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「兵庫の風土」瀬戸内式気候が育む「播磨」
播磨は瀬戸内式気候で、雨少なく一年中比較的乾燥した地域。
乾燥した地域では、穀物は米よりも小麦や大豆に適しているため、小麦・大豆の栽培が盛んになります。しかも年間当たりの降雨時間が少ないから、天日干が必要な海岸沿いでの塩や皮革の生産にも適している。
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さらに瀬戸内海周辺は、約1億年前の火山活動の関係で「花崗岩」や「流紋岩」などの二酸化珪素成分の多い石が多く分布しているため、麹菌が嫌う鉄分がほとんど含まれていない一方、カリウムなど酵母の栄養となる成分が多い、という地質上の特徴あり。
特に播磨の龍野地域を流れる揖保川周辺は花崗岩が多く「醸造」に適した地域なのです。
⒈うすくち醤油の発祥地「龍野」
関西といえば「うすくち醤油(淡口醤油)」が有名で、私たち関東人からみるとうどんやそばのつゆの色が薄く、違和感あるのですが、薄い色になぜなったかというと、江戸時代初期に龍野でうすくち醤油が開発されたから。
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かつて龍野では酒造りが盛んだったのですが、水がミネラルをあまり含まない「軟水」だったため、発酵に時間がかかり非効率。
一方で酒造りのライバルだった摂津の灘五郷は「宮水」といって若干のミネラルを含むソフトな「硬水」系だったため、発酵がはやく生産効率面で龍野に比して優位。しかも発酵が速い、ということは辛口になるということで消費者にも人気が高い味。
このため龍野の蔵元たちは酒造りを諦め、醤油生産に業態転換したのです。
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たつの市内にある、うすくち龍野醤油資料館によれば、揖保川が中国山地を出た、流れが緩やかになるあたり、つまり龍野旧市街のあたりで、醤油生産が始まります。揖保川の軟水と播磨平野の小麦、中国産地の山間で生産された大豆、これに赤穂の塩を利用して醤油生産が盛んになります。
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龍野の醤油は、軟水のため発酵がゆっくりで塩水の濃度を通常よりも濃くしつつ(だから色が薄くなる)、甘酒を最後に加えてまろやかにした醤油。したがって味は「うすくち」ではなくむしろ普通の醤油よりも塩味が強いので「濃口」なのです。だから薄口醤油は「淡口醤油」。
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現在では、菊一醤油造と浅井醤油が合併してできた「龍野醤油」が改名した「ヒガシマル醤油」が有名ですが、他にも醤油会社が七社。計八社が生産しているとのこと。
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⒉「揖保乃糸」は組合制で会社ではない
龍野のもう一つの特産品「揖保乃糸」ブランドのそうめん。実は「揖保乃糸」という会社があるわけではなく、龍野のそうめん生産者400名超の協同組合「兵庫県手延素麺協同組合」のブランドなのです。
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各生産者の品質基準を明確にし、等級に分け、生産・販売。実際に工場をみると、ほとんどの工程が機械化されているものの「手延べ」という麺を伸ばす工程だけは気温や湿度の微妙な変化の関係で機械化できず、今でも「手延べ」に頼っているそう。
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これは私たちがスーパーで買っている赤帯の普及品「揖保乃糸」でさえも同じだそうです(詳細は以下参照)。
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龍野は、麺が白くなりやすい揖保川の軟水、播磨平野の小麦、赤穂の塩など、品質よく豊富な原材料があること、瀬戸内式気候で雨が少ないので、そうめんの天日干しに適していたこと、近隣農家の勤勉な労働力があったこと、揖保川から瀬戸内海への水運が発達していたこと、などの理由でそうめん作りが盛んになったとのこと。
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*なお、組合方式は小豆島のそうめん「島の光」も同じ。「揖保乃糸」と「島の光」の大きな違いは、油の違いで、揖保乃糸は綿実油で島の光は(カドヤの)ごま油。
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⒊赤穂の塩はなぜ赤穂なのか?
