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GCと呼ばれてトランスウィドウが思ったこと

以前私の記事がTwitter上で拡散されたとき、私の考え方をGC的と解釈する人がいた。その手の用語に疎い私は、GCとは何ぞやと検索した。Gender-criticalの略で、trans-exclusionary radical feminism(トランス排他的なラディカルフェミニズム / TERF)とも言うらしい。これを知ったとき、私はなぬ、と正直驚いた。性別は事実という概念はそもそも基礎中の基礎ではなかったのか?

私が日本にいたころは「女性にしか見えない」トランス女性タレントが毎年のようにテレビで入れ替わり立ち替わり活躍していた。当時から「女として負けた」「本物の女より綺麗」など生物学的女性を卑下してトランス女性を持ち上げる風潮はあれど、少なくとも性別の境界線は守られていた。社交辞令として綺麗ですね、女性らしいですねと褒める一方で、ほとんどの人はトランス女性はトランス女性と考えていたと思う。だからこそ「本物の女性」と比べられていた。

雲行きが怪しくなったのは、やはり女性を含む社会的マイノリティへの人権意識が高まってきた頃だと思う。SNSが社会に根付き、これまで名前のなかった女性に対する差別や偏見が明るみになってから、性別に基づく「らしさ」の強制をやめようという流れになった。例えば主夫の登場もそうだし、料理が苦手な(設定の)女性をおじさん達が笑い者にする番組がなくなったのも、社会のジェンダーロールに対する意識が改善された証拠だろう。

同時にもっと社会の根底にある固定観念もなくそうとする動きが増えた。たとえば、スカートが苦手で戦隊モノが好きな女の子がいても、それを「女の子らしくない」と捉えるのではなく、その子らしさ、個性として受け入れようという意識が高まった。なぜなら、いくらその子が女らしくないからといって、女である事実は変わらないからだ。

時代の変化とともに性的マイノリティへの理解を訴える声も大きくなった。それまで当たり前のように使われてきた彼らに対する蔑称をやめようとする動きが出たのは記憶に新しい。私は女性になろうと必死な男性を「女性より綺麗」ともてはやすくせに、本当はおじさんのくせにと最終的にこき下ろすテレビが好きではなかった。昔から日本のテレビは海外よりトランス女性の露出が多いと思うが、それも珍しい物見たさの見せ物のような感覚がして、その差が私はとてもグロテスクだと感じていた。そもそもトランス女性タレントがもてはやされる理由も女性相手だけに歯に衣着せぬ発言をするからであって、女性嫌悪が根底にある。

もう10年以上前の話になるが、新しいトランス女性タレントがテレビに出始めると、必ずと言っていいほど彼らの苦労に密着する番組があった。当時は子供で何も分かっていなかった私は、「彼女たちは女性よりものすごく苦労しているんだ」と思ってしまった。トランス女性が女性にだけ当たりが強いのも、女性として努力をしているせいだと思っていた。しかし、大学でフェミニズムに出会い、いかに女性を取り巻く環境が過酷で、しかもそれは社会によって支配されていると知ってから、「女性として生きる」ことはとても上っ面では済まされないと認識した。

女性の価値は、私たちの価値は、スカートを履いて化粧をすることではない。髪を伸ばしてネイルをすることではない。そう強く考えるようになった。これはまた別の記事で掘り下げたいが、大学でフェミニズムを学ぶと、どうしても左翼的価値観を植え付けられることが多い。女性が社会的マイノリティだからといって、トランスジェンダーと一緒くたにしたがる人もいる。だが、ここで重要なのは女性という性別は事実であり、目に見えるもの、証明できるものであって、気持ちの問題ではないということだ。

最初、社会は性別に違和感があるという精神的不調を抱えた人々に対して気を遣っているだけだったはずだ。性別に悩み、女装をする男性に「お前は男だろ」とわざわざ言う必要もない、と。それなのに、いつのまにかトランスジェンダリズムは莫大な収益を目論む支援団体をバックにつけて、女性の定義、安全、権利すら脅かしている。女性は胸があって髪が長くてスカートを履いていて化粧をしているほうで、男性は胸がなくて髭が生えていて髪は短くてマッチョでズボンを履いているほうだと、性別はまた固定観念化されている。

私は性別違和がある人たちがそれを理由に仕事につけなかったり、家を借りられなかったり、病院にかかれない、通えない学校があるなどの差別があってはいけないと思っている。髭面の男性がドレスを着てただ街中を歩いているだけなのに、その場で性別を問い質したり決めつけることはヘイトだと思う。誰がどんな格好をしようが、その人の自由だ。その人が望むのなら、sheとでもheとでも好きな方で呼ぼう。ただし、それは性別は2つという事実が大前提にある世の中で、人々がトイレや更衣室などプライベートな空間を生物学的性別に基づいて行動をするときだけだ。

GCと呼ばれたとき、私は性別は2つという事実は既に単なる思想の流派になってしまっているような気がしてショックだった。自分のなかでは地球は丸いと同じくらいの常識だからだ。たしかにフェミニズムには昔から男女の生物学的差を無視したラディカル派をはじめ、様々な派閥があったが、女性の定義すら曖昧にする思想が女性のためになるとはどうしても思えないのだ。

社会運動に派閥は付き物で、一口にフェミニズムといっても、この人の考え方には賛同できないなと感じる場面は多々あったし、今でもある。むしろそれが普通だと思う。しかし、流派は様々あれど、女性たちはずっとフェミニズムという一つ屋根の下で連帯、団結してきた。それがいまトランスジェンダリズムによって分断の危機に瀕していることが、私は残念で仕方がない。

トランスジェンダリズムは人々の「差別者になりたくない」という願望意識を利用してここまで大きくなった。もともと社会運動に参加するような人たちとは相性が良い思想だと思うし、フェミニズムも性別の固定観念をなくそうとしている点においては共鳴するだろう。大学でフェミニズムを学んだ人ならプライドも手伝って尚更影響されるだろう。何かを区別することは排除を意味し、差別的だと考えやすいかもしれない。

私は「何が過ちだったか」は時間が経ってからでないと判断できないと考える。GCやTERFと呼ばれようが、私たちは歴史の正しい側に立っているという直感は間違っていないと思うし、もし時間が経って間違っていたことにされても、それが誰かのためになったのなら後悔しないと思う。