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マット・リドレー著『徳の起源』その1:徳は利己主義から生まれる

<本書の概要>

徳は、もともと人間が保持している遺伝子のなせる業なのかどうか、をゲーム理論はじめ様々な理論と動物の生態含む事例に基づき論を展開した「遺伝子功利主義」ともいうべき著作。

ここでいう「徳」とは「利他主義」のことを指す。つまりギリシア哲学の徳(アレテー)や儒教の「徳」とは違う概念(この二つも違う概念なのでややこしい)。

<コメント>

私の敬愛する科学ジャーナリスト、マット・リドレーが約30年前(1996年出版)に著した書籍ですが、今読んでも実に真っ当な内容でした。

最後の文庫版解説でも監修者の岸由二が述べているごとく、本書は社会生物学の古典で、リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』や、ウィルソン『人間の本性について』などに続く社会生物学の代表的著作。

これらの基本的考え方によれば、私たちが「」といってる利他主義も、人間の保有する遺伝子が継承してきた人間という種(ホモ・サピエンス)が生き残っていくための一つの先天的能力だ、という。

半年前に読んだジョセフ・ヘンドリックの『文化がヒトを進化させた』では、ホモ・サピエンス固有の遺伝子は、進化と文化進化の共進化によってさらに環境適応が強化されてきた、ということになります(詳細は以下参照)。

さらに、人間を人間たらしめる社会性は、7万年前から3万年前にかけて起きた遺伝子改変による認知革命(=言語の獲得)がもたらした「虚構」によって成立したと歴史学者のノヴァル・ユア・ハラリはベストセラーの「ホモ・サピエンス全史」でいう。

認知革命の結果、ホモ・サピエンスは噂話の助けを得て、より大きくて安定した集団を形成した。

『ホモ・サピエンス全史』第2章

言語を操るようになって人間は虚構、つまり架空の事物について語る能力が身につく。

虚構のおかげで、私たちは単に物事を想像するだけでなく、集団でそうできるようになった。聖書の天地創造の物語や、オーストラリア先住民の「夢の時代」の神話、近代国家の国民主義の神話のような、共通の神話を私たちは紡ぎ出すことができる。

同上

さて、なかでも本書のテーマとなる「徳=利他主義」について以下展開。

▪️利他主義も利己主義から生まれる

私たちは「私たちの遺伝子を将来に残していくために存在する」という生物学の視点からみると、利他主義という本性は、ヒト遺伝子の強みのひとつになっている、という。

したがって「利他主義は手段」であり、その「目的」は遺伝子の生き残り。私たちが「人助けをしたい」「困っている人を助けたい」という利他主義の形質を保持していることで人は社会を営むことを可能にし、環境適応。

なので自分の遺伝子を受け継ぐ自分の子や孫に対しては、この本性が特に強く表出。

世界のどこでもかしこでも、子供に財産を残すことは人が富を得ようとする動機の一つになっている。このような人間の本能は消えることはない。・・・こんなにも明確な行為であるのに、この寛大さの動機を古典的経済学では説明できない。

『徳の起源』40頁

なんとかして遺産を子供達に相続させようとお金持ちは必死になりますし、自分は犠牲になってもなんとか自分の子供だけは助けたい、という親心も、遺伝子を後世に残していきたい、というまさにヒト遺伝子のなせる技だということです。

つまり遺伝子の利己主義が私たちの利他主義(=徳)の起源だということ。

著者曰く

われわれは自己の集団のために犠牲にするようにデザインされているのではなく、自分たちのために集団を利用するようにデザインされているのである。

本書293頁

▪️社会的生物「アリ・ハチ」の事例

利他主義視点でみると、利他主義は人間だけが持つ特性ではありません。アリやハチも同じ。

アリやハチは女王を中心にした巨大な集団を形成することで、生き残ってきた種です。そして女王だけが子孫、つまり自分の遺伝子を残すことができます。

働きアリや働きバチは、自分の子孫を残すことはできない、つまり自分の遺伝子は残すことができないのに必死に自分の集団のために働きます。これは自分の遺伝子の一部を保有する女王アリや女王ハチに自分の遺伝子を託すという戦略から。

アリたちが熱心に行なっている生殖の分業、つまり子供を産む個体と子育て係の間の作業分担である。

同上65頁

アリやハチの利他主義は、女王に自分たちの遺伝子を託することで成立している種ということでしょう。

▪️「やり投げ器」を発明して私たちは社会性を身につけた?

上述のように血縁関係には利他主義が働きやすいのですが、一方で血縁(あるいは遠い親戚)でなくても、つまり一緒に生活している仲間にも利他主義が働きやすいのが人間の本性。

逆に仲間でない人間には敵意が生じ、殺すことも厭わないのが人間の本性。なので争いが絶えないのですね。つまり争いを防ぐためには敵より圧倒的に強大になって相手が争うのを諦めてもらうか、または全員味方=仲間にしてしまえばいいというのが平和に対する生物学の教えです。

ではこの本性はどこからきたのか?それは約5万年前の「やり投げ器=アトラトル」の発明が利他主義を強化するそのきっかけになったという。これは非常に面白い(5万年前→言語の発明と同じ時期)。

やり投げ器とは弓矢の遠い祖先であり、最初の発射式武器。

やり投げ器を発明したことで、今まで集団で狩りをしていたマンモスなどの大型動物が、自分の身体を傷つけずに簡単に単独で捕獲できるようになる(結果としてマンモス含む多くの大型動物は人間によって滅ぼされた)。

ところが捕らえた大型動物は、一人あるいは家族だけでは到底食べきれません。そこで残りを他の仲間に分け与える、という行為が生まれます。

マンモスのような大きな動物なら多人数の集団でも分けあうのに十分な肉がとれます。というか大きすぎるために分け合わないわけにはいかない。

そして今のように冷蔵庫もないのでナマ肉はすぐに腐ります。したがって獲物はその場ですばやく食べ切る必要があるのです。

つまり、やり投げ器の発明によって私たちは初めて共有財産を持つようになったのです。

当然、獲物をとらえた殊勲者は賞賛されます。ところが今のように特別に報奨金が支給されるわけではありません。何が殊勲者の利益をもたらすのか?それが「名誉」であり「女性(狩猟は歴史的にも万国共通の男の仕事)。

彼ら(ハザ族)の動機を冷酷な経済学的観点から眺めることは可能なのである。彼らはキリンの肉を、長く使えてしかも価値の高い、名誉と呼ばれる品物と交換している。これはあとで異なる特典と交換できるものだ。こうした理由からリチャード・アレキサンダーは有形の利益を無形の利益に交換することを「間接的互恵」と呼んでいるのである。

同上183頁

余剰は、他人に物を与えるという利他主義を生み、その報酬として狩猟者に名誉と女を与えた。これがルーツオブ利他主義。

つまり利他主義は必ず何らかの報酬が当てにされている互恵主義的性格を持つということ。著者によればこれは現代でも同じだという。

その詳細については次回展開します。

*写真
和歌山県太地町立くじらの博物館(2022年5月撮影)。
著者によれば、イルカは集団で敵集団を攻撃してメスを盗む狡猾な生き物だという。


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