シドニーマラソン② ブルーマウンテンズを歩く
クーパー家の父、グレッグがリビングで待っていてくれた。
足を引きずりながら帰ってきた姿を見たのか心配そうに声をかけてくれる。グレッグも今回のシドニーマラソンに向けて準備をしていたそうだが、故障により出場を断念。
今朝はスタート地点まで朝早くから送迎をしてくれ、捨てていい上着まで与えてくれた。
彼のサポートなしではまた別の苦労を伴っていたことを考えると本当に感謝でしかない。
少し話をしていると、どこでギブアップしたのかなど聞かれる。最初はニュアンスの違いなのかと、ペースを維持することを諦めた地点のことかと思ったが、やはり話が噛み合わない。マラソンに出場したことのある人、または知り合いの状況を追跡したことがある人なら、現在は色んなマラソン大会で5kmごとの通過タイムをリアルタイムで知ることができる。
グレッグも私のタイムを確認していたようだ。
すると5km以降のタイムが更新されていないので早々に走るのを辞めていたと思っていたらしい。
走る前にアキレス腱の不安を伝えたこと、帰ってきた時には足を引きずっている姿、辞めたと思われるには十分な理由な。
「No, no. I finished」
「Oh, you finished」
完走メダルを見せ、ゴールタイムを伝える。クーパー家の母、ひとみさん、3女のフラーも降りてきて全員に安堵の表情が。みんな私が棄権した場所からどうやって帰ってくるのかを心配していたらしい。
クーパー家はみんな「Haraguchi」と私のことを呼ぶ。そのため検索でもHaraguchiと名前で調べていた。よく検索で出た記録を見ていると名前違いの原口さんがもう一人いてそちらが表示されていた。偶然にも今大会もう一人の原口さんが途中棄権していた。
私の名前が出てこなかったのは、何を間違ったかエントリーの時に漢字で名前を入力していたので「Haraguchi」では見つからないわけだ。
スタートが早かったのでマラソンを終えて帰宅してもまだ10時半。とりあえず色んな疲れがあり一休みすることに。階段を上るのがまた一苦労。フラーは先月に行われたU20世界陸上の800mにオーストラリア代表で出場している。いつも一段と進歩している彼女に会うのも楽しみの一つだ。
マイペースでおっとりしているフラーだが競走だけでなくランニングを取り入れた生活、ランニングを通して出かけられる冒険、外の国に出かけ、色んな人と走れること、を楽しんでいるように見える。
今日は日曜日のロングランの日で昼過ぎには走りに出かける。
一眠りしてリビングに降りるとグレッグがラグビーの試合があるので見るかと誘われる。
これまでじっくりラグビーを見たことはないので「Sure」の一言。
ラグビーにもラグビーリーグとラグビーユニオンというのがあるそうだ。日本で一般的に言われるラグビーは後者のラグビーユニオンでワールドカップなどの代表に出る選手もラグビーユニオン側の選手だという。今日見るのはラグビーリーグの方で、NRLという最高峰のリーグがオーストラリアにある。オーストラリア国内でもラグビーリーグの方が人気は高いそうだ。グレッグの応援するチームの敵チームはクーパー家の近所のエリア、シドニーの観光名所の一つでもあるマンリーに拠点を置く。
近所だがマンリーのチームは好きでないらしい。
グレッグからルールを聞いていると、ひとみさんも降りてきて一緒に観戦。
「なんかマンリーは好きじゃないんですよね」と。
得点のチャンスになると「Come on」とグレッグが興奮気味になる。
フラーが通りざまに「I don’t like Manly. I don’t know why」と呟く。
今回のラグビー観戦で分かったことはラグビーにも種類があるということ。クーパー家はマンリーが好きじゃないということ。
ラグビーの試合が終わる頃には夕食どきだ。夕食が終わると少しの団欒があり、グレッグがゲームをやろうと誘ってくれる。
ドイツのBluffというゲームだ。
ちなみにクーパー家には私と同年代はいない。子供たちは10-15歳ほど下だし、グレッグ、ひとみはだいぶ上になる。友達です、ともいえないクーパー家との関係。それでも毎回シドニーに来たら泊めてもらい、日本に来たら会う。
旅をする中で一番嬉しいと思うのは「受け入れてもらえる」を実感する瞬間だ。
練習を2回、本番を2回の4ゲームを終えたらみんなおやすみタイム。
シドニー3日目。
ベットから起きて、おそるおそる踏み出した右足の一歩は痛くはあるものの、予想よりは良かった。少なくとも足首をやや曲げることができる。
