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『エビデンスを嫌う人たち』L・マッキンタイア著 読了

<概要>

「地球は平らである」など、各種科学否定論者の紹介とその思考方法、および彼らに対する説得方法について論じた科学哲学者の著作。

<コメント>

本書のタイトル『エビデンスを嫌う人たち』は翻訳者または編集者による意訳で、本書にエビデンスに関する記述はほとんどありません

本書の原題をそのまま訳せば「科学を否定する人々とどうやって話すべきか(How to Talk to a Science Denier・・・)」という感じです。

結論的には、

科学否定論者に寄り添い、人間的信頼を得たうえで、誠実に事実を説明して説得すればよい

ということ。最悪なのは頭ごなしに相手を否定すること。以下、著者の名言

「足りなかったのは情報ではなく信頼だった(本書124頁)

信頼を築き、敬意を示し、話を聞き、冷静でいるよう努めるべきなのだ。同意できないからと相手に敵意を向けてみても、反感を買うだけだ。

本書139頁

科学否定論者に対する説得方法は、科学否定論者に限らず、いかに異なる意見の人を自分の意見に同意してもらうか、という相手を説得する方法としても納得のいく手法ではないか、と思います。

⒈公と私の使い分けが大事

さて、これまで哲学を学んできた自分としては、本書の内容は、若干違和感を感じる内容。科学だけが絶対だとして、科学とは相いれない他の考え方を「間違っている」と否定することに違和感を感じてしまう。

遺伝学者のリチャード・ドーキンスが『神は妄想である』として科学的視点でこれでもかとばかりに「神の存在証明」を否定する著作がありますが、これに通じるものがある(詳細は以下参照)。

本書に登場する「地球は本当は平らである」というような極端な科学否定論であっても、私の考えではそれはそれで一つの考え方であり、それを信じる彼らにとっては「正しい」ことです。

それはアイデンティティであり、信念。思想として「地球は平らである」ことを信じており、信じることによって連帯感が生まれ、彼らは救われているともいえる。

実際に本書でも「フラットアース国際会議FEIC(Flat Earth International Conference)」という地球が平らであるという考えに賛同する人たちの集まりがあるのですが、この辺りは宗教の構造と同じです。

ちなみに本書でも、熱心なキリスト教徒の科学否定論者も登場します。「進化論はおかしい」「神は存在する」など。これらも彼らにとっては「正しい」わけで、それを科学的視点から「おかしい」というのはナンセンス。

神の存在や創世記について科学的にはいくらでも否定できるでしょうが、それはあくまで「キリスト教・ユダヤ教を科学の物差しでみれば」という条件付き。

宗教の世界観に科学を持ち込んでもあまり意味がありません。

科学的思考しか認められないのであれば、世の中の14億人いるというイスラーム教徒をはじめとした世界中に存在する宗教信者は、どうやって生きていけばいいのでしょう。むしろ何も信じていない無宗教者の方が世界的にはマイナーな存在なのに。

しかし、この辺りへの言及は残念ながら本書にはありません。

科学だけが正当であり、それ以外は間違っている」という著者のような考え方でしたら、すべての宗教は成り立ちません。

大半は無宗教たる私たち日本人でさえ、神社仏閣で「おみくじ」を引いて一喜一憂し、厄除けに神社に行って安心し、初詣に行ってお祈りするなど、私たちは科学的視点からはみれば「トンチンカン」なことを、今でもありがたくやっている。

むしろ大切なのは「公と私」の使い分けではないかと思います。

「公」の領域では、科学はじめとした啓蒙主義で正しいか間違っているか、を判断し、「私」の領域ではそれぞれの個人信条に従う、というように、私たちの中に二つの領域を保持するのがより納得的な世界解釈の方法ではないかと思います。

そういう意味では著者のいう「教科書に進化論を当然掲載すべき」というのは同感です。教科書ではこう書いてあって公の世界では進化論だけれども、家に帰って信仰の世界に入れば「この世は神が創造した」でいいのではないでしょうか。

