みかもしれないという話になった。例えばアメリカだとジェンダーリビールで生まれてくる予定の赤ちゃんが男の子だったら青、女の子だったらピンクにする文化がある。なんとなくピンク色の持ち物を選んだことはないかと言う講師に、私は母親のことを思い出して「あ、私の母はよくピンクのほうが・・・」と発言しかけると、彼女は私の言葉を遮って「そう女の子の色だから」と言った。どうやら彼女が欲しがっていた「時代遅れ」の考え方で興奮したようだった。

別の日は女の子の憧れとされるバービー人形やディズニー映画の話になった。小さい頃からバービーのような白人、しかも非現実的な体型の人形で遊んでいると、知らず知らずのうちに女の子の理想の人種や体型が概念化されてしまう。これは一理あるし、最近ではバービー人形の人種や体型が多様になってきた。同じように、ディズニー映画は社会の需要やあり方によってメッセージ性や表現を変えていて、ディズニー初期のプリンセスたちは王子様が助けに来るのを待っていただけだが、徐々に主人公が自立心をもって行動したり、自ら戦うようになってきた。これも的を得ている。ディズニーのプリンセスたちの人種や性格は随分前から色んな女の子が楽しめるように変わってきている。

おそらくこの考え方は講師の子供にアジア人の血が入っているからだろう。人種的マイノリティにとって彼らのロールモデルとなる対象は白人と比べるとまだまだ数が少ない。ロールモデルの多様性という点においては、私は彼女に賛成する。しかし、私がひっかかったのは生徒の誰かが「娘さんがバービー人形をプレゼントされたときどうしたか」と講師に聞いたときだった。生徒は当然、彼女がそのとき子供とどんな会話をして、どう上手く状況を切り抜けたかを知りたがっていた。しかし彼女は「教育に悪いから、黙ってゴミ箱に捨てた」と呟いた。それを聞いた私は他の生徒と同様、ぽかーんとなり、内心彼女はかなり極端だなと思った。

たしかに社会の「女性はこうあるべき」という押し付けは知らないあいだに刷り込まれているものが多い。顔の黄金比とか、脱毛の広告もその一部だ。しかし、自分とは違う女性像を一切遮断するというのは、逆に子供が偏狭になるのではと思った。例えばアメリカのディズニーランドではいまだにプリンセスが女の子の一番人気だと言う。近年では戦っているプリンセスしかいないにもかかわらず、オーロラ姫やシンデレラのほうを好む女の子が圧倒的に多いそう。

私の予想だと元のストーリーはあまり知らないで綺麗なドレスに憧れる子が多い気がするが、あれだけディズニーが推していた女の子に対する多様性のプロパガンダも「憧れ」という感情の前では役に立たないものだなと思った。ディズニーのプリンセス像が多様になった一方で、興行収入等の売り上げは年々落ちているのも事実だ。

私は小さい時から人形もディズニーも好きじゃないので、そういう見方もあるんだねくらいにしか思わなかったが、ふと好きな人はこれを聞いたらどう思うだろうかと考えた。私は初回授業のときから講師が時代の比較をする際に『Traditional vs. Modern』と表現するのが気になっていた。父親と母親がいて子供がいる家庭はTraditional、ひとり親の家庭はModernといった風に彼女は比較していた。現代の家庭でも両親と子供の構図が一番多いんじゃねと思いながら、言葉のあやかもしれないとその時は流していた。しかし、英語に詳しい方ならピンとくると思うが、Traditionalという言葉は時に「時代遅れ」や「古臭い」という意味でも使われる。

そして、どうも彼女のなかではModernが絶対的に正義という考え方があった。まるでピンク色や人形、プリンセスを好む女性は従来の固定概念に囚われているかのように語る。そのことに気づいた私は、当てはまらない自分がなんだかとても先進的な気分になった。社会の刷り込みには屈しなかったのだ、と。私は当時、親が選んだ大学に入ったものの、すぐに不登校になった。なんとか親から離れたいと朝昼晩通して働いたが、結局自立はできずに諦めて学校に戻った。自分は何者かにならなければいけない、他人とは違っていなければいけないと必死だった。私はポップカルチャーの影響で子供のときからアメリカへの憧れが強く、講師の主張に少々違和感はあったが、アメリカ人の先生が言うならそれが先進的で正解なのだろうと思った。

もし、私がたまたまバービー人形やディズニープリンセスが好きで、講師の主張を聞いたら、自分を恥ずかしいと思うかもしれない。自分は他人より賢いんだという傲慢さと賢いと思われたい虚栄心が邪魔をして、「本当は女の子らしいものが好き」など口が裂けても言わないだろう。この感覚は、確実に私だけのものではなく、他の生徒も持っていたはずだ。講師のモダンが正しいという主張はみんな薄々感じ取っていたようで、彼女に「こういう経験ない?」と質問されても口をつぐむ生徒が多かった。

そんなことで洗脳されたのかと思う人もいるかもしれない。しかし、思想は案外簡単に外部からの影響を受ける。若ければ尚更影響を受けやすいし、大学のような密室で机上の空論を扱う場所では、より効果的に作用する。洗脳をする側は決して「こっちが正しい」とは言わずに、「どちらのほうがより知性がある人の考え方か」を暗に示す。

ほとんどの人は知性がないとは思われたくないはずで、当時の私や他の生徒もそうだった。願望というものはつくづく人を盲目にさせる、と今振り返って思う。ただ賢く見られたい、恥をかきたくないという思いだけで、私は「考える」という主体性をいつの間にか放棄していた。

(次の記事に続く)