「兵庫の風土」日本一の日本酒生産地:灘五郷
⒈灘五郷とは
「灘五郷」とは、灘にある酒造地区、東から「今津郷」「西宮郷」「魚崎郷」「御影郷」「西郷」の五つの酒造りの郷を指します。
私が実際に伺ったのは「白鹿」「菊正宗」「白鶴」の酒造。
利酒したいので三の宮の民泊先から尼崎経由で阪神電車を利用して伺いました。
それではなぜ灘五郷で日本酒生産が盛んになったのでしょう。『美食地質学入門』や現地の資料などに基づいて紹介したいともいます。
⒉清酒の生産は伊丹の鴻池家がルーツ
まず初めに清酒は「伊丹」が発祥の地でのちに豪商・財閥となった鴻池家が清酒の大量生産・輸送に成功し日本全体に普及させました。『兵庫県の歴史』(125頁あたり)によれば、
戦国大名尼子氏の勇将、山中鹿之介幸盛の遺児、新六幸元が摂津国河辺郡鴻池村(伊丹市)に土着し、1600年ごろに創始したという伝承があるらしい。
大半の日本酒は濁り酒しかなかったのですが、濁り酒に灰を混ぜて濁り成分を沈澱させた清酒は過去から天野酒(=増坊酒)が存在していたものの、鴻池は杉樽の活用によって大量長距離輸送を可能にし、火入れを行うことで常温での長期保存を可能に。
これにより、主に江戸での販売が可能になり、清酒が日本全体に普及して伊丹は日本一の酒造産地に。
⒊灘五郷はなぜ日本一の酒造産地になったのか
ところが江戸後期になると、伊丹は海に面していて海運に適し宮水(詳細は後述)の発見で品質が向上した灘に江戸での販売シェアを奪われてしまうのです(伊丹では今現在「白雪」「老松」が残存)。
以下、菊正宗記念館の展示などを参考に灘五郷の特徴を「米」「水」「技」「川」「風」「港」の六つのキーワードで整理。
米:山田錦の開発
兵庫県は、お酒の専用米で全国に知られる山田錦の開発・生産地。生産場所の六甲山系の北側は山田錦の中でも最高品種と呼ばれているらしく、良質のお酒が生産できます。
山田錦は、酒の味に適しているだけでなく芯の部分が大きいために同じ重量でもより多くのお酒を生産可能なよう改良されたお米だったので、日本酒の大量生産に資するお米でもありました。
水:宮水の存在
六甲山から流れ出る「宮水(西宮の水の略)」は、日本では珍しい中硬水(=カルシウムなどのミネラルを若干含む水)なので、効率的に大量にお酒を製造することが可能。
六甲山系の伏流水が山麓の砂層を流れる間に、この地層に含まれる貝殻(=主成分は炭酸カルシウム)の成分を溶かし込むのが要因らしい。
水にカルシウムがどれだけ水に含まれているか、つまり水の硬度がどの程度か、によって日本酒の発酵速度が左右されます。カルシウムが多ければ多いほど麹菌の働きが活性化すると言われているため、カルシウムの濃度が高い=硬度が高いと効率的にお酒の製造ができるということ。
一般に硬度が高い水(硬水)を使ったお酒は発酵速度が速いので、キリッとした辛口(=男酒という)になりやすく、硬度が低い水(軟水)を使ったお酒は、発酵速度が遅いので、まろやかな味(=女酒という)になるといわれます。
しかも、宮水には麹菌による糖化の作用を阻害し、色を濃くし、風味を悪くする鉄分がほとんど含まれていません。
西宮神社の南東側一帯から出る湧き水=宮水は、櫻政宗の山邑太左衛門が江戸時代末期に発見。灘五郷では、宮水のおかげで効率的に江戸っ子好みの辛口のお酒を大量に作ることができたのです。
神戸地区三郷(魚崎郷、御影ごう、西郷)では、住吉川の上流部に取水口と排水池を設け、醸造専用水路を敷設(『大学的神戸ガイド』162頁)。
技:丹波杜氏が引き継ぐ伝統の技術
実は、灘五郷で実際にお酒を作っているのは灘の人ではなく丹波杜氏。日本には杜氏が各地に存在し、丹波杜氏のほか、但馬杜氏、越後杜氏、媚中杜氏、出雲杜氏など。丹波とじの農閑期の11月末から翌3月までの約100日間、灘に出稼ぎにやってきました(現在は機械化されて通年になっている蔵もお多いらしい)。