とはいえ、本書は「科学否定論者の類型」について、(科学否定論者に限らず)私たちの価値観(などの思想・信念)を信じる構造が、きれいに分析されていて興味深い内容になっています。

⒉科学否定論者の類型

科学否定論者が自分の考えを信じる類型としては「以下の5つの類型に整理できる」と言いますが、これはすべての信念(価値観や思想)に当てはまりそうです。

⑴証拠のチェリーピッキング

自分にとって都合のよい証拠(=チェリー)だけをピッキングして自分の考えを信じる。でも誰でもそうしますよね。

古代ローマ帝国のカエサル曰く「人は見たいものしか見ない」。20世紀最大の哲学者ともいわれる「マルティン・ハイデガー」も同じようなことを言ってます。

⑵陰謀論への傾倒

著者によれば陰謀論とは「なんらかの邪悪な目的を達成しようとする悪意をもった闇の勢力に関する言説」とでも定義できるかもしれない。とのことですがこれも何を「闇の勢力」と認定するかは、人によって異なるので、陰謀論と認定することも難しい。

ただ、本書で納得できるのは何らかの大災害が起きたときに「陰謀論」は拡散しやすい、傾向があるということ。今回のコロナでもさまざまな陰謀論が登場したのは記憶に新しい。

⑶偽物の専門家への依存

これも判断が難しい。誰が偽物で誰が本物なのか、どうやって私たちシロウトは判断すればいいのだろう。最近は最も信用のおけるマスメディアさえ信用できなことがある時代です。ひたすら自分のリテラシーを上げていくしかないのかもしれません。

⑷非論理的な推論

基本的にロジックだけで成立する信念は、科学や哲学の世界なので、この辺りで似非科学や陰謀論は否定できるかもしれません(ドーキンスのように、同じ方法で宗教も否定可能ですが)。

本書の中に具体的に活用できる好例が紹介されています。

あなたは、相手の理論を信じているわけではないと明言しつつも、もし説得力のある証拠を持っているのなら喜んで検討する準備がある、と最初に伝えることができる。

本書147頁

とし、自分の考えとは異なることを明示したうえで、相手の理論を真摯に受け止めてその理論を理解しようと努力することです。そのあとで自分の理論を冷静に伝えるという方法。

相手の理論には相手の理論なりのロジックがあるはずで、そのロジックをちゃんと受け止めたうえで、自分の理論を説明しないと、相手が「そういう考え方もあるかもしれない」というふうにはならないのでは、ということです。

⑸科学への現実離れした期待

エビデンスとはそもそも何か?」でも紹介した通り、科学の理論が定説に至るには、その理論を複数の専門家が証明したり、間違いがないかチェックしたり、など何段階ものステップを踏んだうえで固まっていくものです。

一方で、科学では新しい証拠が絶えず登場し、定説であっても当たらしい証拠によって修正されたり、捨て去られたり、と、常にアップデートされる性格を持ちます。

したがって科学への過剰な期待を逆手にとって科学否定論者が、だから「科学は信用できない」とするのではなく、この科学の特性を前提に理解を得る、ということ。

科学ではなにかを正しいとみなすために確実性を証明する必要はない。その代わり科学には「保証(理由づけ)」という考え方がある。これはつまり、ある理論を支持する十分な証拠があり、かつ、その理論に反証がないか厳格に検証されている場合、将来新たな証拠が出てきて覆される感応性は常にあるにせよ、現時点でそれを真実だと信じる合理的根拠があるとみなせるということだ。

本書100頁

この後、本書では「気候変動は人為的要因であること」「ワクチンは有効であること」「遺伝子組み換え植物は安全であること」など、すでに科学的には定説となっているにもかかわらず、否定論者が多い理論についての具体事例の詳細が項目立てて多くのページが割かれていますので、興味のある方は一読をお勧めします。


ちなみに多くの日本人は「遺伝子組み換え」については懐疑的なので、日本にも多くの科学否定論者がいる、ということです。

*写真:モロッコ・シャウエン「青の街」。2024年11月撮影


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