父との記憶 「トロフィー家族」
※この記事には家庭内暴力の表現があります
父性はいつから芽生えるのか。
私は父を見るたびに疑問に思っていた。
父は5人兄弟の長男として農家に生まれ、新卒で就職した地元の会社にずっと勤めていた。私はヒステリックで口うるさい母が苦手で、ある事件が起きるまでは生粋のパパっ子だった。私が小さいころは父が休日出勤で家にいないことが当たり前で、母とふたりきりになりたくない私はしょっちゅう職場に連れてってとお願いしていた。私が幼稚園の頃はまだ土曜日授業の名残が残っていて、午前だけ登園していた記憶がある。当時は土曜日は正式な休日ではない雰囲気だったし、父は歳をとってある程度出世してからは閑散期にずる休みをするなど、根っから真面目人間、仕事人間というわけではなく、上司が休日出勤していたから仕方なく出勤していたのだと思う。
フルタイムで働くことは大変だ。いくら家のことは妻に任せきりでも、家族を養うプレッシャーは相当なものだと思う。私は幼い頃から父の二面性を感じていた。普段は子どもの前で汚い言葉を使わないように気をつかったり、感情的な母をなだめる役回りをしていた一方で、人が変わったように機嫌を損ねることがあった。特に私が学校へ行く前の朝は情緒が不安定なことが多く、どうして父の機嫌を損ねてしまったかは覚えていないが、朝に「学校から帰ってきたら覚えておけ」と言われ、登下校を共にしていた女の子に「私は今日で殺されてしまうかもしれない」と真剣に伝えたことがある。その日、震えながら帰宅すると、何事もなかったかのように機嫌が戻っていたので、朝の出来事は何かの間違いだったんだと自分に言い聞かせた。
両親は新婚生活をボロボロの団地から始め、妹が生まれたことをきっかけに私たちは新しめの団地に引っ越した。父と同じ会社に勤めるひとたちが多く住んでいて、ご近所はほとんど父の同僚だった。お隣に住んでいた家族も両親の知り合いで、父同士の関係性は分からないが、母はお隣の奥さんと付き合いがあったので、てっきりママ友同士、仲がいいと思っていた。私は一人っ子の娘さんと時々遊ぶ仲だった。ある日、父と母が誰かの悪口を言っていた。内容からしてどうやらお隣の話らしいが、私が気になったのは彼らがお隣さんのことを「まるびんち」と呼んでいたことだった。当時はそれが何の意味なのか見当もつかないまま、父と母が物凄い剣幕で誰かを罵っているので、気味が悪くて仕方がなかったが、高校生になった頃にようやくお隣さんを貧乏と揶揄していたのだと気付いた。隣の一家はうちより先にマイホームを購入して、団地を引っ越していった。引っ越し後も付き合いは続いていたので、私は何回かおうちにお邪魔したときに見た女の子の一人部屋が心底うらやましかった。うちはまだ団地暮らしで、部屋を妹と共有していたうえ、無理やり習わされていたピアノがただでさえ狭い部屋の大半を占領していた。お隣さんの家に遊びに行った帰り道の車の中で、母はいつもママ友と一戸建ての悪口を言っていた。「あそこんちは子どもがひとりしかいないから金がある」とか「あの子は小学生になっても指しゃぶりがやめられない」とか「しょせん中古の家だから外壁が汚れている」とか。格下だと思っていたお隣さんが先にマイホームを手にしたことが、よほど悔しかったようだった。
私は混乱していた。両親はお隣さんをしょっちゅう罵っていたのに、付き合いは引越しのあとも続いていたし、お隣さんと実際に会うとき、母は何事もなかったかのように楽しそうにしていた。悪口を言うくらいなら会わなければいいのに、と腹が立った一方で、私も子どもながらに親を信じる気持ちでお隣さんは卑しく、下等だとうっすら思うようになった。しかしながら、罪悪感も多少はあって、娘さんと会ったときも考え事が多く、全く楽しめなかった。どうしてか、このお隣さんとの記憶は強烈で、常に他人や物事に対して懐疑的になったり、友人や恋人に対して試し行為を繰り返す要因のひとつになったと思う。
