群衆とは何か?|『群衆-モンスターの誕生』

「群衆とは何か?」と長らく疑問だったのが今村仁司・著『群衆-モンスターの誕生』を読んでだいぶ理解が深まった。

忘れないうちに此処に書き留めておきたい。

本書の内容

群衆とは何か。近代資本主義の誕生とともに、歴史と社会の表舞台に主役として登場してきた群衆。二十世紀のナチズムもスターリニズムも群衆社会がつくりだした全体主義の脅威であったことは記憶にあたらしい。一体われわれは、激流のような群衆化傾向に対して抵抗できるのだろうか。ポー、ボードレールやニーチェ、メアリー・シェリーらの群衆への驚き、カネッティやモスコヴィッシの群衆分析、トクヴィルの民主主義論、ルボン、タルド、フロイトらの心理学的考察など、さまざまな視点からその怪物的性格を明らかにし、現代人の存在のあり方を根源から鋭く問う群衆社会批判。

近代の哲学者たちの考察をもとに、群衆の特徴を解き明かそうと試みたのが本書である。群衆に対する知見が網羅的にまとめられており、初心者でも比較的親しみやすい内容になっている。

この本を手始めに読んでみて、さらに知識を掘り下げたいならル・ボンやオルテガに挑戦するのが丁度良い塩梅だと思う。

群衆とは何か?

本書の内容を引用しながら、群衆とは何か?を整理していきたい。

まずは群衆の特質について。

群衆の特質

(1)「群衆はつねに増大することを望む」

増大しなければ群衆とは呼べない。

私は群衆が発生する瞬間から収束する瞬間までを体験したことがある。その時の増大の速度と爆発力には本当に凄まじいものがあった。

ドラえもんで「バイバイン」が登場する回では“栗饅頭”が無限増殖していくのだが、群衆が増大する際の恐怖もそれとよく似ている。

要はどこまで増えるか全く予想できない。

(2)「群衆の内部には平等が存在する」

群衆は立場を問わず平等に人々を飲み込む。モンスターたる所以だろう。

(3)「群衆は緊密さを愛する」

群衆は密集するという性質がある。群衆は真空を嫌悪する。そして密集すればするほど群衆としての威力が強まっていく。

(4)「群衆はある方向を必要とする」

群衆には目標が必要だ。時にはある者を排除するため。時には権力者を打倒するため。


群衆の類型

続いては群衆のタイプについて。

(1)迫害群衆

この群衆の目的は殺害にある。目標を定めたらその目標を殺害するまで手を緩めることはない。最もオーソドックスな類型と言える。

(2)逃走群衆

この群衆の特徴は全ての者が逃走する所にある。

危機は全員にとって同一のもの。典型例は自然災害だろう。

(3)禁止群衆

特殊なケースが禁止群衆。

この群衆は行為を禁止された際に形成される。その典型例はストライキ。

(4)顚覆群衆

顚覆群衆は既存の権力を打倒する際に形成される。

典型例はやはりフランス革命だろう。

(5)祝祭群衆

祝祭群衆は宗教的祭祀、収穫祭、ポトラッチなどの際に形成される。

他の群衆とは毛色が異なるように感じるが、祝祭群衆もその特質(増大、平等、緊密、方向)は共通している。


群衆についての著者の考察

次は著者の考察について整理していきたい。

群衆は、単に人間の集まりとして登場したのではありません。群衆は、単なる人間群でもなければ、人間の団塊でもありません。人間が寄り集まるだけでは群衆ではないのです。近代史のなかでの群衆のあり方を特徴づけることは、それがいくつかの社会現象のひとつとして登場したというのではなくて、それがひとつの決定的な社会的勢力(puissance sociale)として、また社会と歴史の原動力(moteur sociale)として、大きく登場したことにあります。

著書は群衆をただの人間同士の集まりではなく、明確な特性や目的を持った社会的な勢力と定義している。

そう言われてみると確かに、職場や学校に集まっている人間を群衆とは呼ばないし、また群衆とも思わない。しかし、それが上記のような性質を帯びると、その集団は途端に群衆へと変貌する。

近代社会における人間存在の根本性格のひとつは、「群衆人間」という言葉で言い当てることができるでしょう。近代人は、近代のさまざまな思想が理想として目指したように、自立・自律的であろうと絶えず努力してきましたし、また今後もそうあるべく努力しつづけるでしょう。この近代啓蒙の理想はけっして無意味ではなく、今もなお私たちの生活の規制原理であります。

これは現代日本においても当てはまる。大衆に迎合する多数派と、自立した個人として在り続けようとする少数派。

この構図は本当によく見かけるし、両者が対立する場面も度々散見されてきた。

近代哲学ないし近代啓蒙は自立・自律の理想的理念(自己立法可能性)を声高く主張してきたのですが、この理念は、近代社会の動きのなかで無化されるのです。啓蒙の理念は、群衆人間的生活者によって、掘り崩されるのです。そればかりでなく、自立・自律的人間を語る精神そのものも、しばしばたいていは、自覚するしないにかかわらず、群衆化することがあるのです。