今日は早朝からブルー・マウンテンズへむかう。シドニー周辺でも東京に比べるとだいぶ自然が多いのだが、ここ最近は山に惹かれることが多い。
6時半にグレッグが仕事に出発するというにで(通勤ラッシュを避けるために早めに出発してジムで運動をするらしい)一緒に乗せてもらい、シドニーのセントラル駅で降ろしてもらう。
ここからは電車で約2時間。それほど混んでいるわけではないので2列席を一人でゆったりと使う。
自分のスペースが確保された席で車窓からの景色を眺めるのは思ったよりも落ち着く。以前に池袋から秩父までの特急電車に乗り、車窓からの景色を眺めながらゆっくりすることを目的に往復したことがある。都会から田舎へ向かうと景色が徐々に建物中心から芝生の広大な公園、そして木々が広がる山へと変わっていく。
オーストラリアには400mの芝生のトラックが存在する。ブルー・マウンテンズに到着するまでに3つくらいは発見したと思う。
しばらくするとお腹も空いてきて、ひとみさんが作ってくれたバナナブレッドを頂く。タンブラーに入れたコーヒーを片手に膝の上にはバナナブレッド。視線の先には広大な自然。
いい気分だ。
10時前には到着。
「Taka」
電車を降りるとすぐにスミが待っていてくれた。
今日は彼女がガイドをかって出てくれた。スミと知り合ったのは2017年に参加したランニングクラブの合宿の時だ。現在は大学で心理学の勉強をしつつ、カウンセラーの仕事をしている。ブルー・マウンテンズからさらに1時間半ほど内陸に向かった町に住んでいるそうだ。
2018年に日本で会って以来、6年ぶりの再会。今日のハイキングを楽しみにしていたので昨日のマラソン後はハイキングは中止も考えたが、支障がないとは言えないが、歩く分にはなんとかなりそうなので決行することに。
おすすめのハイキングコース。
「それならグランドキャニオントレックがいい」
今日のプランは全てをスミに任せた。
ブルーマウンテンズの標高は約1000m前後。すでに山の上にあるのでトレイルコースのほとんどは最初に下って、谷底を歩くように進み、最後に上る。登山などとは逆のパターンになる。
駐車場から少し歩くと下りの階段が見えてきた。
今の足の状態からすると下りの一歩一歩がそれなりダメージとなる。
それでも徐々に自然の奥深くに入り込んでいくような体験は痛みの感覚も紛らわしてくれるようで歩きたくないとはならない。
岩場のような道を進み、周りは植物に囲まれ、渓谷沿いに出たり、滝の裏側を通ったりとアドベンチャーに乗り出した気分だ。
スミも以前はフルマラソンをいくつか完走するランナーだったが、現在はあまり走っていないようで、足にダメージを負っている自分の方がそれでも速く進む。
何度も一方の道から川を渡りもう一方の道へと行き来しながら進む。上をみると二つの巨大な山の谷底にいるように思える。
岩に囲まれているので途中の道から遠くを眺めるような景色は基本的にない。7月に行ったカナダでのハイキングや登山はまた違ったタイプの経験だ。
山というよりも本当に谷を歩くと行った方がしっくりくる。上りというのは本来は嫌なのだが、今回に限っては階段を上る際は足首の角度があまり付かないので痛みが少ない分助かる。
基本的に上り下りは階段道となっている。最後の階段を上った先には絶景ポイントが待っていた。実はこのポイント駐車場のすぐそばにあり、この風景を見るだけなら歩く必要はほとんどない。登った人にしか見れない山頂の風景ではないのだ。
歩いていて人とすれ違うことはしばしばあったが後ろから人が追い抜いてきたのは一度だけ。
最初に絶景を見るよりも最後に見た方がいいだろうと、通常とは逆走のループをスミが選んでくれいた。
手作りのサンドウィッチを用意してくれて、広大に広がる木々を眺めながらの昼食は最高だ。
一息ついて立ち上がると右の脹脛の痛みが倍増したように感じる。痛みが増したわけではない。歩くと決めていた覚悟がなくなった時はこんなものだろう。昨日のレースで途中で歩かないようにしたのも、耐えると決めた覚悟が消えた時に襲ってくる痛みへの恐怖だったのかもしれない。
くると分かっている痛みへの覚悟が消え、来ないでほしいと思う願望に切り替わった時にくる痛みは同じ強さでも感じ方はかなり違う。
駐車場までの数百メートルの歩行が地獄のようだった。
ここからスミが車でいくつかの絶景ポイントに案内してくれてた。
17時くらいには町に戻り、スミの夫のブレアも合流。3人で夕食をとる。