酒造りは、明治時代に開発された、乳酸を添加してアルコール発酵を促す製造方法(速醸酛という)や、機械化技術がなかった時代は、早朝から深夜まで続き、「寒造り」という寒い環境での作業と、麹室での汗だくの作業とがセットになった重労働。しかも熟練した技術者・労働者ではないと手に負えない作業でした。
中でも丹波杜氏は、丹波の厳しい自然環境下、農作物の収穫が少ないため、江戸時代中期より多くの人が冬場の農閑期を利用して杜氏として出稼ぎ。最盛期の明治時代には、約5000人の丹波杜氏や蔵人がいたらしい。
丹波杜氏は全国的にも優秀な杜氏だったので、明治時代以降は灘五郷以外の酒造を指導するなど、酒造のトップリーダー。
川:六甲から流れる急流
六甲山から流れ出る住吉川などの川は急流なので、これまでの足で踏んで精米していた方法ではなく、水車を活用して酒米を精米したため、より大量に効率的に酒を作ることができたという。
今は、エネルギーが水力そのものから、電気やガスなどに転換したため、急流川の恩恵はなくなりましたが。。。
風:六甲おろし
気象庁の神戸市の風速データをみると、神戸は年間通してずっと秒速3.5mの風が吹くという、外海に面していない都市としては珍しい強風の地域。ちなみに大阪は、年間平均秒速2mだし、姫路は同2.3m。
この風は六甲山から吹き下ろしてくる、阪神タイガースの歌で有名な六甲颪(おろし)という風で、特に秋から春にかけて強風になります。
でもこの強風もお酒作りには欠かせない気象条件。蔵の窓を開ければ常に一定した強い風が蔵を通るので、窓の開閉だけで酒造の温度湿度の管理ができたのです。
これも今は、空調設備のおかげで、その役割を終えたでしょうが。。。。
港:西宮の樽廻船問屋
江戸時代後期には江戸で消費された日本酒の8割は灘五郷産だったといいます。従来の日本酒の生産地、伏見や伊丹と違い、生産された日本酒はそのまま西宮の港から出荷することができたため、一気に大量に一大消費地、江戸や大坂に出荷することができたのです。特に江戸方面に向かう酒は杉樽の杉の香りが輸送中に日本酒に移り、さらに味わいが増したといいます。
⒋灘五郷が育んだ文化
灘五郷の人材育成の象徴が、関西屈指の名門校「灘中高」。御影郷の菊正宗嘉納家と魚崎郷の櫻政宗山邑家の意志を受けて創設。
前回紹介した芦屋市のフランク・ロイド・ライト設計のヨドコウ迎賓館は、元々は櫻政宗山邑家の8代目山邑太左衛門が、1918年に別邸としてライトに依頼した建築(ライト帰国後は弟子の日本人が担当)。
また旧住吉村の白鶴美術館は、白鶴嘉納家の7代目、嘉納治兵衛が収集した美術品を展示した美術館。
そして柔道の父とも言われ、最初の東京オリンピック招致に尽力した嘉納治五郎は、菊正宗及び白鶴の嘉納家一族の出身。
などなど、灘五郷のアルコール製造会社は社会貢献に熱心で、これは今のサントリーやキリンなどにその伝統が受け継がれているように感じます。
⒌灘五郷と阪神・淡路大震災
日本酒生産の25%を占めるという日本酒のメッカ「灘五郷」でも震災の影響は甚大だったようで、昔ながらの酒造りの現場は全壊する酒造もあるなど。震災前に60蔵ちょっとだった酒蔵は震災を経て、2017年時点で26蔵に激減してしまったとのこと。
例えば「菊正宗」の場合は、江戸時代に建てられた旧記念館が全壊。保管していた文化財の約9割は修復可能だったとのことで、一つ一つ従業員の手で掘り出し、清浄し保管したそうです。現状の記念館は、1999年に鉄筋コンクリートをベースに建てられ、保管した文化財を再展示に至ったそう。
このように、灘五郷は大震災の困難を乗り越え復興し、今なお日本酒作りの聖地として君臨。私もしっかりお土産で買わせていただきました(以下、珍しい常温保存可能な生酒)。
以上、次回は、「神戸=兵庫+神戸」について紹介したいと思います。
*写真:灘五郷の白鶴酒造資料館