赤穂は、赤穂義士(地元では赤穂浪士ではなく赤穂義士だそう)と塩が有名ですが、今でも塩の生産は行っているものの、赤穂ならではの塩は、江戸時代に開発された「入浜式塩田」が塩生産が盛んになって以来。
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赤穂は、千種川の河口にあり、東岸の塩田は東日本や北国向けに大粒の塩を生産し、西岸の塩田は小粒の塩を生産するなど、全国屈指の塩の生産地。
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赤穂市沿岸は遠浅のため、千種川が運ぶ細かな土砂が河口部に堆積し、広大な平地を形成する一方、瀬戸内式気候という降雨の少ない気候のため、海水を乾燥させるのにちょうど良い地。しかも瀬戸内海は干満差が大きいために、満潮時だけ塩田に海水を取り込むことで他の地域のように海水を撒く手間がなく、生産コストも生産性も日本随一。
実際に赤穂市を訪れると「塩の国」という観光施設がかつて塩田があった場所にあって、実際に塩作りの体験ができます。
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ここでは明治時代に発明された近代的製塩方式=流下式塩田で採取したかん水を使用して塩作りが体験できます。海水の塩分濃度は3%ですがかん水は15〜20%なので、これを煮詰めることで塩ををつくることができるのです。
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入浜塩田も、塩田でそのまま塩を取り出すのではなく、表面の塩を含んだ土を海水に取り込ませ、漉して「かん水」を作り、これを煮詰めて塩を作っていたとのこと。
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⒋日本一の皮革生産
平安時代末期から播磨は皮革の生産地として栄えていたというから、相当に古い歴史を持ちます。中国山地は但馬牛に代表されるごとく牛の生産も盛ん。その中国産地を源流とする市川や揖保川、林田川沿い播磨平野で皮革生産が盛んになります。中でも市川沿いの姫路市高木地区が有名。
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やはり皮革生産においては、そうめんや塩と同様に瀬戸内式気候は「雨が少ない」という点が重要で、皮の天日干がしやすい気候。川沿いでの皮なめしもしやすく、皮革の保存や処理に必要な塩の調達もしやすかったのです。
さらに消費地の大坂・京都などが水運を通じて大量に運べる環境があったからでしょう。
昔ながらのなめし手法は、川とそこに棲むバクテリア、塩、菜種油だけで完結させる、重労働の仕事。
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化学薬品が発明されてからは、ほとんどが薬品による「なめし」に切り替わったとのこと。ちなみに、薬品を使ったなめしがおよそ1カ月で全工程を終えるのに対し、従来の薬品を使用しないなめし「白なめし」では2〜4カ月かかるなど、大変な手間がかかるので、昔ながらの白なめしを行っている職人は1名だけになってしまったそう。
それにしても1000年以上続く伝統の技術を継承する方が一人のみとは、残念です。
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⒌姫路城という奇跡
天下無双のお城「姫路城」は瀬戸内式気候とはあまり関係ないのですが、播磨を代表する(というか日本を代表する)国宝の城なので、ちょっと紹介。
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実は私は母の実家が姫路なので、子供の頃から何十回姫路城を訪れたか、わからないほど訪れています。とはいえ先日大天守の「平成の大改修」が終わり、
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見事に真白になった姫路城は初めて訪れました。
なお、お城(主に天守)の色によって何系のお城かがわかります(熊本城など例外あり)。
*白いお城=徳川系(姫路城、二条城、名古屋城、彦根城・・・)
*黒いお城=豊臣系(松本城、岡山城、広島城・・・)
なので、姫路城は徳川系のお城。まさに徳川家康の娘婿「池田輝政」が築城したお城。ちなみに黒=黒漆、白=漆喰で、技術面から後代になればなるほど漆喰の優位性から白い城が多くなった、というのが実情らしい(朝日新聞記事)
母の家族からはいつも姫路城の奇跡について教えてもらってました。それでは姫路城の現存天守が今も残されているという姫路城の奇跡とはどういうことでしょうか?
それは、度重なる廃城のリスクの回避と姫路城という稀有の遺産への日本人の気持ちが、漏れなくすべて整ってはじめて残った、という奇跡。
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⑴江戸幕府の一国一城令の回避
幕府の中央集権化の一環としての一国一城令に基づき、多くの城が廃城になりましたが、西国を統治する重要な拠点だった播磨の姫路城は廃城を逃れた。重要だったが故に姫路藩主は、実力のある大人であることが条件だったことから、藩主の交代が頻繁になってしまったのです。
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⑵「北風正造」による戊辰戦争からの救済(2024年7月追加)
江戸時代、兵庫の津の豪商だった北風家の北風正造は、明治元年、戊辰戦争で有栖川宮が東征総督として征途につかれた際、駿馬と三千両を官軍に献上。
また、姫路藩が官軍の攻撃を受けて城下町が戦場になろうとした時、北風正造が仲裁に入り、軍需金15万両(1両20万円換算で300億円)と引き替えに紛争を解決。
結果として姫路城は、官軍の焼失から守られます。
⑶明治政府の廃城令の回避
幕藩体制が終了し、無用の長物と化したお城は廃城令でほとんどがなくなったものの、47城だけが学校や官公庁、工場の跡地として再利用され、姫路城の場合は工場用敷地として、城全体が残された。
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⑷地元民の落札と陸軍幹部の助言
姫路城の天守は競売にかけられ、地元民の神戸清一郎氏が瓦などの建築部材用として落札(現在貨幣価値で47万円!)したものの、全ての部材が大きすぎて商売にならず、返還。その後陸軍の中村重遠大佐が山縣有朋などに姫路城(と名古屋城)の文化財的価値を進言して保存が決定。以降昭和4年には国宝に認定され、戦前から戦後にかけて昭和の大修理が行われました。
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⑸太平洋戦争大空襲の回避
昭和20年7月3日、米軍から空襲された姫路市中心地。戦後、空襲した米軍のB29機長(A・トームズ)に「なぜ姫路城には爆弾を落とさなかったのか」聞いたところ、姫路城はレーダーでは「水面」と表示されたため焼夷弾投下対象外にしたという。
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当時のレーダー精度では水か陸地か、しか判別できず、お城の周りにあったお堀のおかげで姫路城は「池や湖」と判別され、焼夷弾が投下されなかったのです(神戸新聞記事より。日本列島大空襲の詳細は以下参照)。
いくじゅうもの条件がすべて合わさった結果、この素晴らしく美しいお城が残ったというわけですね。そんな姫路城も今は世界中で大人気のようで、5月に伺った時は、半分以上は外国人じゃないか、というぐらいの盛況ぶりでした。
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*写真:姫路城2024年5月撮影