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キュビズムとホックニー(絵画表現のリアリティの理解のために)

「ピカソの絵はわからない。」私の小学校時代や中学時代の友人たちはいう。抽象画を見ると「ピカソだ」とも言う。
ピカソが有名な理由とわからない絵の代表になった理由は別だと思います。
今回は「わからなさの理由」について述べます。まず、「キュビズムと言うネーミングが悪かった。立体派では無く、どちらかと言うと平面派なのだ。平面の紙やカンバスに人物や風景を立体的に、あるいは遠近感を表現する方法は、ピカソ以前にすでに確立されていた。ダヴィンチ、アングル、クールベなどの方が十分に立体的に表現できていたのだ。ピカソの場合は、人物を正面から見た形、斜めから見た形、横から見た形を記憶しそれらを組み合わせて、あるいは再構成して表現した。当時ネーミングした人は再構成の部分に立体を感じたのかもしれないが、ピカソの絵を見たらわかるが、正面、斜め面、側面から見た形をそれぞれ平面的に捉え、それを組み合わせて表現しています。それぞれは平面的に処理されているのです。テキストに添えられた画像を見てもよくわかると思います。そういう意味で、立体派というより、幼児画の描法の一つである、多視点構図というネーミングが相応しいと考えます。多視点構図は、活発に動き回って、近づいたり、正面から見たり横から見たり、覗き込んだりして記憶したイメージの断片を組み合わせて描く幼児の表現法の一つです。実は、幼児ばかりではなく、大人の人間も日常生活では動いて生活しているので、(日常生活の中では写実画を描く時の様に、一箇所にとどまって観察する場面は珍しいものを見たとき以外はあまり、ありません。1箇所にとどまって一視点からものをみるのは、写実画家や日用画家が観察画を描くときの特殊な時間です。人間生活の中で観察画を描く時間は大人になったらほぼ皆無です。)観察画では無く記憶したイメージを絵にするときは、多視点で記憶した形を組み合わせて描くので、大人でも、普通に多視点構図になります。ネーミングした頃は、幼児画の研究も進んでおらず、多視点構図という名称もなかったのでしょう。セザンヌは気づいていた様にも思うのですが、当時も多視点構図という名詞はなかったのでしょう。
近現代の私たちは絵というものは写実的に視覚的に一視点構図で描くものだという概念が教育され常識になっていることが、ピカソや多視点構図に対する理解が行き届かない理由だと思います。ホックニーの写真の作品が、多視点構図の感覚的な理解に役に立つと思う。ホックニーの視点移動とともにずらして構成した写真作品とピカソのキュビスム時代の作品を見比べると、他視点構図に対する理解が、概念的感覚的に得られると思う。
人間は、動物でもあるから当然動きながら生活している。たとえば、人間は、花瓶と関わるとき、手にとって重さを確かめたり、真上から見て水を入れる穴を覗き込んだり、横から見て形の美しさを味わったり、安定するかどうか確かめるために底を見たりして、さまざまな角度からものを見て、それぞれフォーカスしてピントを合わせて角度ごとに一枚のカードとして複数枚分記憶する。画家ではない普通の人はこの複数の記憶を組み合わせて多視点構図を用いて一つのもの表現する。したがって、ピカソの絵やホックニーの写真は脳の記憶の仕方を再現していると考えることができる。二人の絵のリアリティはここにある。
したがって、美術史は「立体派」を「多視点構図派」とネーミングを変更すべきだ。このことはピカソばかりでは無く、「人間の表現にとって、リアリティとは何か」という問いに答えることになる。リアリティの正体は、立体感、遠近感もそうなのだが、視覚的な表現だけでは無く、五感や6番目、7番目などの他の感覚にリアルな質感表現や、記憶されたイメージや、脳内イメージ、感情的イメージなどによるリアルな表現も含まれる。視覚的に写実的な表現だけが絵の形式ではなく、脳も含めた体性感覚の他の感覚にとってもリアルな表現があり、「絵とは何か」という問への理解も深まると考える。
何人かの方に、いいね👍をしてもらって、なんなんですが、キュビズムを立体派とネーミングした日本の人がまずかったんだね。「立方体派」とすると、もう少し、理解が得られたかも、、、。

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