それから数年後、我が家も一軒家を購入して引っ越すことになった。私はようやく長年夢見た一人部屋を手にできるとあって、とても気合が入っていた。いろんな構想があったが、一番のこだわりはずっと自分の部屋にあった電子ピアノを新しい部屋には絶対に置かないことだった。物心つく前からピアノを習わされていたが、才能のかけらもなかった私はピアノが憎くて仕方がなかった。ろくに演奏もできないのに毎週教室に通い、先生にはため息をつかれ、発表会では一番簡単な曲も満足に弾けない。恥をかいた。ピアノは恥という概念を教えてくれた反面、自尊心を抉り取られる諸悪の根源だった。両親は引っ越し前に私の新しい部屋にピアノは置かないと約束した。しかし、引っ越し最終日にピアノは私の部屋にやってきた。すぐに違う部屋に移すと言われたが、私は信じなかった。両親に嘘をつかれたのはこれが最初じゃないからだ。子どもにとって引っ越しはやることもなく、一人部屋は嬉しいけれど、住み慣れた家を離れるのはなんとなく心細かった。すでに溜まっていた鬱憤がピアノで爆発し、私は怒った。自分の部屋で泣いていたが、気が済まないのでいったん部屋の外に出ようとしたら、父が殴りかかってきた。グーで頭を二回まともに殴られ、あまりの痛みに声が出なくて、ただ涙が出た。泣いている私に父は文句を言うなとか何かをだらだら言っていた気がするが、覚えていない。その後、一階に来いと呼ばれると、珍しく出前寿司が用意してあったけれど、何も食べなかったと思う。母は何も言わなかった。私もその夜は「あんなに優しい父があんなことするはずがない。何かの間違いだ。」と自分に言い聞かせて寝たが、翌日起きると、頭が腫れ、漫画のようなたんこぶがしっかり出来ていて、夢ではなかったことを確認した。10歳のときの出来事だった。
痛い思いをすれば私が黙ると学んだ父は、それから事あるごとに私に暴力をふるうようになった。一度やってしまえば、二度目以降は一緒らしい。殴る、蹴る、髪を引っ張る、壁や物を蹴って威嚇する。思いつく限りの暴行を受けた。なかでも一番ショックだったのは、恐怖で動けない私の頭をベッドと壁のあいだに挟んで潰そうとしたときだった。父は大柄で、成人男性の力はあまりに強く、痛かった。もちろん恐怖で動けなかったし、逃げ場はなかった。なによりつらかったのは、暴力と一緒に吐かれる暴言だった。お前はわがままで、卑怯な人間だと。努力をしないし、次のテストで結果が残せなければ、お前の居場所はないと。親がいなければ何もできない存在で、傲慢で非力と。子どもだった私は、それはそれは傷ついた。今まであった幸せな思い出の記憶を吹き飛ばし、何のための人生か、何のために生まれてきたのか、分からなくなった。母は父と一緒に私を罵った。父が私に暴力をふるっていることを知っていたが、「顔はやめろ」と言うだけだった。そんなに私のことが憎いなら、私を捨ててほしい。ダメな私を諦めて、新しく子どもをつくってほしい。はじめてはっきりと、死んでしまいたいと思った。殴られ、罵倒されながら、こんな辛い思いをするなら、殺して欲しいとさえ思った。
浮き沈みはあれど、私が大学に入って一人暮らしを始めるまで、父の暴力が変わることはなかった。結局のところ、私が尊敬していた父は一部の現実をもとに私が頭のなかでつくりあげた幻想で、その短絡さと暴力性が垣間見れる瞬間は何度もあった。運転中にカーチェイスを始めて、死にかけたこと、言葉遣いがなってないとかいう理由で店員さんと喧嘩をしかけたり、大声で母や私を威圧したり、と思い返せばたくさんある。だけど、子どもながらに自分は普通の家庭で幸せだと思いたかった。理由もなく両親を愛していた。誰かを愛せば、必ず愛が返ってくると思っていた。けれど、私は両親の期待通りに育たず、彼らの心中は愛どころか私に対する憎しみでいっぱいだっただろう。
結局、私は父にとって所有物で、他人に自慢できる要素がなければ、自分の思い通りにいかなければ、無価値どころか害になっていた。私が優等生だったのは小学校までで、それ以降は平凡、いやそれ以下の何者でもなくなった。もともと感傷的だった性格に家庭環境の悪化が加わって、メンタルが著しく悪化し、正直勉強どころではなかった。受験を経て入学した中学校は県内有数の進学校で、生徒同士の競争心を煽り、自尊心を奪う場所だった。なんとか両親の希望する高校には入ったが、大学受験のころには私の心はとっくに壊れてしまった。
私は大学に進学する際に、自分の戸籍謄本の写しを初めて見た。日本の戸籍は世帯主を筆頭に、その下には配偶者と子どもがずらっと並べられ、世帯主の両親、その両親の両親の情報まで載っていて、私と母、妹は世帯主の父に属している物だった。その書類をみたとき、直感的に一生、父から逃げられないような気がして、私はぞっとした。
