神様のいるところ

腑に落ちると前にすすめる

高校2年の時だった
なにか取返しもつかない失敗をして落ち込んでるわたしに、前席の友人が
神様は本当にいるんだよ」と笑顔で言った
彼女は別に信心深いわけでも、特になにかに固執しているわけでもない。おそらくわたしを元気づけるために言った何気ない言葉だったのだ
だが、ただいるといったわけではなく、

たゆちゃんの神様はいるんだよと言ったのだ

わたしの神様?
そう、彼女曰く、わたしの神様は「いつもわたしのそばにいる」・・・と
いわゆる「守護霊」とか、「御先祖さま」辺りだろうとは思うが

わたしの神様は、わたしのために考え、悩み、わたしを導く
だから、どんなに最悪な状況に至っても、それはわたしにとって必要なことなんだと、彼女は言うのだ

その後わたしはどうしたか…
じゃぁこの失敗は大したことないんだ、と思った。これは自分が成長するための試練…とはよく聞く迷信だが、その時の彼女の笑顔がとてもきれいで、心からそう思えた

腑に落ちると安心する

…不思議なことにそれまでの不安が消し飛ぶのだ
これは神様ばかりに限ったことではない
ちょっと哲学的? 「そうすると、こうなる」「あぁすれば、そうなる」
そんな風に

納得させられると落ち着く

…それは訳も解らず咳き込んでいた人が「結核か?」「肺癌か?」と思い悩んでいたとして、いざ病院で「扁桃炎です」「気管支炎です」と言われて「…だと思った」と安心することに似ている。少々強引かもしれないが、人は病名が解ると安心する。子どもは病院に行くと治るみたいな?
だから、訳も解らないもやもやに「言葉(答)」を授けられると「あぁ」って安心するというわけだ。たとえそれがいるかどうかも解らない「神様」だとしても不思議と納得できるのだ

最近知ったことなのだが、
わたしは形のないものに『証拠』を求める性質らしい

今思えば、その笑顔のきれいな友人に対し「高校生のくせにスゲーこと言うな」って、「大人だな」って思うけど、当時のわたしは尊敬の眼差しよね「そうかぁぁぁそうなんだぁぁぁ」って、目を輝かせた

それ以来、悪い予感がするときは、ひそかに心の神に聞く
「これは最悪じゃない」「きっと回避できる」「絶対に大丈夫」って
おかしなものだが、悪い予感には「胸騒ぎ」があり、それがない時には
最悪は訪れない。これは「女の勘」というものに似ている

子どもというものは大概が親に反発するものだが、親に言われても合点のいかないことを友人や自分の味方だと思える相手に言われると、その言葉は一変して素直に浸透させられる。親こそが自分の味方だろうに、これは血に対する甘えなのか、ひっくり返った憎しみなのかしらないが、おかしな原理だ。身内ではない他人、第3者の意見が皮肉にも腑に落としてくれるのだ
へ~んなの
そうして初めて、「親の言う通り」だったことも知る。ここもおかしなもので、信用していないわけではないのになぜ他人に確認するのか、なぜ他人の言葉の印鑑が必要なのかということだ

そしてこの腑に落としてくれる相手に限っては、なにも「人」とは限らないのだ。飼っている「犬」だったり、庭を通り過ぎる「猫」だったり、やかましい「鳥」だったりすることもある。もしかしたら大嫌いなあの人だったりするかもしれないということ。そう、腑に落ちる「言葉」や「答」は、何気ない鳴き声であったり、なにかの行動であったり、他人の習慣だったりと、ひょんなところから生まれるのだ。こればかりは信用できる相手、信用できない相手に限らない

小説も然り。つまづくと進めない。けど「あぁ、わかった」が来るとサクサク進む。ついさっきまでの己はどこへ行った?…くらいの勢いで。まぁこれに関してはそう簡単でもないのだが

とにかく毎日はそんな奇跡に充ちている。見逃さずに過ごしたいものだ。歳を重ねれば尚更のこと、若気の至りで見過ごしたそれらを拾って「納得」して前に進みたい。知らないことは知らなくていい…ではなく、知らないことは損なのだとこのごろ思う。それは時短料理でもいい、近所の歯医者さんでもいい、愛犬の唸り声を聞き分けるだけでもいいのだ。そんな出会いが楽しいと思える今日この頃

(なんだか文章まとまってない気がするんだけど…)腑に落ちたからよし!

すべてに心から感謝致します


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たゆ・たうひと
いつもお読みいただきありがとうございます とにかく今は、やり遂げることを目標にしています ご意見、ご感想などいただけましたら幸いです