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個人の虚構としてのナショナルアイデンティティ
三島由紀夫に関する社会学者宮台真司さんの記事。本当に考えさせられます。
「空っぽな日本」とはなるほどな、と思いますが、一方で全ての日本人が「個人のよるすべ=個人の虚構」に天皇などのナショナルアイデンティティをおくべきかどうか、は私自身疑念を感じます。
ナショナルアイデンティティの問題と近代市民社会の原理の整合性は、アイデンティティが教条主義に陥らない限り有効ではないかと考えていますが、かといってそれを日本人全員にそうあるべき、ともいえない。
近代国家のありようが、近代市民社会の原理に基づく想像の共同体であることは宮台さん自身当然わかったうえで、
日和見的な日本人の「空っぽ」を埋める存在が天皇であるという三島の思想に宮台氏は強く共感するという。
として、日本人は全員心のよるすべとして「天皇」をおかざるを得ない、という認識。
三島由紀夫の以下の言葉は今の日本をそのまま言い当てているといいます。
このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或(あ)る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。
でも私自身は、それでいいじゃないかという感じ。
もちろんいろいろ課題はありますが、世界各国比較的には、経済的にも治安的にも安定していて、基本的人権が法律で守られ、しかも法の支配がある程度行き届いている日本を守る、という視点でのナショナルアイデンティティで十分。
強度の強いアイデンティティが個人の虚構として必要な人は、わざわざナショナルアイデンティティに求める必要もない。かといって否定する必要もない。
「どうぞご自由に。でも強制しないでね」という感じです。
ただ、ナショナルアイデンティティと個人の虚構についての関係性については引き続き勉強中です。
*写真:2020年秋 栃木県 足利フラワーパーク