女は子どもを産んで初めて一人前と言われていた時代があったが、男性は今でも、家庭をもってこそ社会的地位を確立できる風潮があると思う。結婚していないと出世に影響が出る男性のキャリアもあるらしい。戸籍のように、妻と子どもは夫に属しているものであって、男性という光を支える陰でなくてはいけない。父は私や母の前では威張り散らし、冗談まじりに、ときは本気で母をバカと呼ぶことがあった。だが一方で、寝ているときに悪夢にうなされていたり、上司の顔色を異常に気にしたり、ちょっとの怪我で大袈裟にのたうちまわったり、本当は臆病者だった。私は父の暴力がやむことがないと悟り、彼と口を効かなくなった。11歳のころだったと思う。とはいっても同じ家に住んでいるので、何回か彼に「仲直り」を申し込まれたことがある。「悪いと思っているから、これからは普通の家族としてやっていこう。いつまでも過去に囚われるな。」と。所有物が自分のもとを離れることが、私に捨てられることが怖かったのだと思う。彼を許すこともできたかもしれない。だが、私の脳裏に焼きついた記憶からは、彼を許す理由や情けをかける理由を捻り出せなかった。自分には許せるのか、考えれば考えるほどトラウマに苦しめられ、自分の人生に支障が出たので、私は物理的に距離を置くことを選んだ。日本を出てからも少なくとも数年間はPTSDの症状に苦しみ、今でも治療を受けているが、フラッシュバックの回数は少なくなった。自分ではだいぶ回復したと感じている。
父のような小心者には、光の役割は荷が重すぎた。だからといって男に生まれてしまったからには荷を下ろす選択肢もなかっただろうけれど、私が怒りを感じるのは、男性に対する過度な社会的期待は女性も苦しめることになるということだ。扶養家族というトロフィーがなければ男性は真っ当に評価されないのに、そのトロフィーは普段世間の目に触れることなく、ずっと戸棚にしまわれる。捨てられることはないし、かといって自分で戸棚を開けることもできないけれど、ずっと持ち主のためにそこに居なければいけない。家庭というものは、男性にとって社会的に肯定されるツールになる一方で、女性にとってはときには社会自体から遠ざかる原因にもなる。
ときに家族を守ろうとすることを父性と呼ばれるが、それは所有物に対する執念とどう違うのだろうか。子どもが生まれれば父性が芽生えると主張するひともいるけれど、それはあくまで血の繋がっている、自分を父親として彩ってくれる場合だけだ。私は殴られ、罵倒されるたびに父性について考えていたが、そもそも家庭を設ける目的自体が男女で違うのだから、父性神話など存在しないと結論付けた。いくら不注意で我が子を死なせても、辛い思いをさせても、世間で「父親失格」と呼ばれないのは、面倒をみる母親とは違い、子どもに関する最終的な決定権は父親に属しているという刷り込みがあるのではないか。
父の誤算は、トロフィーにも考える力があると知らなかったことだと思う。父は親戚付き合いが嫌いで、集まりにも行かなかった。私が知っている親戚は叔父と叔母だけなことに加え、彼らと付き合いがあったのは小学生のときまでで記憶は薄い。私が生まれたころには曽祖父母はとっくに亡くなっていて、祖父母は生きていたが、父方母方どちらの祖父母も外国嫌いで差別主義の典型的な田舎者だったので、苦手な存在だった。私の家族は両親と妹だけで、十分戸棚におさまる人数だ。父によって私は閉じ込められ、私が棚の外にでることはなかったが、その代わり、身の回りで起きる現象やその背景、心情をとことん考える時間だけはあった。
社会全体の出来事を取り上げて創作をする男性作家と比べ、女性作家の作品は個人の目線から当時の社会を読み解くことができる。この特徴は、まさに一人ひとりの女性の気づきから始まったフェミニズムを象徴する。私はずっと、つらい記憶を思い出さないように必死だった。忘れてしまいたいと願って、実際に忘れてしまった記憶もあると思う。しかし、どんなに時間が経っても振り返ればそこにいる記憶のしぶとさに、価値を見出し始めた。この世から暴力や有毒な思想がなくなることはないし、自分で忘れることができないのなら、書いて記憶を手放そうと最初は思っていたが、離婚や社会人経験を経て、日本社会は女性に対してあまりに暴力的で、力だけでなく、声すら奪っていると改めて感じた。個人の経験を通して社会問題を知ると、途方もない情けなさと怒りを覚えた。黙っていてはいけない。今は散々な現実でも、黙ってさえいなければ、いつか、どこかで、誰かの力になれるはず。そして、実際に現実を変えることもできるはず。これは自分だけではなく、今不当に扱われている女性たちにも伝えたいことだ。同じ場所、時代における個人の経験はどこかできっと共通するはずで、それは違う場所、時代になっても誰かを助ける。
考える力を与えてくれたトロフィー時代も、案外悪くはなかった。持ち主は死んだらそれっきりだけど、トロフィーは残る。運が良ければ、昔より少しはましなどこかに、また飾ってもらえるかもしれない。