トランスジェンダーというカルト⑩ ホルモン治療
めでたく診断が下りた暁には、「本来の性別」になるべくGender-Affirming Hormone Therapy(性別を肯定するホルモン治療)が始まる。MtFの場合、女性ホルモン(エストロゲン)の増加とテストステロン(男性ホルモン)の抑制を促すため、内服薬や注射、パッチなど様々な方法があるが、元夫は最初は注射とパッチを併用し、その後内服薬とパッチに切り替えていた。
女性ホルモンを投与し始めると、男性にはない身体的特徴が現れ始める。乳房の発達、筋肉量の低下、脂肪がつきやすくなる、肌の調子が良くなったり、抜け毛が減る効果もあるという。通常、治療の効果が目に見えて分かってくるのは6ヶ月〜数年かかるというが、私はすぐに元夫の乳房が発達していることに気づいた。6ヶ月もかかっていなかった記憶だ。もっとも、既に成人している体なので発達にも限界があり、女性のように根元から膨らんでいる感じではなく、乳首を無理やり引っ張って広げたような不思議な形で、肥満体型の男性のほうが女性の胸にちかいと思う。胸の膨らみもそうだが、エストロゲンのせいで彼の乳首が妊婦のように黒くなっていることにも私は驚いた。
正直、私は彼の身体的な変化を実際に見るまで彼の話は半信半疑で聞いていた。「ホルモン治療を始めたら薄毛も解消されるんだって。筋肉量も減るから今までみたいに重いものを持ったりできなくなるからね。」と言われても、私は一緒に医者に行って説明を受けてないどころか、性別変更や治療の方法を一緒に調べたわけでもない。全ては彼がやったことで、私の意見など当然聞くはずもなく、私はずっと蚊帳の外だった。伴侶のはずが、家族のはずが、私という存在は彼の欲望・願望・コンプレックスにとってあまりにもちっぽけだった。カムアウトからたった数ヶ月。私を置き去りにして進んでいく現実が残酷すぎて、彼の変化を知るまでは、心のどこかでまだ引き返せるところにいるんじゃないかと思っていた。
彼は本気で女になりたがっている。男性の体に女性の特徴を少し足した彼の有り様は、見たことのないクリーチャーのようだった。映画『第9地区』では突如エビのような容姿をした大量のエイリアンがアフリカに移り住んでくる。そのエイリアンたちを管理する立場の主人公が、ある日ウイルスに感染し、徐々に人間からエイリアンになっていく。必死に抗おうとするも、最後には身も心も完全なエイリアンになってしまうのだが、妻への愛だけは忘れていなかったという話だ。ハッピーエンドとは言えない結末だが、私は妙にその映画が気に入っていた。人間とエイリアンで姿形は違っても、殺される恐怖や空腹、親子の絆など通ずるものがあると、感情的に無関係ではいられない。自分だったらどうしようか、と学生時代によく妄想したものだ。
彼も『第9地区』のように、徐々に別のクリーチャーになるのか。何回も観た映画だが、私は毎回、妻がエイリアンになった夫の姿を見ることはなかったことが唯一の救いだと思っていた。私は元夫の変化を見届けることはできない。ホルモン治療の行く末は知らないが、年をとって外見が変わるとか、事故や病気で体に変化が出るとは訳が違う。彼は自分のコンプレックスをないものにするために理想を追い求めて、人体改造を始めた。私が結婚した相手は死んだのだ。どこかで生きていると思うと、「もしも」のストーリーが出てきてしまう。もしも私がコスプレに反対していなければ、もしも彼が違う両親の元に生まれていたら、もしも彼と出会っていなければ。死んだことにすれば、この先を考えて嘆いたり、過去を振り返って後悔できなくなる。
自分には関係ない。そう思おうと考えていた時期もあった。彼が人体改造をしようが、幻想に取り憑かれようが、自分には何の影響もないじゃないか、と。だが、自分が女である限り、それは不可能だと私は思い知る。元夫が性自認がどうのと寝言を言っているあいだに、私は生理痛が急激に悪化していることに悩んでいた。最初はストレスのせいだろうと思っていたが、痛み止めが効かない、立つことができないまでになったので、GPに相談して病院での検査を待っている間に効果があるかもしれないからとミニピルを処方してもらった。それまで人生で生理痛はもちろんあったが、薬を飲めば我慢できたし、自分の生理は重い方ではないと思っていたので、感じたことのない子宮の痛みに私は怯えた。大病だったらどうしようと四六時中考えていた。希死観念はずっとあるくせに、いざ死ぬかもしれないと思うと怖くなった。
ピルを本格的に飲むのはこれが初めてだった。毎日決まった時間に飲むだけだが、私は途中でピルのシートを逆さまにして薬を飲んでいたことに気がついた。2週目のはずが3週目を飲んでいたことに動揺して、私は元夫に「間違った週の分を飲んでいた。どうしよう。」と話した。すると彼は「成分は全部同じでしょ。僕が飲んでるホルモン剤(エストロゲン)と一緒だよ。」と言う。ミニピルには生理をコントロールするだけでなく、子宮内膜症の症状を軽減するなど、子宮への負担を最小限にすることで婦人科系の病気の予防効果がある。結果的に避妊の効果があるのだが、日本ではまだ避妊の効果しか強調されていない。
エストロゲンが必要な病気は沢山ある。代表的なのは女性の更年期障害だ。2022年頃に英国を含めた世界各国でエストロゲン不足が報道された。急激な需要に供給が追いつかないという話だったが、一部の関係者はトランスジェンダーによるホルモン治療の増加が原因ではないかと話す。トランスジェンダーが1日に摂取するエストロゲンの量は、女性の更年期障害の治療に必要なエストロゲンの数倍という。もしこれが事実だとすれば、これは美容目的の処方のせいで、本来の治療のために必要な薬が日本で在庫不足に陥っている状態と似ている。ちなみにエストロゲン不足は今でも完全には解決していない。
この人は病気でもないのにエストロゲンを摂取して、それをピルと同一視している。頭に来た。私が、女性が、喜んでピルを飲んでいると思っているのか。ピルは薬なので、もちろん良いことだけではない。私は体が慣れるまでにダラダラと出血が続くことが一番つらかったが、そのほかに浮腫や更年期障害のホットフラッシュような症状も経験している。人によってはミニピルですら体に合うものを見つけるのに苦労するし、とにかく体に負担がかかる。女であれば皆一度は生理がなければと思ったことはあるだろう。しかし、生理がなくなったらなくなったで、今度は更年期障害に悩まされる。生理は一生女に付き纏う呪いだ。
私は思わず「一緒じゃないよ!」と怒って自分の部屋に戻った。そういえばこの前もホルモン治療の話になったとき、内服薬とパッチを見せながら「僕はこれを一生続けなきゃいけないんだ」としみじみと言っていた。私は今でも時々考える。何と言い返せば正解だったのだろう。はっきりしているのは、この人の悲劇のヒロイン気取りのせいで、実現不可能な夢のせいで苦しむ女性がいると思うと、耐えられなかったということだ。私はこの人が病気ではないことを知っている。病気だとしても精神的なものだ。その事実を知りながら一緒に暮らすということは、もはや私は共犯者だ。そんな罪悪感が渦巻いた。
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