「時間がない」は言い訳だ
・・・・と、仲人ば~ちゃんに言われたことがある
(仲人ば~ちゃんとは、両親の仲人をした母の叔母のような方である)
なんの話からそうなったのか…あの頃はたぶん、子どもがいて、ひとりになったばかりの頃で、確かにいっぱいいっぱいだったかもしれない。だから、知らず知らず、なにをするにも「時間がない」が口癖になっていたのだろうと思う
「時間は作るもの」
仲人ばぁちゃんはこうも言った
「時間は誰にでも平等にある。それは他人に決められたものではなく、自分で自由に配分できるもの」と・・・・
例えば「旅行に行きたい」「買い物に行きたい」という欲求があったとして、そうしたいのにできない理由を「時間がない」からと決めつけたとする。しかし、急な事情で「実家に帰省する」「必要なものを買う」子どもの体調が悪いと連絡を受ければ「迎えに行く」さらには翌日に休みを取ってまで「病院に行く」など、性急な事態に迫られれば、都合をつけて出向いていくではないか。それこそがまさに「時間を作る」ことだと諭されました
な~るほど(*ノωノ)
そんな当たり前の行動に、わたしは感心させられた。「旅行」「買い物」…その他の欲求を満たすために時間を融通することは至極当たり前で、実はそう難しくもないのだと思わせた
大好きなアーティストの「コンサートに行きたい」となれば、事前に決定しているその日に合わせて休暇を取ることは可能だし、その日までにすべきことを前倒し、または調整することができる。または、どうしても欲しいバッグが限定品で購入が困難…となれば「初日に並ぶ」あるいは時間を見計らって「web発注」等々、そのための時間は惜しまずに配分するはずなのだ
いやぁ、なんというか・・・・頭をハンマーで殴られたようなそんな衝撃を受けました
逆に「やること」があるのについつい「テレビに見入ってしまう」や、掃除をしながら「漫画を読破してしまう」なんてことがありますが、わたし的に言わせてもらえばそれは、実は必要悪なのではないかと思っているんです。「休憩が必要」って・・・・
だって「見入って」しまったり「読破」するって、結局は好きなものを取り込んでいるわけですし、それをすることによって偶然思い出したり、思わぬ気づきが得られることがあるでしょう? だから決して無駄ではないと思うのです。いいわけですかね?
でも・・・・
こういう、当たり前だけれど見失っているもの…というのは、結構まわりにたくさんありそうです
最近は自粛だったり規制だったりと、不本意ながら窮屈な生活を強いられておりますが、皮肉にもそれすら「みんな平等」だったりしますね。ですが、それを理由に「やらない」を「できない」にすり替えていることがあるのではないか…と反省致しました
な~んで急に思い出したのかなぁ・・・・
仲人ばぁちゃんてね、わたしたち子どもにはとっても怖いひと、怖い存在だったんです。お顔もさながら、ちょっとでもお行儀の悪い態度をしようものならピシャリ…とね、だから仲人ばぁちゃんちに行くときはとても気を張っていたものでした
行儀見習いをしていた…と思えばありがた~いことではあるのですが、なかなかな圧迫感でしたから、ある程度になるまではそう親しみを感じられるものではありませんでした
(ひょっとして、わたしの圧は彼女譲りなのでは…? いやいやいやいや…)
仲人ばぁちゃんは今でいう「結婚仲買人」をしていたらしく、間を取り持ち仲人をした夫婦は何組もあったそうで、その中でも身内だった母の子どもだったわたしたち姉妹は、実の孫同然に大変にかわいがられていたようです。子ども自分には怖くて、そうは感じられずにおりましたが、自分が「親」と呼ばれる立場になってそれもようやっと理解したことでした
わたし、入院したばぁちゃんに対し「鬼の霍乱か」と言ったことがあって、母親にこっぴどく怒られたんだけれど、わたし的にはばぁちゃんに対する愛嬌のつもりで言ったひとことだった。いつもならばぁちゃんの方がガミガミ言ってきそうなのに、ばぁちゃんからお小言が発せられることはありませんでした。ですが、やっぱり病人に向ける言葉ではなかったですね…ほら、わたし空気読めないから (;^_^A
生前のばぁちゃんは、たくましくあきらめないひとでありました。こんな風に褒めていたら、祖母たちがやきもちを妬くかもしれないから、この辺でやめておきますね (#^^#)