二人は現在家を建設しているようで、デザインは自分たちで行い、自分たちでできるところは自分たちで、できないところだけを業者に頼っているそうだ。
田舎のスローライフを楽しんでいるように思う。ブレアもランナーでフルマラソンサブ3まであと1分に迫っているがそこからが中々記録を更新できずに燻っているようだ。
毎年2月にブルーマウンテンズで行われるSix Foot Track Marathonという45kmのトレイルレースがある。ブレアは2度完走したことがあるようで、今日のようなコースを下って、上ってを繰り返して走るタフだが素敵なレースといわれる。
2026年のレースに参加できればと考え中。
2016年に訪れたブルーマウンテンズの合宿では色んなトレイルコースを走ったが、ブルーマウンテンズのトレイルは道幅がそれなりに広く、並列して走れるところも少なくない。
しっかり準備してマラソンを走っていれば軽いジョギングくらいはできるダメージですんだのではないか、と二人からこちらの山の話を聞いているとまた準備不足の後悔がよぎる。
ホテルの前まで送ってもらい二人は帰っていく。
英語で話すことにも慣れてきたとはいえやはり第二言語。肉体的な疲れだけでなく、神経的な疲れもあるのかこの日はシャワーを浴びてすぐに眠りにつく。
目を覚ましたのは7時過ぎ。この時間まで寝ていたのはかなり久しぶりだ。
足の状態は昨日よりもまた少し良くなっている。
朝の散歩がてら、ブルーマウンテンズでは一番の観光スポットであろう、スリーシスターズと呼ばれる3つの岩を眺めるポイントまで歩く。標高もあることから気温は低く空気は冷んやりとする。
ポイントにつくとこの時間はまだ観光客もほどんいなく、二、三人しか見当たらない。
雄大な自然を眺めながら鳥の鳴き声が時々響く。
好きな時間に起きて自然の中を散歩する。今回やりたかったことの一つで一泊したのもこのためだ。オーストラリアでしかできないことではないので、日本でも定期的に一泊で出かけてみるのもいいかもしれない。色んな想像を膨らませながらまたホテルまでの帰り道を歩く。
カフェでゆっくりと朝食を済ませ、昼過ぎの電車でシドニーに帰る。電車の中で食べれるように駅近くのSubwayでサンドウィッチを購入。今だにSubwayのシステムをよく分かっていないので注文には手こずる。
夕方にチャッツウッドというエリアでひとみさんにピックアップしてもらう予定。そこからフラーの練習に一緒にいくことに。
待ち合わせの場所に車がやってきた。運転しているのはフラーだ。こちらでは16歳で免許が取れる。現在は蹴り免許中で免許を持つ人が同乗する場合には運転が可能だそう。
初めて会った時は小学6年生だったフラーがもう運転していることにびっくりだ。
400mの芝生トラック。到着した頃にはクラブのランナーたちがウォーミングアップを始めていた。フラーも合流して女子のグループと共に走り始める。
この日は3分走×6本の練習。トラックの外側のレーンを逆走(陸上競技では左回り、反時計回りに走るのが基本)する形での練習だ。日本の公共のトラックでは危険なため貸切でもしなかぎり逆走で練習することはできない。
カーブを走ると身体の使い方が左右で異なるので一方向ばかりに走ると負荷が偏ってしまうため、定期的に逆走で走ることを行う。
中距離などトラック競技を中心に練習するランナーはトラックでの練習頻度も多いのでこのような工夫も大事だが、たまにトラックを走る程度なら気にするほどでもないかもしれない。
コーチのBenの声はでかい。3分が経過するとトラック全体に響く声で終わりの合図をする。男女合わせて15人くらいはいただろうか。全員が違うポイントで同じタイミングで止まる。
そしてまた次のスタートの合図で一斉に走り出す。
一人の女の子が途中で練習を終えて待機場所に戻ってきた。ひとみさんが「あの子Miaっていうんですよ」
「えっ、あの日本で一度トレーニングをしたMiaですか」
「そうそう。そういえばお会いしてましたね」
「全然気づかなかった」
ミアという大学生の女の子。2022年に日本に旅行に来た際にトレーニングを受けたいと連絡があり、一度コンディショニングを行ったことがある。
彼女のもとに行くと、向こうも気がつき挨拶を交わす。
怪我が長引いていたがまた走れるようになってきたそうだ。
この年代の女子は身体の変化など色んなことがあり怪我が多発することは日本だけでなくこちらでも同じようにあるという。まずは元気で走れていることが何より。
フラーも練習を終えたので帰ることに。今日も色々と長い1日だった。