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大学で学ぶと左に偏りやすい説④ 返り討ち

さてどう復讐しようか、私は考えた。大学を休んでいたせいで同級生が1人もいなかった私は非常に孤独だった。友達でもいたら愚痴って終わりだったかもしれないが、孤独だったことに加えて、私は昔からやられたらやりかえさなければ気が済まないタチだ。どんな手を使ってでもあの講師に嫌な思いをさせ返さないと気が済まなかった。

一年にわたる授業が終わってから間もない頃だった。私はFacebook上で講師を見つけた。当時、Facebookを日記のように使っていた私はあることを思いついた。講師に友達申請を許可されたあとは少し様子を見ていたが、熱狂的な民主党支持者らしく、予想通り彼女のライムラインはリベラル系ポストで埋め尽くされていた。もうアメリカに帰国しているらしい。

ふと、現地の大学での彼女の評判が気になった。周りの生徒は彼女を好いているようだし、もしかして自分の考え方に難があるだけなのかもしれない。彼女のフルネームを検索すると、生徒によるレビューが出てきた。どうやら熱狂的な信者がいる一方で、それ以上に「彼女の個人的見解に反対すると意地悪をされる」「非常に主観的で生徒の思考を操作している印象を受けた」「あなたが白人の民主党支持者なら賛同するかも」など、私と同じような捉え方をする生徒のほうが過半数だった。教えているのはどこも比較的リベラルな土地なのに、こんなこともあるのだなと私は驚いた。

私が経験した出来事は気のせいなんかじゃなかったんだ、と妙に自信がついた。私は子供の時から空気が読めないくせに、他人が何を考えているかを読み取るというよく分からない能力があった。これを言ってしまったらどうなるか結末はうっすら分かっているのに、自分の言いたいことを言いたい衝動は抑えられない、みたいな状態がずっと続いている。私は人がどう傷つくかを熟知していた。名指しで批判されるより、誰とは明言してないがこの人の悪口の矛先は絶対に自分だと自分だけに分かる状態が一番悔しい、と。

私は講師の名前は決して出さずに、彼女を批判する内容のポストをFacebookに複数回にわけて投稿した。それも生温いものではなく、「アメリカからきた自称社会学者に洗脳されかけた」と攻撃的な内容だった。我ながらどうしようもなく未熟で性格の悪い行いだったと思うが、当時の私はそれくらい腹を立てていた。彼女のように主観しか持ち合わせていない人はもちろん、その偏りまくった主観を鵜呑みにする同じ教室内にいた生徒も全部大嫌いだった。

ずっと溜まっていた感情を吐き出せてすっきりした私は、投稿した後に彼女をブロックする計画をすっかり忘れていた。それから数日経ち、私は当時彼氏だった元夫から薔薇の花束を貰ったことをポストした。すると、数分も経たないうちに講師の新しいポストが流れてきた。文章はなく、画像だけの投稿でそこには『薔薇は異性愛を強調する』と書いてあった。

直感でこれは偶然ではないと分かった。復讐は完了したと喜んでいた私は見事に返り討ちにあった。彼女は私を暗に「異性愛主義の差別者」と揶揄することで、私のプライドが傷つくと思ったらしい。たしかにそうかもしれない。私は異性愛至上主義者ではないのに、勝手にそのレッテルを貼られて嫌な思いをした。なにより、当時リベラル=知性だと半分信じていた私にとっては大変な屈辱だった。まるで私はインテリ層ではないと宣告されたようで、大学に残って研究をしたいと思っていた私は絶望すら感じた。

たしかに私の行動は浅はかだった。しかし、同時に私は本能的に彼女の思考回路が気持ち悪いと感じた。事の発端は講師自身の異常な自己主張と決めつけじゃないか。少しは自分を省みようとしないのか?色々考えてみたが、私の結論は、やはり「多様性も極めれば愚か」だった。残念ながら、私も講師のように病的な頑固者なのだ。

この出来事は私が「多様性」に疑問を抱くきっかけとなり、誰かに教わったことより自分が考えることを優先できるようになる自信につながった。包括的な社会を目指そうとするのであれば、自分以外の意見だって世の中の一部として捉えるべきであるところを、急進派はそれを知性の問題とか、知識が足りないと非難する。この思想自体が全くリベラル=解放的ではない、ではないか。

私は大学で学ぶ事で高尚な知識を取り入れたり、知的になれると思っていたが、それは大きな間違いだった。学んだ知識は取り入れる前に、自分の中で再度分別して考える必要がある。学校は所詮机上の空論にしか触れられない場所で、誰もリアルを知らない。だからこそジェンダー論やクィア理論は学問の分野で盛り上がりやすいと感じる。

ジェンダー論も、元々はそれぞれの性別らしさに呪われながら生きる必要はないといった解放の意味で謳われたはずが、徐々に「性別らしさ」から「性別そのもの」の話になり、ついには性別自体がなくなりつつある。それは思想としての完璧さと目新しさを求めた結果であり、目新しいものを信じることを知性と思い込んでいる人々による行いだ。

では大学で学んだことはまったくの無意味だったか、というとそうではない。知性を身につける上で役に立つ授業はある程度あった。そのなかでも特に記憶に残っている講義がある。

(次の記事に続く)