しかし、多くの場合、少数派は多数派に飲み込まれる。民主主義国家であれば尚更だ。

現代の日本人はまさにこの葛藤の中をもが苦しみながら生きていると言えるかもしれない。

ホルクハイマーとアドルノの言葉を使うと、近代理性は「道具的理性」に変質するといってよいのですが、まさにこの道具的理性こそ群衆的理性なのです。

「群衆はバカ」というのは単なる俗説に過ぎず、実際は群衆にも理性が存在する。それが道具的理性と呼ばれるもの。

そしてこの道具的理性と資本主義経済との相性は抜群で、「両者が群衆化人間を量産する温床になっている」と著者は危惧する。

道具的理性(どうぐてきりせい、: Instrumentelle Vernunft)とは哲学用語の一つ。これはフランクフルト学派によって唱えられていた事柄であり、当時に広まっていた啓蒙思想を批判するという意味で用いられていた。啓蒙思想というのは当時に支配的であった宗教の教えに反し、科学的認識によって自然人間の支配下に置くことを可能とし、このことから人間は搾取を行うという形に変わって行くと考えられていた。このことから理性というものは実のところは自然や社会から搾取をするための道具に過ぎないと主張された。

wikipedia

道具的理性の詳しい説明。

ざっくり言えば悪知恵みたいなものだろうか。群衆が内包するインテリ・ヤクザ感についてもこれで説明が付く。

群衆とは、日常的な生活の流れに亀裂と切断が生まれて、秩序の安定性が解体に瀕するときに、生成するといえます。古い秩序が崩壊しているアナーキーな状態、これが群衆発生の基盤です。そこからもう一度旧秩序が再建されるのか、それとも新しい秩序が創造されるのかはともかくとして、この「宙づり状態」のなかでさまざまの群衆が蠢くのです。

万人が一様性という特質を帯びるのです。この状態を私は分身状態と呼びます。分身状態に落ち込んでいる人間を、心の動きから規定するならば、彼らは模倣欲望に動かされているということができるでしょう。

群衆の生成過程。

ここで私が強調しておきたいことは、群衆があまたある集団のひとつではないということです。群衆は集団や組織の一類型であるのではなく、むしろそれらを横断し包摂していくようなひとつの傾向なのです。

現代社会における群衆の恐ろしさの本質はここに集約される気がする。上下左右を超え、さらに集団や組織を超え、ありとあらゆるボーダーを超えて全てを包摂してしまう。

その中で必要とあれば指導者を生み出しながら、時にその指導者すら群衆は飲み込む。

もはや群衆はただの類型に留まらず、現象や災害に近い。

げに都会の生活の自由さは、群集の中に居る自由さである。……孤独を愛する人によつて、群集こそは心の家郷、愛と慰安の住家である。この発言はボードレールやポーと同じく、都市の雑踏の居心地のよさの感覚であり、都市的無関心の解放感である。こういうタイプの人間の集まりは「群集」という表現がふさわしい。しかし私が本書のなかで語りたかったのは、この「群集」ではなくて「群衆」である。「群集の人」の典型が、ベンヤミンが指摘したように「遊歩者」(フラヌール)だとしたら、「群衆人間」は強烈な破壊力を発揮する政治的パワーである。群集も群衆も魅惑するだろうが、魅惑の内容がまるで違うのである。

群衆と群集の違い。

もし群衆に煩わされたくなければ、都会に引越すのが良さそう。

多数ないし複数であることが、そのまま人と人との排除なき関係になるための条件を探究すること、これが私たちに課せられた理論的にして倫理的な重要問題になることでしょう。この課題を共同性の再構築と呼ぶならば、その問題の解決は群衆社会を超えたところに求められることでしょう。われわれが「群衆の人」でありつづけるかぎり、またわれわれが群衆精神にどっぷりとひたっていてそれに気づかないかぎりは、われわれが求める「共同の絆」( lien communautaire)は望むべくもないのです。

日本人が劣等民族と言われているのは、きっとこの「共同の絆」が存在しないからだろう。

権力や大衆には喜んで迎合するものの、日本人には横のつながりがほとんどない。困っている人間がいても助けないし、仲間を大切にする意識も低い。同調圧力は強いけれど共同体意識は皆無だ。

その原因となっているのが群衆精神。その観点はなかったため今回の収穫となった。

いずれにせよ、「共同の絆」の構築が日本人にとっての今後の大きな課題であることは間違いないように思われる。

まとめ

というわけで以上が本書の内容となる。

せっかくなので最後に私の経験した群衆について共有しておこう。その上でこの記事を締めくくりたい。

先程も書いた通り、私は群衆の発生から収束までを経験したことがある。その中で感じたのは群衆の表情の豊かさである。

不気味なのは終始一貫しているのだが、その中でも群衆は瞬間瞬間において次々に表情を変えていく。

祭りのような顔、神経症的な顔、強気な顔、弱気な顔、それら全てが一緒くたになった顔。

私は群衆の中で様々な顔を見た。

渦中にいる間は否が応でも臨場感とダイナミズムを感じざるを得ず、自分が自分ではなくなるような錯覚を起こした。普段の自分では考えられないような事も平気でしてしまった。

兎にも角にも様々な感情を強制的に引き出すのが群衆と言える。その際に完全にコントロール感を失ったことが私にとっての最大の恐怖であった。

その経験から分かったのは、群衆は人や場所を選ばず、ほとんど偶発的に発生すること。そしてひとたび群衆が発生すれば目的が達成されるまで事態が収束することはない。

普段は外から眺めることが多いが、中に入るととても正気を保っていられない。それが群衆の恐ろしい所だ。

この話にオチを付けるとしたら、その群衆を生み出した張本人こそ私ということである(犯罪とかではない)。

以上。


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